一瞬で海が煮えたぎるような激情を(現代ドラマ)

 拝啓

 東京は梅雨の頃だと思うがいかがお過ごしか? 今、手紙を書いているところは畑に囲まれた場所だ。天気がいい。出向が終わればまた東京に戻るだろう。

 ここでは麦を収穫した後に米を作るらしい。だが今はまだ麦が風で揺れている。波のようになびくのだ。手紙を書く前に調べたら、麦浪ばくろうと呼ぶようだ。心地がいい。心が音に揉まれるうちに気持ちがぐのだ。おかの中にも波打際なみうちぎわがあるとは知らなかった。

 さて、君の手紙を拝読した。相変わらず風変わりだと正直思った。だがそれなりに切迫しているようである。

 小学生からの縁は三十路になっても続いているのだから何とか力になりたい。

 助言はするが使えるところだけ使え。

 使えないところも寝かせておけば醗酵はっこうしてチーズになっているかもしれない。そのときは会った折にでも二人で酒のさかなにしよう。

 では本題に移ろう。

 とどのつまり、会社の同僚から始まり今やあらゆる人間に対して君は怒りや不満を抱くようになった。そして、これまでにないほど心を張り詰めさせているという認識で相違ないな?

 それを俺に宛てた文中で、

「一瞬で海を煮えたぎらせる激情」

 と表現している。

 確かに由々しき事態だ。ツァーリ・ボンバも真っ青の破壊を伴う。

 君は清廉潔白だ。故に激しい怒りを覚えるのだろう。

 そこも含めてどこか風変わりだ。

 俺が中学生の頃、虐められていたことを知り共に戦ってくれたことを覚えているか? 

 虐めた奴らや呑気な担任教師、怠け癖のある校長と戦ってくれた。

 あの時も君は十分清かった。

 この際だから言うが当時、君が味方として教育委員会の人間でも弁護士でも互いの両親でもなく、週刊誌の記者を迎え入れたのは大変に驚いたものだ。

 だが『ゴシップの一撃』を食らった奴らが見事に左遷されたのを生涯忘れない。

 我々は十分大人になった。

 現在では君の清きに更なる磨きがかかっているようだ。まさしく、そうだろう?

 この問題は『水清ければ魚住まず』という一言に尽きるのだ。他の例えもある。

 土が汚い、という考え方にまず君は異を唱えまいな?

 土に触れた後、手を洗わなければ食中毒に陥ることから分かる。

 ところが食物しょくもつというものは大地なくして得ることはできない。基本的に、な? だが結局は得ることはできないのだ。

 魚介類も同様だ。土は木々を育み、それによって海が栄える。

 土というものは我々の一部だ。我々だって土からできているようなものだ。

 だから我々には汚い部分がある。

 君は清くなっていくうちに怒りやすくなっているように思える。

 汚を憎み、清のみを許すのはよせ。

 清流に住むヤマメをも滅ぼしかねない純度だ。

 清濁を自分の思うままにする境地こそ人の規範たると思え。

 俺から言えるのはこんなものだ。あとは菜根譚という書物を読むといい。お勧めできる本である。

 今、麦浪を耳にして我に返ればこんな文章になっていた。説教臭くなってすまない。


 最後に一つ。


 もし、一瞬で海が煮えたぎるような激情を持つならば、百年や千年もの間に訪れる冬の度に、家々町々を凍てぬように暖めるような心持で人々と接したらどうだろうか? 

 熱量は変わらないが、一瞬と千年では長い方が器が大きく見えるだろう?

 それでも激情が手に余るならへそで湯を沸かすことに興じるのもありだ。

 俺は君から一報たまわれば、ふさわしい茶葉と共にはせ参じる。

 そのときはティータイムとしよう。

 またな。

                            敬具


 令和三年六月一日

                          君の友人から

 俺の友人へ

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