第11話 夏の夜の海岸で ❶

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たけるくん、そろそろ起きようか」


 サラリと頭を撫でられながらそう呼びかけられて、俺はハッと目を覚ました。

 目の前には俺のことを覗き込む未琴先輩の顔があって、涼やかで落ち着いた相貌が窺えて。

 俺は一転した状況に僅かな混乱を覚えた。


「────夢、か……」


 目をしばたかせなが現状を確認し、小さく呟く。

 今はどう見ても日暮れ時。夜の海岸にいた気がしたんだけど、どうやら夢の中の話だったようだ。


 安食あじきちゃんに縋り付いて大層情けない弱音を吐いてしまった、と思ったけれど、ちょっとホッとした。

 ただいやにリアルな夢だったから、こうして目覚めた今も少し頭がぐるぐるする。


 それにしてもはっきりと夢の内容が残ってる。

 鮮烈すぎて実際の出来事とうっかり混同してしまいそうだ。


「……大丈夫? おはようのキスが必要かな?」

「だ、大丈夫です……! もうパッチリなので!」


 ボケっとしている俺を案じてか、いやこの機に乗じてか、未琴先輩はとんでもないことをサラッと口にした。

 それはとても魅力的な起こし方ではあるけれど、その甘美な誘惑に流されるわけにはいかない。

 俺が慌てて飛び上がると、未琴先輩は少しだけ眉を寄せた。


「みんなは先に着替えに行っちゃったよ。そろそろ戻ってくると思うから、片付けしちゃおうか」

「は、はい。すいません、寝ちゃってて」


 みんなで昼食を取った後、満腹感と潮風の心地よさに乗せられてついつい昼寝をしてしまったんだった。

 せっかくみんなと海に来たっていうのに、かなりもったいないことをしてしまったぁ。

 午前中はほぼ未琴先輩と二人でいたし、他のみんなとの時間を全然取れなかった。


 それでもなんかみんなとわいわい遊んだ満足感がある気がしたんだけれど、それもまた夢で見た景色だ。

 リアルで女子たちと海に遊びに来たのに、願望を夢で叶えてどうするんだか……。


 その後、戻ってきた三人と入れ替わるように着替えを済ませてから、俺たちは今回泊まる海の家へと移動し、夕食のバーベキューを済ませた後はのんびりタイム。

 俺は浴場でシャワーを浴びて、部屋に戻る前にロビーのソファでちょっぴり涼んでいた。

 部屋に戻れば女子たちと同室だし、別にそれが嫌だというわけではないけれど、心を落ち着ける時間が必要だと思ったからだ。


「あ、尊くんだ」


 ぐるぐると回っている扇風機の風が気持ちいなぁと身を委ねていると、未琴先輩がひょっこりと現れた。

 彼女もまた風呂上がりのようで、透き通るような白い肌が僅かに上気している。

 ドライヤーをかけたての髪はとてもふんわりとしていて、おまけに全く結わずにストレートに下されているものだから、普段よりも雰囲気に緩やかさを感じた。


「扇風機、いいね。私も真似しようっと」


 湯上がりの色っぽさに面食らっている俺を他所に、未琴先輩は左隣に素早く腰を下ろした。

 肩や太ももが自然と触れ合って、ややしっとりとした温もりがやんわりと俺に押し付けられる。

 シャンプーのものなのか、とても華やかないい匂いがした。


「未琴先輩が髪下ろしているところ、初めて見ました」

「そうかもね。どう? 似合う?」

「普段の髪型もとてもお似合いですけど、下ろしてるのもかなり。そのギャップはずるいですよ」

「相変わらず正直な感想をありがとう」


 その色香に気圧されないように気を張りながら、今の気持ちを曇りなく伝える。

 未琴先輩は僅かに口元を緩めながら、その長い髪を大きく掻き上げて左肩の方に持っていった。

 そうして露わになる耳元とうなじがこれまた異様にあでやかで、ついついその澄んだ肌に目を奪われてしまう。

 そんな俺に気づいて、未琴先輩は口の端を少し釣り上げた。


「図らずも君の視線を奪えたみたいでよかったよ。尊くんはすぐに目移りしちゃうからね」

「いや、今ガッツリ見ちゃったのは否定しないですけど……人をそんな気の多いやつみたいに……」

「水着の女の子四人に囲まれてデレデレしてたのに?」

「それを言われるとぐうの音も……」


 未琴先輩の的確な指摘に、俺はすぐさま降参の声を上げた。

 今日に限らず、現状に甘んじている俺にはそもそも否定する権利なんてなかったんだ。

 ただそれは既に彼女も許容していることだから、「冗談だよ」とすぐに取り下げられた。


「それにしても、海、いいね。実はあんまりいい印象はなかったんだけど、来てよかったよ」


 くるくると風をそよがせる扇風機をのんびりと眺めながら、未琴先輩はふと話題を切り替えた。


「尊くんと一緒に来たからかな。まぁあと、みんなも」

「そう思ってもらえるのは光栄ですけど。あんまり印象良くなかったって、何か悪い思い出でも?」

「うーん、悪いって程でもないんだけどね」


 引っかかる言い方に突っ込んでみると、未琴先輩は小さく眉をひそめた。

 もしかしたら海に入りたがらない理由に関することかもしれない。

 あんまり深入りするのは良くないかなと思っていると、けれど未琴先輩は言葉を続けた。


「昔は私、海の近くに住んでたんだ。こことは違うところね。小さい頃は体が弱くってずっと入院していたりしててね。退屈な、なんの面白みのない病室からずっと外を眺めてたからさ、澄んだ海の景色もあんまり綺麗には見えなかったんだ」

「未琴先輩、昔は病気がちな子だったんですね」


 思えば、未琴先輩の身の上話を聞くのは初めてだ。

 今の迫力満点の決然とした振る舞いからは、入院ばかりの子供のイメージは全く想起できない。

 ただちょっと失礼ではあるけれど、ミステリアスは雰囲気をまとう未琴先輩にはそんな儚さがちょっと似合うなと思ってしまった。


「そうだよ。私は病弱で繊細な、か細い女の子だったんだから。小学校くらいまではほとんど外に出られなかったかな。まぁ今だってか弱い女の子であることに変わりないけれど」

「いや、今の未琴先輩にか弱さの印象は……。どちらかといえば強かで凛としてて、逞しいというか……」

「へぇ、そういうこと言うんだ」


 たおやかな柔らかさを持ちつつも、自分の意思を絶対的に貫いて、それを実行に移せる胆力を持つ未琴先輩。

 堂々としたその振る舞いや、俺に対してぐいぐいと攻めてくる姿勢も、決してか弱い女の子の所作ではない。

 クールで落ち着いた振る舞いがベーシックな彼女だけれど、病弱少女の面影は全くないんだ。


 俺の素直な感想に、未琴先輩はジトっとその重い瞳を差し込んできた。


「私だって女の子なのに。確かにもう昔みたいに寝たきりじゃないけど、男の子に守ってほしい普通の女の子なのに。尊くんはそやって、私のことを太々しい女だって言うんだね。ふぅん」

「いや、そういう意味で言ったわけでは……。というか未琴先輩、現在進行形で自分でか弱さとは真逆なことをしていると思うんですが」


 いわゆるか弱い女の子は、そんな怖い目で見つめてきたりなんてしない。


「そう? 甘えるように健気に見つめて、拗ねていじけたことを言ってる。か弱くて可愛い女の子でしょ?」

「おかしいな。見解の相違にも程がある」


 視線も言葉にも半端ないプレッシャーが込められていて、とてもじゃないけれど愛らしさは感じられない。

 口調は普段通りの柔らかさだし、地の美しさもまたもちろんなんだけれど、なまじそうであるが故に迫力が一級品なんだ。


「────ま、まぁそれは置いておくとして……。じゃあ未琴先輩は、海は馴染み深いけど遊んだりする機会は全くなかった、ってことだったんですね」

「うん、そうだね。私にとっての海は、つまらない病院から見る景色で、だから同じような印象だった。だからこうやって遊びに来てみて、清々しさを知れてよかったよ」


 タジタジしながら強引に話を戻すと、未琴先輩は少し納得いかなそうにしながらもそう頷いた。

 会話は返してくれたけれど、未だにその瞳は俺に強く訴えかけている。

 か弱い女の子扱いしてほしいなら、そう振る舞ってくれればいいのに……。


「楽しんでもらえたならよかったです。ちなみに、今は体調大丈夫なんですよね? 見た感じ元気そうですし、病院通いしてるなんて話も聞いたことないですけど」

「今は平気だよ。小学校を卒業する前に病気は全部治ったし、むしろ前より健康になったかな。でも、私がか弱い女の子だということに変わりはないよ?」

「わ、わかりましたから……」


 ここぞとばかりに話を戻してきた未琴先輩に、俺は観念して頷いた。

 今こうして嫋やかに圧をかけてくる彼女からは、とてもじゃないけど病弱な過去は連想しにくい。

 今だって基本物静かな人ではあるけれど、だからといって弱々しい雰囲気は想像できないんだ。

 なんてったって、ラスボスとか言われるくらいだしな。


 未琴先輩は俺の賛同に満足したのか、口の端を緩めた。

 黒い瞳にも少しだけ恩赦が宿る。


「まぁそれでも、海がちょっぴり怖いのは変わらないけど」

「怖い? そうだったんですか? 波に攫われた経験があるとか?」

「ううん、攫われたことはないよ」


 未琴先輩は妙に濁した言い方をすると、コトンと俺の肩に頭を預けてきた。

 下された髪からシャンプーの芳しい香りがふわりと漂ってきて、とても柔らかな存在感が伝わってくる。

 それにちょぴっとドキッとした俺に、彼女はポツリと言った。


「ただほら、海には人魚がいるから」

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