番外編・手放す時[遥香]

 菜瑠美ちゃんの姿が見えなくなると、堰を切ったように涙が溢れ出す。身体の力が一気に抜けたような、そんな感覚がした。

 しばらく経たないと教室には戻れないかもしれない。もう取り繕うことはやめようと決めたけれど、今はまだもう少し泣いていたかった。

 涙で歪む視界に、ふと何かが差し出される。シンプルな無地のハンカチ。その差し出されたハンカチの持ち主を見て、微かに目を見開く。

 どうしてここに、という驚きと泣いているところなんて誰にも見られたくなかったのに、とこの場から逃げ出したい衝動に駆られる。


「沙綾、ちゃん……?」


 自分でも驚くぐらいの涙声で名前を呼ぶと、沙綾ちゃんは穏やかに微笑んだ。


「これで涙拭いて」


「でも……汚しちゃうの申し訳ないよ」


 沙綾ちゃんの手にあるハンカチは、見たところ真新しい。それを遠慮なく使わせてもらう気にはなれなかった。

 私が断ると、沙綾ちゃんはまるで大事なものに触れるようにそっと自分の指で私の涙を拭う。


「じゃ、これならいいよね?」


 私の返事を聞かないまま両頬を拭い終わると、沙綾ちゃんは予想外の言葉を口にする。


「遥香ちゃん、本当はまだ泣き足りないんでしょ?」


 沙綾ちゃんの言うとおりだった。でも、もう少しで授業も始まってしまう。私はまだ戻れそうにないけれど、私のせいで沙綾ちゃんまで授業をサボらせてしまうわけにはいかない。


「大丈夫だよ。でも、まだ戻れそうにはないから沙綾ちゃんは先に――」


「強がらないでよ」


 沙綾ちゃんは私の言葉を遮ると、悲しそうな顔をして言った。


「私の前では、強がらなくていいんだよ」


 それから、私の身体を強く抱きしめる。何が起こったのか分からなくて目をぱちくりさせていると、沙綾ちゃんは更に腕へ力を込める。まるで、大丈夫だからとでも言うように。


「沙綾ちゃん、授業始まっちゃうよ」


「そんなの気にしなくて良いから。本当は今すぐにでも思い切り泣きたいんだよね?私が全部受け止める……今までの分、全部」


「でも――」


「私は知ってる。明るく見せてるのも、みんなに分け隔てなく接するのも、遥香ちゃんが誰よりも優しいから。誰が見ても完璧に見えて、だけど本当はすごく不器用なことも」


 今まで沙綾ちゃんと一対一で話したことはない。なのに、何でこんなに分かってくれるんだろう。何で優しい言葉をかけてくれるんだろう。

 分からないけど、今まで一度も言われたことのなかった、一番誰かに言ってほしかった言葉を貰ったことで、自分の中で押しとどめていた何かが一気に溢れ出るのを感じた。

 気づけば、沙綾ちゃんの腕の中で子供みたいに思いっきり泣いていた。私がそうしている間、沙綾ちゃんは黙って抱きしめ続けてくれた。自分の制服が濡れてしまうのにも構わずに。


 授業開始のチャイムが鳴ってから、しばらくが経った。

 あれからずっと泣いて、泣いて、何か重たいものを取り去ったようにすっきりした私は、申し訳なくなりながら沙綾ちゃんを見る。


「沙綾ちゃんごめん……その、制服……」


 傍から見てすぐに濡れていると分かるぐらい、涙が染みてしまっていた。


「全然気にしないで、これで遥香ちゃんの心が軽くなったなら何も問題ない」


 いつもの調子で言う沙綾ちゃんに私は疑問に思っていたことを口にする。


「何で、沙綾ちゃん……私にこんなに優しくしてくれるの?今まで菜瑠美ちゃん達含めたみんなで一緒にいることはあっても、二人きりで会うのは初めてだよね?」


「うん、まあそうなんだけどね……私はずっと見てたよ、遥香ちゃんのこと」


 真剣な表情で見つめられて、思わずドキッとしてしまう。その言葉の意味することはなんとなく分かってしまったけれど、自信がなくてわざと遠回りな質問をする。


「えっと……それは、菜瑠美ちゃんから私のことを聞いていたから?」


「それもあるかもしれないけど、私は最初から遥香ちゃんが菜瑠美が言っているような……完璧なだけの人ではない感じがして。気づけばずっと目で追っていた。そんな風に見ているうちに、段々気になっていった……つまり、好きってこと」


 思いの外率直に言われて、照れて動揺してしまう。あたふたする私に、沙綾ちゃんは笑って言った。


「そんな遥香ちゃん、初めて見た。すごく可愛い」


 正直、今まで同じクラスの異性へ憧れに近い片思いをしたことはあったものの、ちゃんと真剣に自分の中の好意に向き合ったことはない。だからこそ、沙綾ちゃんの想いに時間をかけて応えたいと思った。


「あの、沙綾ちゃん……その、もう少しだけ時間をもらっても良いかな?しっかり向き合ってから、答えを出したくて」


「いや、でも無理しなくて良いよ。私は付き合うとか付き合わないとか以前に、ただ好きって伝えたかっただけだし」


 私に気を遣ってくれているのか、それとも本心から言っているのかは分からない。けど、沙綾ちゃんにそう言われてようやく自分がどうしたいのか分かった気がした。


「無理なんてしてないよ。私自身が、沙綾ちゃんの伝えてくれた想いに応えたいって思ったの。もっと、沙綾ちゃんのことを知りたいって思ったから」


「それってつまり、脈ありってこと?」


 沙綾ちゃんの問いに、私は大きく頷く。そうしたら、沙綾ちゃんは本当に嬉しそうに笑って……そんな沙綾ちゃんを見たら私まで嬉しくなってしまったのだった。

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