第5話 ディー・フロイデが呼んでいる

 典人のヤロウが死んだ。

 先週の月曜日にスポーツカーにかれた。

 何をミスったのか知らねぇが、時速七十キロメートルで交差点に突っ込むポンコツがどこにいる? 人をねるなんて以ての外だ。

「バカヤロウ」

 この言葉だけが尽きなかった。疲労も加わって余計に苛立たしい。

 昔だったらタバコをふかしていただろうが、今はもうきっぱりと止めた後だ。怒りに釣られて一服したい欲求をこらえる。

 典人について思い出すこと。

 有能で、物腰が柔らかい奴だった。あいつの同期だった中川は既に独立し、後輩である長田は典人に惚れてた。見りゃ分かる。長田もかなり落ち込んでいたが、まぁ今日の様子を見た限りだと立ち直ったようだ。

 今日の風は穏やかだ。風の強かった日とは違う。窓の外、ビルばかりに囲まれた道をさまざまな車が走っている。

 あいつが恋人と同棲する前は、行き先を決めず何度も走りにいった。ドライブとは名ばかりの、レンタカーで行う路上教習だ。俺の車は惜しかった。

 というのも、きっかけたるあいつの言葉にある。

「前に優と一緒にドライブに行ったんです。そしたら、彼女酔っちゃいまして」

 言葉に偽りはなかった。

 最近でこそ昔の話になったが最初のころは本当に最悪な運転だった。ハンドルは人並みだったがアクセルとブレーキはクソッタレ。急加速と急停止の繰り返しなもんだから、そりゃ酔うに決まってる。

 いつもの振る舞いからすれば至極意外だった。

「お前、何でもそつなくこなすくせに。下手なこともあるんだな」

 初回の運転後に俺が伝えると、典人はバツの悪さを乗せて煮え切らない笑みに示した。

「僕は元々、センスも要領も悪い方なんです。後からどうにかして、今があるんです」

 つまりは自身が天才肌であることを否定していた。

 なおかつ、そこにはもう一つの意味が込められていた。

「つまり?」

 ほんの少しばかりの冗談として、意地悪く尋ねた。

「まぁ、経験でどうにかなってます」

 あいつのこの言葉、俺だったこう表すだろう。

『センスは勝ち取るものだ』

 あいつは頭が良い。そのくせ、センスがどうしようもなく悪い場合もある。にもかかわらず、本腰を入れれば立ち所に直してしまう。これは、ひとえに頭の良さががあるからではないか?

 君子豹変す、ということわざを体現していた。

 これらの要素をを全てかんがみれば、やはりあいつの頭の良さだってほとんどが、或いは全てが後天的要素で出来ていたわけだ。

 努力というか研鑽けんさんが見えないから、周囲には生まれつきの賢さだと思われちまう。

 この誤解は、正直キツかっただろう。説明すれば理解を得られるとは限らないからだ。

 典人と俺は日頃からよく話をしていた。

 俺にならバイクや車、そのエンジンについて語らえたというのも理由の一つだろう。

 あいつには大きな夢があった。

 その上で、必要な話だったし必要な感覚や技術だった。

 一度話題を戻すが、職場の人間は典人を万能な人間かのように思っている奴が多い。だがこれは違う。

 あいつは苦悩を見せないすべに長けているだけだ。呼吸というものを知っている。苦しい奴の呼吸も余裕のある奴のそれも。呼吸とは、直接表現であり暗喩でもある。

 何故見せないのかも、実際にあいつから聞いた。

 割と最近の話。とはいっても春頃の話だ。

「そういえば、龍宮たつみや先輩の名前って特殊ですよね。苗字も名前も」

「まぁな。俺もそう思う」

 あれは休憩室と呼ばれている、自動販売機の並んだ部屋でのことだ。

「頼る人、と書いて頼人らいとなんて、普通は読めないですよ」

 あいつは一口分、缶入りのミルクティーを飲む。吐息を交えるように、

「でも、カッコいいですよねぇ」

 と呟いた。

 乾いた調子で俺は笑った。

「でも最近思うのはよ、同じ字面でも『リュウグウヨリヒト』の方が良かったなってことなんだよな」

 ことほか、典人の返事は遅く、十秒ほどの間を作った。

「歴史上の人物、みたいですね。でも何故?」

 歴史上の人物か。確かに教科書に出てきそうな名前だった。

「この間、宅配の兄さんに言われたんだ。『リュウグウヨリヒトさんですか?』ってな。見かけない顔だったから新人だったのかもな。

 俺が『いいえ、タツミヤライトです』って言ったら、目を丸くしてたよ」

「鎌倉武士みたいで強そうですね、リュウグウヨリヒト。四天王を従えてそうで」

「なるほど。んでもって、お前の頭ん中だと酒呑童子を倒してるんだろ? それは源頼光だな」

 軽やかに笑う典人。のち、

「御名答」

 と発した。下らないことを言い合って、二人で気兼ねなく笑った。

 あいつの台詞は童子切に掛けた駄洒落かもしれないな、とか思いつつも確信がないから口をつぐんだ。

 代わりに発した言葉。

「親は選べねぇし、親のセンスも選べねぇよ。ただし自分の人生とセンスは選べる、だろ?」

 あいつは、

「僕も、強くそう思います」

 と同意した。いつもの笑顔のはずなのに心なしかいびつに映った。目が笑っていないからだと気付いた。

「どうした、なんか変なこと言ったか?」

「そんなことはないです」

 柔らかくあいつは否定した。

「親という単語に反応してしまっただけです。ちょっと訳ありなものですから」

「本当か?」

「本当ですよ」

「まぁ、いつも笑顔だしなぁ。気のせいかもな」

 典人はこちら左方側に視点を据えて、またこちらを向いた。人間が思考の際に取る仕草の一つだった。

「常に笑顔だったら、僕はとっくに潰れていると思いますよ。それは分かってるので大丈夫です。ちゃんと、暗い顔をしてもいい友人もいますし」

 あぁ成程、そういうことか。はけ口があるから、職場では笑い続けることができるのか。

 正直になれるときがなければ、笑顔なんてなんてやってられない。仮に作り笑いだとしても。

 常に笑っていると、助けてもらえないという現象が起こる。困っているように見えないからだ。

 職場での典人だ。

 ただ、必ずこの一辺倒になるわけでもないのが人間の難しいところだ。

 こんなことを思っていると、

「笑顔でいることは、喜びを呼ぶことなんです。僕が喜びを呼べば、喜びも僕を呼びますしね」

 とあいつは抜かした。やっぱりこいつは変わっている。

「なんだそれ。相思相愛か?」

「似たようなものですよ。ちなみに、『喜び』よりも『ディー・フロイデ』のほうが語感は良いですね」

 つまり『ディー・フロイデが呼んでいる』となるわけか。

「その単語の由来は?」

 理由を尋ねてから缶コーヒーを飲み干し、空き缶を専用のごみ箱の中に押し入れる。金属音が耳心地よく響いた。

 この音を合図に、典人は答えた。

「ベートーヴェンのナンバー・ナインからです」

「第九ってことか?」

「はい、そうです」

 あいつも自分の持っているミルクティーを飲み切ると、専用のごみ箱めがけて缶を放り投げた。右ねじが空を進むかのように回転する空き缶は四メートルほど先にある孔に触れることなく吸い込まれた。

 一段と高く、小気味良い音。

「よっ、ナイス」

 俺はそれだけ典人へ声をかけた。

 こんな感じで、典人はいつもの振舞いとは裏腹に、幼い側面も持っていた。風変わりだった面もある。他の場所は知らないが、あの童心を抑圧してまで職場において大人びる必要はあったのだろうか。

 はっきりと言えば、必要性はなかった。皆に受け入れられる個性だったと感じている。

 あいつの夢。あいつの目指している夢についても、たった一人で作り上げるような類のものではない。これから色々な奴を巻き込んでいくところだったのだ。

 喜望峰を目指す帆船が、船長を失うようなものだ。

 あとで、中川には連絡をつけてみようと思う。

 典人曰く、それらに関することは謎解きのように本棚にしまっているらしいが、何のことやら。

 始まりは、これからだったんだろうが。

「バカヤロウ」

 さて、間に合うだろうか?

 いや、間に合わせよう。

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