第7話(上)エンディング・ワズ・ゴーン

 典人が死んでから二週間が経とうとしている。

 日差しはすっと立ったように真っすぐだからあらゆる影が身を潜める。こんな日々の中で死んだ。

 約二週間しか経っていないはずなのに、まだ日差しが夏の盛りを失っていないはずなのに、せみの声が失われたように夏は黙りこくっている。こう感じてしまう。

 妻に先立たれ、挙句には自分の息子も交通事故で失った。私の心は夏のいびつな虚無の声に目一杯めいっぱい共振した。

 月が替わって九月になっても、暑さは九月が終わるまでは続くだろう。もし蝉がいたとしても、その声は九月なかばで絶え果てるだろう。

 私は受け入れられていないのだ。自分の心にぽっかり空いた穴の形の歪さを。

 老いた者から死ぬべきなどと私は口にしたりなんてしない。こんな古めかしい言葉をばら撒いたところで無益だからだ。あたかも畑に塩をくような言葉でしかない。

 典人はこれからきっと大成してくれる。こんな大きな期待をしていた。不慮の事故で帰らぬ人となった息子を想う。

 無常という言葉に横っ面を張られたかのよう。線香花火であるかのよう。大きく大きく育った火球をしっかりと揺らすまいと握った手の先で、ぜる火がぽとり、と不自然なタイミングで落ちゆくよう。

 無常の矛先は果たして無作為に選ばれたものなのだろうか、と疑いたくなる。

 西日が強く赤くベランダからキッチンまでを一直線に照らしている。

 私はソファーにうつむいて座っている。斜陽の光が黒さを帯びていく中で、自分の中にただ静かに静かに息をしているだけの何かを感じた。

 じりじりとしびれているようなこいつが心地よかった。

 熱を帯びていたものが、だんだんと冷えて固まって、二度と元に戻らなくなる。

 私もそうでありたいと願うことが、ただただ何物にも代えがたいほどに心地よかった。

 ただ何も考えたくない。老体の私は明日が来るのを呪い、やがて上半身をソファーの左側へ横たえると涙を流しながら眠っていった。

 それから。

 日は暮れてしまっていた。

 目を覚ましたのは真夜中。意識は渇きに捉われていた。だから、ただ水を欲しがる喉のために目を覚ましたのだ。

 汗を多くかき、シャツやズボンは肌に張り付くほど湿っていた。

 真夏の夜の夢から覚めれば星を散らした夜を見る。

 エアコンを付けていなかったため、室内は息苦しく思うほど暑かった。おまけに湿度も高い。

 台所に向かい、蛇口からグラスへ水を汲み、勢いに任せて飲み干した。三べん、これを繰り返した。

 若かりし頃とは違い、無理はすぐさま身体を不調へ追いやる。この対策として早寝早起きを心がけてから夜更かしをしなくなった。

 だから、このようにリビングでうたた寝をすることも、夜けに着の身着のまで目を覚ますこともない。もし若い頃だったらシャワーを浴びてから着替え、夜明けまで読書や映画に興じただろう。かつてはそうやって夜長にあらゆる作品をあさるのが好きだった。

 今ではもうできなくなったのだ。

 それなのに、今の私は真夜中に呆然とぽつんとしている。部屋は照らさず、されどガラス戸から漏れ入る夜景のともしびがうっすらと部屋に輪郭をしつらえる。

 別の窓から外をのぞく。雲はなく、星はよく輝いていた。赤く点滅しながらゆっくりと移動しているものがある。飛行機か、はたまた人工衛星だろう。

 それから視点を足元にえてしっかりと見た。

 裸足で、しわの多い足。

 うっすらと照らされた足は、青白くて死にかけているよう。

 冷たい彩色から、私の心はあらゆる現実を意識し始めた。

 二年前、妻に先立たれたこと。

 息子さえも先に死んでしまったこと。

 私はすっかり老いたこと。

 これらの事実をまだ受け入れることができていないこと。

 あっという間に秋が来て、日のつる落としなる頃が訪れること。

 これら意識したことが私に及ぼしたのは思い出させることだった。

 昔の典人を、昔の自分を。

 巻き戻した記憶、それに再生ボタンを押したように、頭の中でかつてあったことをするすると紐解いていった。

 大学生だった頃、私が師のように仰いだ人と出会った。

 当時の日本の環境を知りたいのであれば、一九六〇年代後半から七〇年代前半のことを調べてみればいい。

 スマホなんてもちろんない。支払いは現金が当たり前。パソコンはない。ワープロなんて今では廃れたものすら現れていなかった。

 文字数二十六文字の英語圏ではタイプライターを用いた。今ではミシンやプリンターで有名な企業もタイプライターで有名な企業だった。二種の仮名文字と漢字を用いる日本は手書きに頼った。他にも諸々あるが、さしあたってはそんな時代だった。

 そして師というのは私が通った大学の教授だった。

 配属された研究室の主任で、とにかくれいな服装を好む人。常にジャケットを羽織り、どの夏の暑い日にも脱がず、むしろ熱い珈琲や紅茶を音を立てず飲むのだ。夏だというのに汗をかいているところを見たことがなかった。同じ研究室の連中にも聞いたことがあったが皆同じく見たことはないらしかった。

 師は白髪交じりの髪型を乱すことなく、整髪料でべっとりと押し付けることもなく、いかにも無理ないように整えていた。

 服装もしかりで整っていた。それは何を選ぶかではなく、ひとえに着こなしていた。非の打ちどころなく紳士だった。

 同じ研究室の学生だけ酒を飲んだとき、よく話題になるジョークがあった。

「卒業までに、あの人が寝癖をつけて研究室に現れるのと、地球に隕石が落ちる確率ではどちらが低いか?」

 というものだ。

 寝癖と比較する事例が間違っているとは思ったが酒の席だったから天井を眺めて酔いが回っているふりをした。呼びかけられても生返事をしておけば、放っておいてくれる奴らだったからだ。

 だがどちらの事象も、極めて低い確率であるのはことさら正しかった。

 私は二十二歳だった。でも、あの白髪交じりを悔しく思った。この心情を、自分でも理解できなかった。されど格好良く思い、憧れていた。

 今の私は対を成している。あらゆる乱れを身にまとっている。

 当時の教授は幸いにも私に対して少しばかりの興味を持っていたようだ。

 では何がきっかけで私は目をかけられたのか。

 大方、大学四年生になる年の三月に、つまりは三年生最後の月に行われた個別面談でのことだろう。

 教授が自分の研究室に配属される学生に対して行ったものである。これ自体大学の慣例に近しい。他の研究室へ配属された友人は形式的かつ簡便すぎて、ただただ挨拶を交わしたようなものだったといっていた。

 では、実際に私は何を話したか。

 得意なこと、苦手なこと、日頃よくすること、印象に残っている書籍や映画。口にしたのはこういった話だった。

 私は各々何を答えたか今でも覚えている。

 順に、機械の修理、絵を描くこと、統計学的分析、印象に残っている映画として『七人の侍』を――特に登場人物が最後に放った台詞が忘れられないことを――返事に載せた。

 師はインク壺へ万年筆の先をわずかに浸しつつ、発言を手帳に記した。ざらつきのある紙質なのか、走らせるペン先から発せられる何ともいえぬ音が、耳から私の緊張をほぐしていった。不思議なことに、優雅だった。

 印象に残っている映画についての回答を書き取ると、教授はペンを右手で机に置いた。私から見て左側にあるスチール製の事務用デスク。紙の上を走っているときとは打って変わって万年筆は全く音を立てずに横たえられた。

 正面から見据えて教授は尋ねた。

「君は、日本語の欠点は何だと思うか?」

 論述する題材としては大きくて深い。この議題について私は考えたこともなかった。

 今思えば、まるで現代を生きる日本人に和紙と羊皮紙の違いを問うようなものだった。

 比較するにはあまりにも他の言語、分かりやすくいえば英語を知らないし、使い慣れていない。中学校や高校で習った英語は会話や読み書きの為のものではなかった。旧文部省、今の文部科学省がしつらえたゴルディアスの結び目だった。

 我々はそれを一生懸命にほどいていた。秀才も天才も。様々な解き方を学んでいった。類句ながら快刀乱麻を断つ者はいただろうか。

 だがあのとき、私は欠点となることを探すべく頭の中で英語やドイツ語のたぐいと比較した。これらから、日本語との比較で明らかなことを議論の主眼とは程遠いであろう視点から口にした。

「どう考えても日本語の欠点というのはあらゆる日本人が簡単に満足して使えるようなタイプライターを作ることができない、というところです。もちろん、漢字から仮名かな文字までの何千文字分を至極手軽に扱えるタイプライターが存在すれば困ることはないでしょう」

 教授はいかめしい面持ちをしばしの間たたえていた。のち、ふてぶてしく笑みを浮かべた。

「君、面白いな。逆説による肯定とも捉えられる見解とはね」

 思い当たるのはこれしかない。師にとって私は観察対象だったのかもしれないが、なんとなく気に入られているな、とは思っていた。

 余談になるが他の研究生たちもそれは認めていたようで、

「俺には厳しいし、そっけないのになぁ」

 なんて居酒屋でこぼした奴がいたのだから、やはりそうなのだろう。

 研究室は多忙ながら楽しかった。

 当時、英文でなにかを書く際はやはりタイプライターを使った。

 確か、電動式タイプライターというものだった。色々なメーカーが様々な製品を出していたが、私はあの明るく濃い赤に彩られたタイプライターを忘れられない。きりりと冴えた、あのデザインを。

 卒業論文に取り組む日々は一筋縄ではいかなかった。他の研究室と比べると、あの教授にしてこの厳しさあり、といったところ。

 ただ、楽しかったことは思い出せる。詳細はもう、ぼやけてしまっているからうまく思い出すことができない。年のせいかもしれない。今、抱えている憂鬱のせいかもしれない。

 数少なくも、同じ研究室の仲間や教授たちとの雑談はこざっぱりとしていて素晴らしかった。ひとえに、飾らなくも高尚な雰囲気だったからだ。

 私はちゃんと卒業することができた。学年で一人か二人は卒業論文が通らず、留年する羽目になったが、おそらく今は元気に生きているだろう。

 今となっては、実際に会ったり電話をしたりしてやり取りする人物も減った。

 疎遠になってしまう人の方が多いのだが、死んでしまった友人も少なからずいた。

 思考が脱線しているな。

 あぁ、卒業したところまで回想したのだった。

 卒業に際して、教授は私に祝いの品を贈ってくれた。

 私は研究室に呼び出され、第三者の存在しない一室で祝ってもらった。

 箱入りの万年筆と、私がよく英文を打っていたものに似たタイプライター。

 万年筆には私のイニシャルが彫ってあった。これだけでいくら支払われたのだろうか。

 本当に、恐れ多い人だった。

 何か言葉を発しようとした私に対して、師は微笑みながらすっと人差し指を口元に立てた。

『皆にはいうなよ』

 と、私は受け取った。

「タイプライターはおまけだ。何せお古だからな。貰ってくれるとありがたい」

「そうなんですか?」

 という言葉はするりと口から出た。

「新しいものが欲しくなってな。まぁ、私は物欲の強い人間だ。人助けだと思って貰ってくれたまえ」

 という言葉が、にやりと笑った口元から発せられた。

 ただ、そのまま持って帰るには字面通り荷が重かったので、万年筆は当日に、タイプライターは後日友人の車を借りて持って帰った。

「そういうものは、箱に詰めて抱え歩くのが醍醐味だろうに。箱ならあるぞ」

 と偏屈から生じる言葉で教授は口を尖らせた。変わり者だ。知っていた。それでも、揺るぎなく私の師だった。

 タイプライターを回収した日、友人に車を返すとその彼に、

「どんなデートをしたか、今度教えろよ」

 とからかわれた。よくよく思い起こしたなら、車を借りた目的までは伝えていなかった。

 居酒屋で『厳しい上にそっけない』とこぼした奴だからだったから、

「お前をこき使うような人間だから面白くないぞ。やめとけ」

 と返した。そして二人してからからと、まだ寒い三月の夜を笑った。

 思えば大学での始まりも終わりも、からかうような薄笑いをあの教授は浮かべていた。

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