第9話
うちに帰った陽子は着換えてから洗濯物を持ってコインランドリーへ行った。
洗濯物を入れた籠には缶ビールが二本入っていた。昼間にアフロとしたやりとりはその後も陽子の中でぶすぶすと燻っていた。
オフィスに戻ると後輩たちは指示された仕事に精を出していて、ほとんど陽子の視線を避けるようにパソコンの画面を睨み、デスクで分厚い資料のファイルを一心不乱にめくっていた。
陽子はオフィスの隅に置かれたポットでコーヒーを入れ、ふと思いついて、後輩の分も入れてそれぞれの席へ配って歩いた。
驚いたのは後輩たちである。ぎょっとして何か化け物でも見るような目で陽子を凝視した。陽子は一言「分かんないことや、できないことがあったら声かけて」とコーヒーと共に言い置いて、自分の仕事に戻った。
罪滅ぼしのつもりもなければ、後ろめたさもなかった。そういう理由でしたのではない。もちろん悪口を言われるのを回避したくて人気取りの為にしたのでもない。ただ、そうしてみたかったのだ。それだけ。そうすることで自分の気持ちが軽くなるとかいうことでもなく、本当に思いついただけだった。
しかし、アフロに言われなければ思いつきもしなかったのも事実だった。
陽子は洗濯機を回し、ベンチに腰かけた。白ペンキの壁のところどころに汚れが目立つ。洗濯機の動作音が低い唸り声のように聞こえる。
陽子はガラス戸の向こうに広がる夜に視線をやり、もう世界には自分と洗濯機しか存在しないような気持ちになった。今、この宇宙で自分と分かりあえるのは洗濯機のみである、と。
失恋を泣きながら誰かに訴えたり愚痴をこぼしたりするには自分は見栄っ張りすぎる。千夏にもっと詳細に泣きごとを漏らせば彼女はちゃんと受け止めてくれるだろうけれど、そうしてしまうのも大人としてどうなんだろうとつい憚ってしまう。
いやそれよりも、哲司の突然の申し出は裏切りめいたものがあり、陽子をうちのめした。以来、陽子はなんだか何もかもが信じられないような気がして、こんなところで唐突に「人はみんな一人なんだ」というしょうもない真実を見出していた。そして陽子は今一人きりで洗濯機と向き合っていた。
洗濯が終わり、洗濯機の中から衣類を引きずりだして乾燥機に放り込むと、陽子は扉を閉めようとして今一度中身を改めた。
ここからアフロが出てきたのだ。何度見てもただの乾燥機だというのに。
一瞬自分の頭がどうかしたのかと思ったが、どうかしてるのは世間の方だ。陽子は再びそんなことを思った。
失恋の痛手はまだ胸をえぐった生々しい傷のままで、血が滲むのを感じている。その傷が疼く度に誰にも優しくする余裕を持たない自分に溺れていく。
一体なぜ別れたのだろう。どうしたら続けることができたのだろう。陽子は恥ずかしながら、恋が終わりつつあったことも、もしやとうに終わっていたかもしれないこともまるで気付かなかった。
哲司の決意はいつからだったのだろう。なにがそんなに決定的だったのだろう。まるで分からない。分からないから、納得できないから、別れた今も気持を整理できないでいる。
大人の恋愛は理性的だ。ふと陽子は思う。例えば学生の頃や、十代のあの未熟な果実のような頑なで鮮烈な恋愛とはまるで違う。色々なことを計算しているし、先を読もうとして言葉を選ぶ。行動も理性的で、自分にとって不利な状態にならないように、面倒を避けるようにする。その結果、恋愛の渦中は概ね平和だ。思いやりに満ちていて、落ち着いている。穏やかな春の日のようでさえある。
しかしそれは裏を返せば事なかれ主義で、偽善的で、単なる面倒くさがりで、平和さは自堕落を連れて来て、落ち着きは無気力に成り変わる。
哲司との恋愛で陽子は声を荒げる喧嘩も意見のぶつかりもしてこなかったことを悔いていた。変に見栄を張って大人ぶらなくてもよかった。もっと泣いたり喚いたりして、魂のすべてを揺さぶり曝け出してておけばよかった。
陽子はベンチの上で片膝を抱えて、乾燥機のまわる音を聞いていた。
するとコインランドリーの入り口の扉ががらりと開いて、のっそりとアフロが姿を現した。陽子は「あっ」と声をあげて、ぱっと立ちあがった。
「洗濯、終わった?」
アフロが尋ねた。
陽子はなんと言っていいのか迷い、口の中でごにょごにょと呟くだけで言葉が上手く出てこなかった。
アフロはそんなことはおかまいなしに洗濯機の端にもたれかかった。
「今日はごめん」
「え」
アフロはすんなりと素直に謝り、頭を下げた。
「言い過ぎた」
「……」
陽子はあまりの唐突さにぽかんと口を開けていた。
「俺、いらんこと言うたな。ごめんな。あんた冷たいんと違うくて、真面目に働いてるんやんな。俺、そういうのん分からへんから……。まだ怒ってんのん?」
陽子はおよそ悪魔らしからぬアフロの素直さにどう答えていいか分からなかった。こんな素直さの存在を陽子はずいぶん長いこと忘れていた。仕事も恋もミスを避け、言質をとられぬよう神経を配り、言葉を選び、だから力のない萎びた言葉を差しだして、そのくせ伝わらぬことに憤りを覚えてきた。それも自分の心を語らぬ故と知っていながら。
陽子はごめんとすぐさま言えることにほとんど感動していた。
「……どこ行ってたの?」
陽子は乾燥機の中を覗き込みながら尋ねた。自分も言い過ぎた、ごめん。とは、言えなかった。言えない自分が恥ずかしかった。
「ちょっと散歩。あのさ、俺、思てんけど」
「なに」
「やっぱり、一日中あんたにくっついてると仕事の邪魔やろ」
「……そりゃ、まあ……」
「けど、俺はあんたにくっついとかんとあかんねん。そこで、考えたんや。俺はあんたの視界から見えへんとこにおることにする」
「……それって……」
「ようするに、あんたの死角に入るっちゅーことや。だって、あんたから姿消すことはでけへんねんからな」
「……なんか、それ変質者みたいじゃない?」
「失敬やな! そんなしょうもないもんと一緒にせんといてんか」
「別にいつもいなくてもいいんじゃないの? あんたも用事とかあるでしょ?」
「悪魔の用事なんか知れとるわ」
「そうなの?」
一人のコインランドリーに、アフロの巨大なタワシみたいな頭とやけに派手なTシャツが極彩色を添えている。一度とはいえ悪魔の力を目の当たりにすると、陽子の中にさまざまな疑問が湧きあがってきた。一体アフロは誰の為に、なんの為に人の願いを叶えておいて命のいくばくかを奪っていくのだろう。その命はなにに使われるのだろう。それに、悪魔が嘘をつかない保証がどこにあるのだろう。
「ほら、これ」
陽子の疑問をよそにアフロはポケットからサンバホイッスルを取り出して寄越した。
「なにこれ」
手のひらに乗せられた銀色のホイッスルとアフロを陽子は交互に見た。
「俺に用事ある時はそれ吹いたら、すぐ来るから」
「これを吹くの?」
「そう」
「なんでサンバホイッスルなのよ」
「持ち歩けるし、手頃やん」
「あ、そういう理由なのね」
「俺、ラテンも結構好きやねん」
「……」
一瞬、陽子は吹いてみようかと思い口元まで持っていったが、思い直してそのままポケットにいれた。
「ラテンって、ラテン音楽? サルサとか?」
「そうそう」
「ふうん」
乾燥機が終了の合図を鳴らす。陽子はその電子音を聞くと扉を開けて、熱く乾いた衣類を取り出した。
このドラム式乾燥機の中から出てきたアフロの悪魔がラテン音楽を好きだという。この事実。陽子は笑いをこらえる為にわざと難しい顔をして眉間に皺を寄せていた。
洗濯用の籠に白いシャツや靴下やらを突っ込むと、アフロはそこから覗いていた陽子の紺色のブラや黒いパンツなどを目にとめ、
「あんた、地味な下着穿いてるねんな」
と言った。
陽子はアフロをじろりと睨んだ。
「地味じゃないわよ。上品って言ってよね」
「物は言いようやなあ」
ポケットに入れたサンバホイッスルが腿のあたりに硬く触れる。願い事はまだ浮かばない。けれど、あの泥沼に沈んだようだった心がほんのわずかに浮き上がったようで決して悪い気はしなかった。
陽子は洗濯籠にいれていた缶ビールをアフロに差しだした。
「これ」
「くれんの?」
「うん」
「ありがとう」
アフロはまたも素直にビールを受け取り、すぐにプルタブを抜いた。
「じゃあ」
洗濯を終えた陽子がコインランドリーから出て行くのをアフロはビールを飲みつつ、笑って見送っている。夜が深くて、濃い。陽子は静かだなと思った。静かだけれど、ちっとも寂しい感じではないな、とも。
部屋に戻り洗濯物を畳んで片づけている間も、陽子はアフロのことを考えずにはおけなかった。それは無論、怖いとか存在そのものが半信半疑だとかではなく、アフロは普段なにをしているのだろうとか、食事はどうするのだろうとか、ラテン音楽の他にはなにが好きなのだろうとかいう初めて会った人に対するのと同じ疑問と関心。奇しくもそれは哲司との恋愛当初と同じであったが、陽子自身はそんなことは完全に忘れて黙ってサンバホイッスルを眺めていた。
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