第10話

悪魔がいつでも自分を監視している。それは気持ちの良いことではないけれど、陽子はどうせ自分から見えないところにいるのだからゴキブリが潜んでいるようなものと割り切ることにして毎日仕事に出かけた。


 そして以前と変わらない生活の中で、アフロとはコインランドリーで洗濯をするわずかな時間だけ姿を現してその日の事を話すようになっていた。


 そうしてみるとますますはっきり分かるのは、アフロがやはり「悪魔」であることで、姿が見えないだけで確かに昼間も陽子の周辺にいて、ちゃんとその日の出来事を「知って」いることだった。


 例えば、陽子がその日食べた食事の内容も上司とのやりとりも、打ち合わせも、後輩への叱責もアフロは見聞きしており、夜ともなるとそれらについて意見や感想を言う。


「あんた、酒もようけ飲むけどメシもけっこういくなあ」

 とか、

「今日、打ち合わせに来てた男の人が美容師? 結婚式には女の美容師の方がええんちゃう?」

 とか、

「いっつもあんたに怒られてる若い子、あれ、あかんで。やる気ないやん。どうせ続かへんわ。怒る値打ちもないで」

 とか。


 それらに陽子も、

「お昼は沢山食べないともたないのよ」

 や、

「男の人に来てもらうのは、あれは新郎の為のデモンストレーションよ。実際はヘアメイクはみんな女性よ。でも、それも差別的よね」

 や、

「怒られなくなったらおしまいよ。まだ今はその時じゃないわ。怒る側に根気がないなら、初めから注意なんてするべきじゃないわ」

 といった具合に答える。コインランドリーで。


 それまで一人で洗濯していたわけだが、こうして話し相手ができてみると陽子はランドリーに行く度にビールや缶チューハイ、小袋に入ったピスタチオなど二人分持参するようになった。


 洗濯をして乾燥機にいれて、取り出すまでざっと40分。世間話をしながらビール一本飲むには適当な時間だ。


 そして陽子が洗濯籠を持って引き上げる時、アフロは決まって陽子に尋ねる。

「で、願い事は?」

 陽子は笑って手を振る。アフロは大袈裟にため息をついて肩を落とす。


 陽子はアフロが言うところの「運命」というもので悪魔を呼び出してしまったことが申し訳ないような気がした。願い事はどうしても思いつかなかった。


 その日も陽子は仕事を終え、コインランドリーへ向かうべく洗濯籠を取り上げたところだった。すると同時に電話が鳴り、受話器をとると実家の母親からだった。


「もしもし、陽子?」

「ああ、お母さん。どうしたの」

「どうって……。元気にしてるの?」

「元気だよ。最近けっこう忙しい」

「そう。いやね、この前、お隣の鈴木さんからすっごく沢山夏みかん貰ったんだけどね」

「ふん」

「それがものすごく酸っぱいのよ。鈴木さんの田舎で作ってるらしいんだけど。ちょっと食べられない酸っぱさなのよ」

「でも夏みかんってそういうもんでしょ」

「けど食べられないほどっていうのは、あんまりじゃない?」

「まあ、そう言われるとそうだけど」

「でしょう? でも、捨てられないじゃない? もったいなくて」

「でも食べないんでしょ?」

「食べないわよ。お父さんも食べないって言うし」


 母親からの電話は、陽子の破談以来こうしてちょいちょいかかってくる。内容はいつもこんな調子で、母の世間話だ。


 陽子は以前よりも頻繁に電話をかけてくるようになった母親の気持ちを思うと、それまで平気で「今、忙しいから」とか「また今度にしてよ」とろくに聞きもしないで無愛想に電話を切っていたことが申し訳なく、同時にせつなくなる。職場でばりばりやっている大人のポーズの陽子が子供の気持ちになる瞬間だった。


「だいたい、そんな食べられないような酸っぱいのをくれるってどういうことかしらね。普通そんなの人にあげないわよね」

「だって食べないと酸っぱいか甘いかは分からないじゃない」

「くれた本人は分かるはずじゃないの」

「じゃあ鈴木さんは自分がいらないものをうちにくれたってこと?」

「そんな人じゃないんだけどね」

「じゃあ、なんなのよ?」


 陽子は笑いながら、洗濯洗剤の箱を指先でとんとんと叩く。母は陽子の洗濯機が壊れたことは知らない。


 哲司が婚約破棄を申し出た時、陽子の母親は陽子の前で目を赤くして、

「あんたが謝りなさい」

 と言った。


「なにがあったか知らないけど、あんたが謝らないと駄目。男の人は自分が悪くても謝れないんだから、女が折れないと」


 陽子は謝るもなにも事態を説明するのにひどく骨を折った。


 それは陽子にも訳が分からなかったせいもあるが、それより母が哲司と「別れてはいけない」と言い募るからだった。


 母は哲司を結婚相手として気に入っていた。大学を出てきちんと働いて収入も安定していたし、背が高くて見た目もそう見苦しくなく整っていて、実家の両親も姉妹も善良な人々であったから、娘を嫁がせるには最適だと思ったのだろう。それに、母ぐらいの年代の人にはどうしたって男女同権の意識は根づいていない。母が陽子に喧嘩なら「謝れ」というのも無理からぬことだった。


 しかしなんと言われても陽子には「別れない」という選択肢はなかった。いや、陽子になかったのでは、ない。哲司になかったのだ。陽子はこの別れ話において完全に「受け身」でしかなかった。


 結局、陽子は母親に事の次第のすべてを告白するはめになり、それはみじめで情けなく、また自分の恋愛を母親に詳細に話さなければならないのが恥ずかしくて泣けて仕方なかった。


 ようするに「哲司がもう自分を好きではない」のだということを説明するということ。それは陽子にとっても事実を自らの手で決定的にしていくような作業だった。


 その後、哲司側から婚約破棄が正式に申し入れられるまでの間、陽子は自分よりも落胆する母親を見る方が何倍も辛かった。


 哲司は陽子を傷つけたが、陽子は自分の母親を傷つけたと思う。そして陽子の傷が癒えないように母親のそれも癒えることはないのだろう。


「ねえ、夏みかん、いる? 送ろうか?」

「だって食べられないんでしょ?」

「困ったわあ」

「うーん。ああ、それじゃあ、ジャムにするわ。送ってよ」

「ほんと? 助かるわ」

「作ったら送り返してあげる」

「あんた、そういうの得意だもんね」

「まあね」

「ああ、それから」

「なに」

「夏休みはいつ頃とれそうなの」

「ええ? 夏休み? そんなのまだ分かんないよ。トップシーズンだもん。9月までは休めないと思うよ」

「あんた、体壊さないようにしなさいよ」

「分かってる」

「それじゃ、夏みかん送るからね」

「うん」

「じゃあね」


 電話を切ると陽子はほうと一息ついた。


 本当なら、夏には新居に引っ越していた。陽子は洗濯籠に手を伸ばしかけて、ためらい、またため息をついた。


 一人暮らしの長い陽子は、一人なりの知恵で楽しく暮らしている。ジャムを煮ることだって楽しいと思えるほどに。そういう性格なのだ。アイロンがけは苦手だけれど、掃除や洗濯は苦にならない。料理だって得意な方だ。一人だからといって手を抜くこともない。一人で作って、一人で食べる。お酒も飲む。だから「二人」は想像できなかった。


 一人では何もできないような女になりたくなかったし、そんな女ではないつもりだった。だから哲司との関係においても自分はきちんと自立していたかったし、依存する女にならないように、いつも哲司に対して背筋をぴんと伸ばしていた。が、そのことにどれほどの意味があったのかと、今、思う。自分が女である以上、相手は男であることに間違いはなく、そう張りつめなくても一人も二人も変わらないと、なぜ自然にすんなりと思えなかったのか。


 頑なな心ばかりが水に浮かべた果実のようにたよりなくぷかぷかと揺らぐ。

 陽子は立ち上がると財布をポケットにねじこみ、洗濯籠を置いて家を出た。


 通りに人気のないのを確認すると、陽子は声を潜めて、

「ちょっと、いるんでしょ?」

 と、ひっそりと猫を呼ぶように囁いた。


「ねえ」


 夜の湿った空気がひやりと肌を刺す。道の片側に並ぶ民家の百日紅が花を咲かせ、毒々しいまでに濃いピンクが目を引く。


 陽子はジーンズのポケットからそっとサンバホイッスルを取り出すと、ためらいつつひゅっと一吹きしてみた。


 甲高い音がぴりっと空気を震わせるように鳴ると、陽子はどきどきしながらあたりを見回した。


「なんや、急に」


 振り向くとそこにはアフロが立っていた。


「今日は洗濯せんでええのん?」

 陽子は目の前に現れたアフロの姿にほっとしている自分に気がついた。悪魔を呼んだというのにこの奇妙な安心感はどうだ。


「ねえ」

 陽子は呼びかけて、言った。


「……飲みに行かない?」

「は?」

「嫌ならいいんだけどさ」

「なんや、急に」

「どうする? 行く?」

「……行く」


 アフロは陽子の申し出に怪訝な顔をしていたが、返事をすると並んで坂を下り始めた。


「あ、ちなみに言っとくけど、これ、願い事じゃないから」

「分かってるわ!」


 今日のアフロはカーゴパンツにオレンジ色のTシャツを着ていて、よく似合っていた。


 アフロはその個性的な髪形のせいか派手な色合いの服が似合うし、どうも好む傾向にあるらしく、登場する時はたいてい真夏の太陽とリゾートを連想させる開放的で自由な色合いの服を着ている。ラテン音楽が好きというのに相応しいほどに。


 アフロは歩きながら快活に「酒はテキーラが一番好きだ」と喋っている。陽子は頷きながら、同じ速度で歩く。陽子は夜なのにアフロを見ているだけで眩しいような気持ちになった。

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