牡丹、松葉、柳、散り菊(現代ドラマ)

 金木犀きんもくせいの香りがする。

 なんだか良い香りがしていたのは分かっていたけれど、何の香りか言い表せなかった。

 こうやって、秋は小さく忍んでやってくるのだ。

 秋が近づいている。しかし全ての夏が退陣した訳でもない。

 燃え尽きようとしている夏が様々にして五感を介し僕を揺さぶり、そしてしろばいのようになり果てる。

「また、いつか」

 と、五感を経て心中に留まるメッセージ。

 答えにならずわだかまる返事が溜息をつかせる。そして、また香りを吸う。

 秋は夕暮れ。

 清少納言の枕草子にはこうある。

 彼女の文章は勝気な印象を受けるが故に、枕草子を全て読んだことはない。

 しかしながら、春夏秋冬の徒然を連ねたこの個所はそれでも僕の心にみ入る。

 今、僕は祖母の墓前にいる。そして夕暮れはとうに過ぎた。

 彼岸ゆえかもしれないが、長年墓参りに対して不精を働いた後ろめたさもあるからだ。

 祖母のことをばあちゃん、と呼ぶこともあったが、僕だけはもっぱら「はっちゃん」と呼んでいた。

 初惠はつえという名前だったので何気なく、はっちゃんと呼んだのだ。

 はっちゃんは、

「あら、お友達みたいね。嬉しいわ」

 と喜んでくれた。

 僕が思春期に入ったころに聞いたが、僕が幼子だった当時、はっちゃんの昔ながらの友人は一人もいなかったそうだ。

 昔々、ファットマンが皆殺しにしたそうだ。

 はっちゃんはそのとき、一時的に福岡にいたらしい。何故かはわからない。

 今はいない祖母に聞くことはできないからだ。

 運によっては、はっちゃんが殺されていたかもしれない。

 はっちゃんの家は多摩のとある場所にあった。隣の雑木林も含めて庭だった。

 このことについて裕福だったのかと指摘されることもあるが、これは金額以外の意味も含めて否である。一人で庭を手入れし掃除するのは並大抵の苦労ではない。正直に言って、くたびれる庭だ。

 秋は落葉。

 妹、弟を連れ立って自衛隊ごっこをする。土と枯葉にまみれるのは言うまでもない。

 自衛隊ごっこというのは、だるまさんが転んだ、をひたすら匍匐ほふく前進で行うだけのことだ。子供だった我らにとっては匍匐前進は自衛隊の象徴だった。

 土塗れになるとはっちゃんは笑っていたが母は叱った。特に僕を。

 理由というほどでもないが、長男と隊長は責任重大なのだ。

 ただ、自衛隊が落ち葉をかき集めるだけならば母は文句を言わず、はっちゃんはさつま芋を用意してくれた。つまり焼き芋が始まる。

 今思えば、これで現在では機会に恵まれないものを習得することができた。落ち葉焚きの作法だ。

 何気ないルールのように見えるが、危機管理の思考をするときはこの落ち葉焚きにまつわる手順を今でも大いに参考にする。

 秋はいつも昼の雑木林。

 雑木林と太陽が秋と親しんでいた。

 しかし夜の雑木林を考えると、花火を手にしたときのことを必ず思い出す。雑木林と夜は、僕と夏を招いていた。

 あの当時、夜の雑木林ほど闇の濃い場所はなかった。

 だがそれも好都合。

 花火という光の彩色を楽しむのであれば文色あいろ分からぬ木々の闇というのは絶好のカンバス。御誂おあつらえ向きの暗がりだった。

 蒔絵まきえのように黒さは親しげで、蒔絵とは違いいろどりは流転るてんし消えていった。

 はっちゃんの庭で随分というほど花火をやった。

 パラシュート花火をこっそり持ってきたが見つかっていさめられたのも良い思い出。

 はっちゃんは最後は必ず線香花火でくくった。あたかも、古来からのきたりのように。

 線香花火。昔はちっとも面白みが分からなかった。当時の僕はひたすら、

「ショボい」

 と口にした。

「いつか分かるわよ。さぁ、やりましょう」

 不満を軽く受け流すと、はっちゃんは線香花火を僕に手渡した。

 最初に僕が、次にはっちゃんが蝋燭ろうそくから火を移すと、最大限動かさないように僕は凝り固まった。

 花火の火球がジリジリと音を立てて膨らみ始める。時を同じくしてブルブルと震える火球が持ち手に振動を伝えた。

牡丹ぼたん

 はっちゃんはゆっくりと告げた。

 線香花火には時間変化で四つの呼び名があるらしく、きたる状態の度に教えてくれた。

 当時の僕は、序破急じょはきゅうや起承転結なんて言葉には縁遠かったが、線香花火一本につき一年があるのだと理解していた。

 パチッ、パチッ、と朝焼け色のたまは火花を散らし始めた。

「松葉ね」

 マツバってなんだろうと僕は思っていた。松の葉であることを知り、実際に確認し、全くもってふさわしい形容をする日本語に畏敬の念を抱いた。日本語の奥への入口へ案内をしてくれたのは紛れもなく、はっちゃんだ。

 やがて、長く細い手を出しては引く火球。

 さらさらという心地のする音と、とめく出る火花の枝。

「柳」

 楽しげで忘れえぬ声。どうして、忘れられようものか。

 チリッ、チリッ、と幾度もとうしょくせんえがいたのちに華やかさは終演を迎え、火球は眠った。

「最後のが、散り菊」

「何でそんなに詳しいの?」

 僕の問い。対して祖母の目は笑った。

「好きなのよ、これ」

 僕の名を呼んだあとにはっちゃんは尋ねた。

「線香花火は嫌い?」

「嫌いじゃないけどショボい。あと、すぐ落っこちちゃうからムズい」

 いと、おかしげに笑ったはっちゃん。

「そうね、人間みたい。大きくなったと思ったら落っこちちゃったりね。難しいわ」

 僕は一つだけ質問をした。

「人間みたいかな?」

 はっちゃんの表情、はっちゃんの声色。今までとは違った方角をみるような視線。

「私のお友達はね。私たちの時代はそうだったのよ」

 僕は吹いた覚えのない涼風すずかぜをひんやりと感じた。

 当時の僕は概念を言葉にできなかった。そして祖母の目に映る蝋燭のともしびが僕の心に叙情じょじょうしたので何も言わなかった。

 あの概念を率直に言うと、

「はっちゃんの友達は死んじゃったんじゃないの?」

 という疑問だった。本当に、言わなくて良かった。

 この日僕は泊まり、弟と妹は両親と車で帰り、僕は次の日に電車とバスを使って一人で帰った。

 はっちゃんは駅まで見送ってくれて、

「また、ご飯食べに来てね」

 と笑顔を向けてくれた。もちろん頷いた。

 今でも悔しいのは、この後の話である。

 はっちゃんはその三日後に、自宅で倒れているところを見つけられた。救急隊がその場で死亡をを確認した。

 話によると死因はクモ膜下出血で、死亡したのは僕が帰った日の夜。

 もしあと一晩泊まっていれば助けられたのかもしれない、という考えに今もなお後ろ髪を引かれる。

 幸運の女神は前髪しかないらしいが、通りで不運に見舞われると後ろ髪が引かれる訳だと最近つくづく思う。

 僕は墓参りに来ている。

 実は、一人で墓参りに来たのは初めてで、盆でもないのに夜に来るのも初めて。

 今日の特筆すべき持参物は線香花火とキャラメル。

 まず、キャラメルを墓前に置く。このキャラメルは祖父への手土産。

 かつて祖母と母の会話から祖父がキャラメルを好んで食べていたことを知り、とある盆の墓参りに行く際に隠れてキャラメルを用意し、そして供えた。

「優しい子ね」

 と、はっちゃんは褒めてくれた。

 そして、帰り際にキャラメルを手に取ったはっちゃんは、

「目の前で溶けちゃうと、おじいちゃん悲しむから食べてあげて」

 と僕に渡してくれた。

 あの優しさを、僕は忘れない。

 思い出に浸ったあとで線香花火、マッチ、蝋燭と蝋燭立てを取り出した。ライターよりもマッチの方が風情がある。

 線香花火を持ってきた理由。

 この行動のきっかけには友人の話がある。

 丁度、去年の盆の頃に友人らと談笑をしていたときに一人が、

「墓参りに行ったら花火やるよね」

 という発言をしたことだ。

 僕を含め皆はやらないと言うとその友人は大変驚いたのち、

「東京ではやらないんだね。長崎ではみんなやってたよ」

 と納得していた。

 僕は今日、友人である彼女の発言を借りている。

 だから、墓参りに線香の名が付く花火を持ってきている。

 蝋燭を立て、マッチを火に灯す。

 花火の先端をともしびに角度を付けて触れさせると、火薬が一筋の炎を吹いた。

 牡丹が始まるのだ。

 プルプルと震える火球。じっと見つめる僕。

 のち、松葉が次々と栄え始める。

 手を伸ばすかのようにバチバチと火花が散る。

 そういえば、幼い頃はこの松葉の手に自分の手がはたかれて火傷やけどしそうで怖かったことを思い出した。

 今はたとえ、松葉が手をはたいてもこの花火を落とすものか。

 次第に音がせせらぎのように流れ始める。

 柳。

 起承転結でいうならば、ここが転の場所。

 盛者は必衰す、故に散りぬる菊の花。

 散り菊の終盤、心が少しだけ緩んで、漏れる言葉があった。

「線香花火って、いいね。はっちゃん」

 やがて火球はしぼみ、名残りて消えた。

 硝煙の匂い、夜風の冷たさ、三日月の明るさ、木の葉が転がる音、紙縒こよりを持つ感覚。

 言い知れぬこの最中さなかに、硝煙を退しりぞけて金木犀が香る。

 ああ、がためのカタルシスだろうか。

 僕がその場をしばらく動けなかったのは、時々匂う硝煙がノスタルジアで心を揺さぶったからだった。

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