群像の鳥

上月祈 かみづきいのり

第1話 カナリアは君を見ている

 一週間も昔。制御を失ったイタリア製の高級な暴走車は私の彼氏を蹴とばすようにねて殺した。車は血で濡れてもなお、稲妻のように黄色かったらしい。

 ほぼ即死だと聞かされたけど数秒の苦しみくらいは感じていたはずだ。八月の猛暑日に焦げ付きそうなほどに熱せられたアスファルトの上で体をべったりと横たえていたのだから。

 熱かったでしょうに。

 ひとつ屋根の下で真剣に付き合っていた私の人は死んでしまった。

 冷たい彼と病院の安置室で会ったときに思ったのは、

「生きていれば、二十五度の冷房で問題なかったのに」

 ということ。

 うすら紫の唇が死を表していた。

 三日三晩を泣き腫らすと、心もまなこも涙を流さなくなった。井戸のポンプが壊れたようなもの。

 今日まで、乾燥していた。

 心はもちろん、唇も。

 そのせいで、衝動は今までの躊躇ためらいや恐れをはねのけて彼の部屋へ向かわせ、私がドアノブを勢いよく開けると部屋の空気が出迎えた。

 彼のニオイ。これが、最後の。

 ベッドを見やると、しわくちゃなシーツにだらけるようにこぼれかけた毛布。生活感は生きている証なのだ。

 それがなんだか恨めしい。

 なにかが、こみ上げそう。だが結局、引っ込んでしまう。今の私はやっぱり乾いているのだ。

 心が馬鹿な質問を投げかける。

 まだ生きているのではないか、と。

 なんだか、この部屋の万物が悲しい。

 それでも一歩ずつゆっくりと進み入ったので、ついには部屋の奥からあの人の所有物たる全てを見回すのだった。

 窓辺からの日差しが部屋を明るく照らす。

 強い日差しが際立つような明暗を成し、私が奥から見て左手前にある本棚がかげりの中に身を潜めているのを見出した。

 この明るみの中で翳りに身を潜めているのは逆説的な主張としか見受けられなかった。

 足の赴くままにその翳りの中に身を投じると、しばらくは暗さゆえに何も見えなかったが、のちに目が慣れていくにつれて数々の本のタイトルを識別できるようになっていった。

 様々な小説に方々への興味を見受けることが出来る専門書。辞書、雑誌、漫画などなど。

 本棚は端から端まで本が詰まっている訳ではなくて、所々に余分を残してはベル付き目覚まし時計を置いていたり、絵ハガキを簡素なフレームに入れて飾ってあったりしていた。

 専門書を手に取ると、トランプのハートの8が挟んであった。おそらく、栞としてだろう。

 こういう発想は素敵。こういうことについてもっと話したかった。

 小説は、ほとんどが文庫本で、その中から彼がお気に入りだった作家、サン=テグジュペリの『夜間飛行』を手に取った。

 同時に、洋封筒も一緒にこぼれ落ちてきた。

 ひらひらと舞うことなくひとしずくの水のようにすっと落ちた一通は表面をこちらへ見せて床に横たわった。

ゆうへの覚書おぼえがき

 優、私の名前だ。

 顔の筋肉の動きでわかる。

 私は目をみはるほどに驚いていた。

 口も大きく開き、それを隠すように両手も添える。動きを認知すれば驚いているのは明白で、驚きの動作は喜びのエネルギーでまかなわれていた。

 もう会えない人から遺されたメッセージは期待と不安を呼び起こし、強く速い拍動のみなもとたる心臓の働きを知ることになった。

 もちろん、何が書かれているかなんて実際に見てみないと分からない。

 あたかも、以前彼が語っていた難しい話みたい。箱入り猫の状態は開けてみないと分からないらしい、ということ。

 まさしくそれだ。

 猫の生死は箱の中で融和し、開けることで分離する。

 彼はもう死んでしまった。

 融和しているのは希望と絶望だ。

 彼自身のイニシャルによって封緘ふうかんされた一通を開けると、薄手の白い便箋が収まっていた。

 それを引き出し、彼の字が書かれていることを確認する。

『初めにひとつ。もし僕がまだ健全ならば、ここで読むのを止めてほしい。読み手が優ならば尚更だ。これは遺書よりも幅を利かせた、備えとしての文書だからだ』

 一枚目の便箋にはこれっきり。

 私は少し溜息をついてから一つ分の紙を送る。

 ついでに、

「カッコつけんな、バカ」

 とだけつぶやいた。

 続きはこう。

 ***

 優はどういう訳か、恋愛も含めて愛することと、愛されることを特別なものだと考えている。特殊性を持つ何かだと考えているようだ。

 僕の考えとは違う。優の考える愛は二つとも日常的なものではない。いうなれば御伽おとぎばなしだ。

 日常を書く御伽噺はある。だが御伽噺のような日常はないといってもよいだろう。

 日常と一線をかくす非現実にしか御伽噺はありえない。

 加えて、大抵の御伽噺は昔々の時代に作られたものを継承している。日本にせよ、ヨーロッパにせよだ。

 昔も今も、光と影がある。どちらの方が大きいなんて分からない。分かるわけがない。

 しかしながら、光も影もそれらを成す要素は変わっているはずだ。

 僕は昔のことを多く知っているわけではないし、世界の事情に明るいともいえない。

 しかし想像してみる。すると、ある結論に必ずたどり着く。

 昔の人が現代社会に紛れ込めば、大多数の人間はきっというに違いない。

「夢のような世界だ」

 と。

 優に伝えるにはどうすればいい?

「御伽噺の世界からすれば、現代は優れた部分が多い。たとえ、借金にまみれるように課題だらけの世界に見えても」

 と。

 未来を想像すれば、今を劣っているものと見なすかもしれない。夢を見るという行為に付随する現象だ。

 しかしあえていいたい。僕たちが誰にせよ、全員ではないにせよ、昔が見た夢の中で僕たちは息をしている。僕たちはまさに夢を見ている途中なのだ。

 優は僕以外に、人間ではなく事象ようなものに恋をしている。僕にはそれ以上推し測れない。

 おそらく彼女の中にある、満たされたい欲求を放つ何かが物足りなさを感じているのかもしれない。

 承認欲求だろうか? 日常で満たされない何かが埋め合わせを求める形で御伽噺を求めている。

 口にするのは中々難しい。うまく伝わらないからだ。

 文字にする方が楽だ。だからこうしてしたためている。

 優は魅力的だ。僕が鼻にかけるのは彼女の隣にいられることだ。

 故に僕は自らの意思で花を見守りでるのだ。

 恋人以外の形でも、例えば友人として僕は隣に存在しようとしただろう。

 優の隣にいようとする存在は僕以外にも、どの世界にもいる。それが人間でない場合であることも僕は知ってしまった。

 まだ付き合い始めて間もない頃に体験したこと。

 同棲なんてまだしていないときだ。

 二人で映画を観に行った日があった。

 ショッピングセンターの中に映画館があり、その周辺はさかえもなくさびれもなく、といった感じで近辺にもまばらに商店があった。

 僕がこれから記すのは、ショッピングセンターのすぐ隣にあったペットショップでのことだ。

 映画を観たあと、昼食を済ませた僕らは周辺散策の出鼻にそのペットショップを見つけた。

 優が店内にとても入りたがったので、僕たちは入店した。

 ペットショップ。僕は気が進まなかった。

 動物が嫌いなのではなく、動物たちの臭いがどうも駄目で、特に動物園やペットショップのようなたくさんの動物が集まる場所が苦手だった。

 ちなみに、今でもそうだ。

 優は店の中を少し覗き込んでから楽しそうに先に入っていった。まるで、ちょっと悪戯いたずらをするために入店したかのような、静かで軽い足取り。

 僕も、

「自分だって臭いかもしれないんだぞ」

 といい聞かせながら入店した。

 店内は声ばかりだった。でも言葉としては受け取れない。

 臭いは想像よりもマシだったので、少し胸をで下ろすことが出来た。

 優は、僕を迎えるようにひるがえってこちらに向かってきた。

 その優に対して叫ぶ小鳥がいた。彼女はその鳥に対して、

「こんにちは」

 と微笑みかけた。

 優とやりとりしたあとに、少しだけ自由行動をすることが決まった。

 ペットショップ。僕の苦手な場所。

 そこで釘付けになったのはさっきの小鳥。

 彼女を、ずっと見ていた。まるで、どこかに行って欲しくないというような眼差しで。

 僕は眺めて廻るふりをした。そして、なんという鳥の種類なのかを確認した。

 細かい名前なんて、もう思い出せない。

 ただ、カナリアとの種類であることがわかった。

 僕はカナリアを見ている。

 鳥は、カナリアは優という存在に釘付けになっている。

 僕はこの鳥の中に存在していないだろう。

 カナリアはひたすらに、優がかごの内にいる鳥という存在のことを気にかけずに去ってしまうことのないように切望するだけだ。

 カナリアを観察する僕。

 優に熱い視線を送るカナリア。

 窓越しに犬や猫を愛でる優。

 カナリアは僕を見ることなく、優はカナリアにそのあと一瞥いちべつもよこさなかった。

 その日、僕たちは三十分ほど冷やかしてから店をあとにした。

 一番いいたいこと。

 優の望むような御伽噺はなくても、優は姫君のように魅力的だ。でなければ、僕は恋人にならなかった。カナリアも切望の視線を注がなかった。

 最初に、僕が健全ならば読み進めないでほしい旨を書いた。ここまで読み進めたということは、僕は大事に巻き込まれているのだろう。

 もし、優が優であり続けるのならば、僕がいなくても、カナリアは君を見ている。優が見捨てられることはないはずだ。加えて、カナリア以外にも眼差しはある。

 だから、カナリアが優を見ていたら、まずカナリアを見つめてあげてほしい。

 僕にとって、『優らしい』というのはそのことなのだから。

 ***

 私は彼のいうほどに不満を抱えていたのだろうか。

 私への覚書から目を離すと、彼の部屋が先ほどよりもはっきりと見えた。

 ただぼんやりと部屋を眺めていたのだけど、うまく頭も働かず、額が汗をかき始めたので適当に片付けてから部屋をあとにした。

 でも多分、この部屋にはあと一回訪れる。

 予感と予言が入り混じったような心理作用が、私の中に芽吹いていた。

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