3F:タルト・レント
軽快なピアノが鳴る。曲名はわからない。
素人の耳でもわかる音数の多さに、鈴の転がるような軽やかなステップとリードする中低音。耳が集中できれば曲名がわかるかもしれないのに、目の前の彼女はそれを許さない。
「ーーでね。って、ねぇ。聞いてる?」
「うん。何だっけ?」
コーヒーカップをソーサーに置き、僕が微笑めば彼女はご機嫌斜めな顔。眉間に皺を寄せても陶器のような肌は美しい。窓際のこの席は日当たりが良くて、困ったことに彼女の整った顔がよく映えてしまっていた。ただでさえ美しいこの佇まいは、小洒落たこの喫茶店を背景にすれば一枚の芸術となってしまうのに……これじゃあ通行人が見惚れてしまうじゃないか。
ああ本当にーー僕の彼女は可愛すぎる!
そんな気持ちは露知らず、彼女は頬をりすのように膨らませる。正直言って年相応ではなかったが、芸術と比喩できる一方で子どもっぽい行為がよく似合う、不思議な愛しい人なのだ。
笑いながらそっぽを向いた頬を撫でれば、急に潰れた変な声が上がった。伸ばした僕の手が掴まれて、信じられないものを見る目が捕獲物と僕の顔を行ったり来たり。
ようやく出てきた言葉は、薄桃色のリップが光る小さな口が数回開いたり閉じたりした後で
「……何するの」
「かわいかったから」
「最低」
「なんで?」
指の背で再度撫でれば、やめてと小さく反抗する。陽光を反射し生まれたエンジェルリングが輝く茶髪も、木々の隙間から覗く青い海もとても綺麗だ。世辞でようやく綺麗と言える程度の日本の海など簡単に負ける透明度。最早うっとりとしてしまうほどの美貌を前に
「かわいいし綺麗だよ」
「誰にでも言ってるくせに」
「な、何で? 僕が言うのは君だけなんだけど」
前を向いた時にはもう、彼女の目も心も離れてしまっていた。改めて膨らんだ頬は決して潰れまいと張り詰めていて、その幼稚さに笑うと同時にようやく戻ってきたのは非難がましい目。
こうなった彼女は折れないと知っている僕は、両手を挙げ降参のポーズ。
「ごめんって。……ごめんなさい。本当に。どうしたら許してくれる?」
「そういう切り口の男には気をつけろってお母さんが言ってた」
「参った。それ、君の彼氏なんだけど」
「やな男。……でもまぁ」
口を尖らせ、そっぽを向きながら彼女は一言。
「……フルーツタルト、奢ってくれるなら、許してあげなくもないかもしれない」
「えぇ、どっち? でもまあわかった。いちごタルトね」
彼女の言うフルーツタルトは決まっていちごのタルトだ。酸味の少ないいちごと、甘いカスタードの乗ったタルトケーキ。
それを読み解けるのは少なくともここでは僕だけだと、抱えた自尊心を自慢するように上へ伸びていく右手を止めるものは誰もいない。
呼びかけに応じやってくる店員を横目に、萎んでいく頬を降ろした手で撫でれば怒る声。それを受けた僕の笑い声。
頭上では軽快なピアノが鳴る。曲名はわからない。
それでも旋律は、今を記録して流れていく。
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