第3話 氷の壁
「呼んでるぞ」
メドリは顔を出して言いました。
「俺?」
トウヤンはひょっこり顔をのぞかせました。迷惑そうな顔で外に出たものの、老人を見たとたん、パッと顔を輝かせました。
「……ン? もしかして……ニイサンか! わぁ!」
トウヤンは老人に駆け寄ろうと飛び跳ねました。ところが、ニイサンと呼ばれた老人は再会を喜んでいる愉快な表情には見えません。それどころか、顔はみるみるうちに険しくなり、もともとあるしわがより深く刻み込まれました。
「ばかもの!」
森中に響き渡り、驚いた野鳥がバタバタ飛んでいきました。トウヤンは両耳をふさいでしゃがみこみました。
「耳元で大声出すなよ!」
ニイサンは刀をトウヤンに投げました。どこかで見たことがあると思えば、それは紛れもない盗まれた自分の刀でした。
「それ、俺の刀! どうして」
「ご丁寧にカモがネギを背負ってきおった。お前の刀に馬、全て!」
「どうして」
「器の目を借りた」
「器?」
トウヤンが首をかしげますと、ニイサンの後ろにいた馬から子どもが下りてきました。子どもにしては不釣り合いな大人用の刀を携えています。外套のフードを外すと、見たこともない黄金色の長い髪がフワッとあふれました。猫のようなクリクリとした目に、好奇心旺盛な口元。頰が桃色に染まった男の子でした。
「こんにちは! 私はサンと言います。もしかして、あなたが火の器ですか?」
「いいや、違うけど……」
「おかしいですねぇ、この石はあなたの目の前で、こんなに光っているというのに」
サンは懐から小袋を取り出して、赤色に輝く石を見せました。
「火の石!」
拍子抜けするトウヤンの前に、今度は若い剣士が現れました。その男はどうやらサンが乗っていた馬主のようで、腰が低そうな優しい目に、真っすぐで長い髪を腰丈まで伸ばしています。
「サメヤラニ!」
トウヤンはパッと笑顔になりました。
「久しぶ――」
いきなりパシッと頰をたたかれました。
「あぁお」
トウヤンはよろけて尻もちをつき、信じられない目でサメヤラニを見上げました。
「いったい今までどこにいたかと思えば、器捜しの任務を請け負っていたわけか。のたれ死んだかと思ったぞ。もう1発たたかせてくれ」
「い、いやいや、待て! 話せば分かる!」
サメヤラニはやっと顔を緩め、トウヤンに手を差し伸べました。
「2年ぶりだな、トウヤン」
「こんな話は聞いてない」
トウヤンは口をすぼめました。
「こっちのせりふだ」サメヤラニは小さなため息を漏らしました。「シバで騒ぎを起こした強盗が火の石を持っていたのだからな。どこかのばかが強盗なんぞに足元をすくわれなければ――」
「言っておくがな、俺をばかと呼ぶのはあんたとルットくらいなんだぞ」
「それじゃあまぬけか」
「はいはい」
トウヤンは手をひらひらさせました。
「全部筒抜けとは恐れ入りました。それで、この子は?」
「雷の器だ」
「もう見つかってるって言ってた、2人のうちの1人? この子が?」
「そうだ。そして私はこの子の指導を任されている」
「あんたが?」
トウヤンは噴き出しました。
「なにがおかしい」
「ウイのじいさん、あいつはとんだ確信犯だよ! 知っておきながら、俺になーんにも言わなかったぞ。いったいどうなってる」
「ルットもだ」
「えっ!」
「いいかげん言葉遣いを直せ、トウヤン。上級剣士ともあろう人間が目上の方をあいつだなんて言うのは無礼だぞ」
トウヤンは口に手を当てました。
「今、ルットって言った? おいおい、仲良し3人組がこんなところで肩そろえるなんて驚きだ」
「それより、火の器はちゃんと無事なんだろうな」
「あ、あぁ」
トウヤンはイザナを呼びました。
「イザナ。俺の仲間を紹介する。心配するな、みんないいやつだからさ」
イザナは初めて見る人たちを前にして、トウヤンにしがみついたまま出てこようとしませんでした。向こう側も火の器であるイザナを見るのは初めてのこと。ニイサンとサメヤラニはどこか疑るような目を向け、サンの石がイザナに近づいた途端、輝きが増すのを見て安心した表情を浮かべました。
「人見知りだけど、物分かりのいい子なんだ。いろいろあって、説明すれば長くなる。とにかく、俺を助けてくれた」
「恥ずかしくないのか。トウヤン、お前の仕事は器であるその子を守ることだ。守られてどうする」
「事実を言っただけだ。イザナが助けてくれなければ、溺れ死んでた」
「まったくお前というやつは。剣士1位の名が泣くぞ」
ああでもない、こうでもない、と話す大人たちの前で、サンはイザナに興味津々でした。
「不思議ですね。あなたを見ていると――どこか懐かしい感じがします。以前、どこかでお会いしたことがあるような……そうは思いませんか?」
イザナは今自分が思っていたことを言われたので、心を読まれたのかと思いびっくりしました。彼の言う通りです。初めて会うはずなのに、再会した兄弟を前にしているような心地でした。初めてトウヤンと会った時とも違います。
「あらら、本当に人見知りなんですね。もしかして、私たちのことを怖いと思ってます?」
サンは半分だけ顔をのぞかせるイザナに問い掛けました。
「大丈夫、安心してください」
サンは小さな手をそっと差し出しました。イザナにとって、こんな出来事は2回目でした。右も左も分からず逃げ込んだ森の中で、優しく手を伸ばしてくれたトウヤン。そう、この手の動きは、自分を助けてくれる者の柔らかい手でした。あの時の安心感を思い出し、イザナは自分から前に出て、彼の手をそっと握り返しました。イザナの手は普通の人より熱くほてっていました。
「びっくり! 温かいんですね、あなたの手は」
サンは穏やかな目になって言いました。
「私の場合は、誰かと握手する時感電させないように気を付けています。私とあなたは同じなんです。あなたは火の器というもので、私は雷の器。この世界を氷河期から救うために必要な力をもっている。だから、トウヤンという人はあなたをここまで連れてきたんです。安心して。怖くない。私はあなたの味方です。ここに来るまで、大変なことがあったみたいですね。でも、これから行くところは剣士協会と言って、素晴らしい所です。あなたも見れば、きっと気に入ると思います。サメヤラニ! この子と協会で一緒に暮らすんですよね?」
サンは急ににっこり笑ってサメヤラニに振り返りました。彼が静かにうなずいたのを見て、サンは笑いました。いつの日か、本の中に出てきたヒマワリのような笑顔、という言葉がピッタリでした。イザナは心の中がポカポカ温かくなるのを感じ、彼の笑顔ならいくらでも眺めていられるくらいでした。
「行きましょう、イザナ」
イザナは立ち尽くしたままでした。
「私はサメヤラニと一緒に行きますから、そりに乗ってついて来てください」
サンはフードをかぶるとサメヤラニが乗る馬に同乗しました。
ニイサンは馬の方向を逆にしたところでピタリと止まり
「トウヤン」
と呼びました。この声色は叱られる前兆です。そのことをトウヤンは彼との長い付き合いの中で学んでいました。
「刀を奪われるなど、剣士としてあってはならないことだ」
そんなこと、言われなくたって分かってる、と言いたげな目でトウヤンは肩をすくめました。一行はニイサンを先頭に道を引き返しました。メドリもイヌたちに合図を送り、そりを動かして彼らの後についていきました。
「知り合いか」
メドリの質問にトウヤンはうなずきました。
「あぁ。偉大なる剣士協会の大先生さ。俺は昔、あの人に剣を教えてもらった。もう何年も会ってなかったけど、相変わらずピンピンしてる」
ニイサンはトウヤンの偉大な剣の先生でした。そして、サメヤラニという青年は同期の剣士。トウヤンは手綱を握るメドリの隣で、まずはニイサンがどんなにすごい人なのかを説明しました。協会で彼の名前を知らない人はいないということや、どんなに腕の悪い剣士も人並みには育て上げる指導者として優秀な面など。サメヤラニを含む同期だった剣士2人のことや、彼らとの悪ふざけがばれてニイサンに怒鳴られたことなども、懐かしく話しました。
トウヤンは今でこそこうして1人で仕事をしていますが、もっと幼かった頃はニイサンの世話になりっぱなしでした。だからこそ、久々に会うのであればもっと立派な姿を見せたかったと、がっかりしました。いきなり言われる言葉があれでは、嫌でもあの苦い日々を思い出すのです。
ニイサンを先頭に雪道を歩いて行きますと、開けた場所に出ました。シバの町に続く大きな門が一行を出迎え、犬ぞりを最後尾にして中へと入って行きました。この場所こそ、トウヤンが出発した楼閣のある大きな町でした。
建物が軒を連ねる大きな通りに出ました。荷を持って歩く商人や買い物客、客引きや馬を引いて歩く旅人など、いろんな人が行き交っています。
大通りを真っすぐ行った突き当たりに、大きな楼閣が見えます。外では若い剣士たちが、雪寄せに追われていました。
「ここでお別れだな」
メドリはそりを止めて言いました。
トウヤンはそりを引いてくれたイヌたちに駆け寄り、毛をわしゃわしゃやってなでまわしました。2匹もトウヤンのことがお気に入りだったようで、うれしそうにしっぽを振ってペロペロ舌でなめ返しました。
「ははっ、くすぐったいって!」
最後にポンと頭に手を置いて顔を上げました。そこにはメドリが穏やかな笑みを浮かべて立っており、2人は自然と手を伸ばし体を引き寄せていました。
「君のおかげで無事シバまで来られた。感謝するよ」
「礼を言うのは俺の方だ」
「君と会えてよかった」
「俺もだ」
トウヤンは名残惜しい目で言いました。メドリはトウヤンを抱き寄せたまま、彼のポケットに折り畳んだ紙を入れました。
「もし――なにかあった時は、この住所を頼るといい」
メドリはそっと離れイザナを見ました。
「君も頑張れよ」
メドリとの別れは2人の心をさみしくしました。いつだって、世話になった人との別れは惜しいものです。けれども、トウヤンとイザナはきっとまた会えると、そう信じている目で彼を見送っていました。
犬ぞりのメドリと別れた2人は、いよいよ大きな楼閣の中へ入って行きました。内部では剣士たちがぞろぞろと歩いており、先頭を歩くニイサンを見るなり深いお辞儀をします。一行はらせん階段を上っていき、人気のない大きな部屋まできました。ニイサン、サメヤラニ、サン、トウヤン、イザナの順番で左から横一列に並びました。目の前には、巨人が難なく通れるほどの大きな扉があります。一言もしゃべらずにおとなしく待っていると、扉がパッと開き、1人の女が左右に剣士を連れて現れました。頭に大きな髪飾りを着け、長く美しい髪は不思議な編み方がされています。純白の着物をまとう姿は、さながら雪の精。身長は左右に従える剣士の半分ほどで、全体的にほっそりした見た目です。彼女の名前はカンザ。剣士協会で一番偉い人です。トウヤンたちは膝をついて頭を下げました。
「よくぞ戻りました」
そのうるわしい瞳はトウヤンとイザナに向けられています。
「ようやく三つの器がそろったことになります。私たち人類が、これまで苦しめられてきた氷河期を終わらせるための第一歩になるでしょう」
カンザはトウヤンたちを楼閣の裏側に連れ出しました。にぎやかな正面とは雰囲気がまったく違い、恐ろしい怪物でも現れそうな寒々しい場所でした。小道を真っすぐ進んで行くと、やがて木の高い壁が横一列になっているのが見えました。
木の壁の向こうには、パックリ割れた大地の裂け目にかかる1本の橋、その先に、高さ約300メートルの巨大な氷の壁がありました。普通、壮大な自然を前にした人間というのは、少なくとも自分のちっぽけさだとか、嫌なことを忘れるだとか、少なからず感銘を受けるものです。ところが、この壁を見る者の目には、恐怖や違和感、気味の悪さといった、どれも否定的なものが映し出されていました。なにしろ、雪ではなく、透き通るような分厚い氷の壁ですから。単なる壁でないことくらい、誰の目にも明らかでした。到底自然にできたものとは思えないほどツルツルした表面で、左右どこまでも続いています。
「壁の向こうは、氷と雪に閉ざされた北の領土」カンザは壁にそっと体を預けました。「先代協会長たちは皆、壁を壊そうと試みてきました。ですが、どんなに火をたいても、どんなに力ずくで壁を壊そうとしても、全ては無駄だったのです」
カンザは刀を抜くと、氷の壁を刺しました。カキン! と耳障りな音とともに氷が砕け、壁に小さな穴が開きました。後ろで見ていたトウヤンたちは驚きましたが、さらに上をいく驚きが起こりました。壁にあった小さな穴が、あっという間に元通りになったのです。最初から穴などなかったように。
「この氷は生きているのです」
カンザの言葉にトウヤンたちは眉をひそめました。
「私たちが千年続く氷河期に打ち勝てなかった理由は、この壁を壊せなかったから。壁を壊さなければ、核心へは迫れません。しかし、ようやく氷の壁を壊す運が巡ってきたのです」カンザはイザナを見ました。「あなたです、イザナ。火の器として生まれたあなたは、火の石の力を唯一ものにできる。あなたの火があれば壁を解かせる」
「壁を?」トウヤンは言いました。「こんな分厚い氷の壁をどうやって解かすって言うんだ。いくら火の力を持っていたって……」
「氷を解かすことができるのは、火の器だけなのです。それに、この氷もまた1人の人間だった者がつくりだしていることを、忘れてはなりません。水の器が、今も世界を氷河期に没しています。彼が持つ水の石を破壊しなければ、この世界は永遠にこのまま。もちろん、今のイザナは火の器としての力を生かしきれていません。能力を引き出し、立派な剣士として育て上げるのが、われわれ剣士協会の仕事。三人の領主から未来を託されているのです」
カンザは言ってからサメヤラニを見ました。
「彼は雷の器であるサンの指導者。風の器であるレキの指導者はルット。火の器であるイザナには――ニイサンを任命しましょう」
「待ってくれ。確かに俺は、仕事で大きな過ちを犯した。償いはちゃんとする。給料はいらない。罰も受ける。だから――イザナの指導者にならせてくれ。こいつのことを、少しは知ってるんだ。今までどんな目に遭ってきたか……」
「トウヤン!」
サメヤラニはトウヤンを引っ張りました。
「離せよ!」
サメヤラニは胸倉をつかみました。
「よく聞け、トウヤン。確かにお前は剣士協会1位の秀才だ。だが、指導者としては選ばれなかった」
トウヤンはうつむきました。
「コウ領に戻れとのお達しだ」
立ち尽くすトウヤンにそう言い残し、サメヤラニは背を向けて歩いていきました。
高い地位に上り詰めるほど、信頼が厚いほど、一つのささいなミスが人生を狂わせることがあります。トウヤンの場合はそれでした。彼は、剣士順位1位の優秀な剣士だったのです。今もその成績は誰にも破られておらず、歴代成績順位が張り出された壁の一番上にはトウヤンの名前がありました。
”コウ領に戻れ”
その言葉が頭の中をグルグル回っていました。ようするに、今回の件に関してはお払い箱ということです。一人前の剣士として試された任務でおおごけしたトウヤンの尻ぬぐいをしてくれる人もいません。コウ領は、トウヤンが2年ほど領主の下で働いていた南の領地です。
強盗に襲われなければ、毒を盛られていなければ……こんな結果にはならなかったでしょう。しかし、結果は結果。自分まで死にそうになったあげく、イザナを危険な目に遭わせ、荷物を全て奪われた。個人を重んじる剣士協会にとって、その程度の危険も回避できない剣士、と評価されたわけです。
「協会なんて嫌いだ」
そっぽを向いたトウヤンはろうそくの明かりの下、本を読むサメヤラニに言いました。
「そうやっていじけるのはよせ。正当な評価だ」
「なんだと!」
サメヤラニはトウヤンの右手を強くつかみました。感覚のない右手はだらりと垂れ下がりました。
「トウヤン」
サメヤラニは冷静な口調で言いました。
「やっかいな後遺症だ。こんな手でイザナの指導者になれるものか」
とっくに気付かれていたのです。それに、実を言うと右手だけではありませんでした。体のしびれは半分も残ったままで、普通に動くだけでしびれたり違和感を覚えるのです。それでもトウヤンは、早く強盗を捕まえるために鞭打って動き、歩き続けてきました。
「できる」
トウヤンは力を込めて言いました。
「なぜだ」サメヤラニはけげんな顔になりました。「お前は剣士の命を失ったんだぞ! 剣士生命に関わる。なぜ――そこまでこだわる。イザナ1人にお前が入れ込む必要などないはずだ。今は自分の心配をしたらどうなんだ」
今度はトウヤンがけげんな顔になりました。
「そもそも、高い報酬がもらえるから行った仕事じゃないか。旅の途中でいったいなにがあった」サメヤラニは徐々に納得がいった顔になりました。「きっとお前は死んだ弟を見ているんだ。自分が守れなかった弟を、重ね合わせている」
トウヤンは本気で怒りました。
「やめろよ」
「彼は――」
「いいかげんにしろ!」
サメヤラニは黙りました。
「弟は関係ない。あんたたちは知らないだろ、これまでイザナがどんな目に遭ってきたのか。ずっと地下室に閉じこめられて、暖炉にされてたんだよ。どんなに人間としての生き方を否定されてきたか、あの現場を見てない人間に、分かるはずもない。知らない人間からしたら、イザナは人見知りで、言葉もろくに話せなくて、満足な教育も受けられなかったんだろうって、そう思うだろうよ。なにがあったのかを実際に見たのはこの俺だ」
「本気か」
「本気だ」
トウヤンは迷いなく言いました。
「だが――」サメヤラニは考え込みました。「カンザ様はお前がコウ領に戻り療養した方がいいとお思いだ。それに、これは左遷じゃない。剣士1位の人材をわざわざ捨てたりしないからな。お前の気持ちは分かった。だが、ちゃんと刀を握れるようにならなければ話にならない」
「今、そばにいてやらないといけないんだ」
サメヤラニはため息を漏らしました。
「まるで父親のようなせりふだな」
「黙れ」
「それに、コウ領にはお前のことを目にかけてくれるファラク様だっているじゃないか。もう、しばらく会ってないと聞いたぞ」
「話のすり替えだ」
都合の悪い話になったので、トウヤンは背を向けました。
「会ってくればいいじゃないか」
「会わない」
トウヤンはとたんに声を小さくしました。
「ファラク様はお前を好いてくれている。今時なにを気にする必要がある? それに、身分が違えどお前は立派な剣士としての地位がある。それを身分不相応だなどと私は思わない。そう、うかうかしているとサキ領の息子にもっていかれるぞ」
「おせっかいはよせ」
サメヤラニはトウヤンを見ました。
「そうまでしてイザナのそばにいたいのなら、直談判すればいい。勝手にしろ。再三忠告はしたからな」
「だいたいなんでニイサンが指導者なんだ! もういい年で剣士だって引退してもいいくらいだろ」
「技術は衰えない」
「いいや、年を取れば誰だって衰えるさ」
サメヤラニはトウヤンを引っ張りました。
「ほら、行くぞ」
「どこに?」
「今からそのニイサンに会いに行く。石のみの儀式が行われるんだ」
「待て! 儀式ってまさか……イザナが出るのか」
「そうだ」
トウヤンにはサメヤラニの言葉がまったく理解できませんでした。でも、夜の間に楼閣の地下にある部屋に訪れると、既にイザナがいました。メラメラ燃えるたいまつのそばにちょこんと座っていて、トウヤンを見つけると元気に駆け寄ってきました。
「なにを始めるつもりだ?」
「見ていれば分かる」
部屋の中央にある台座には、黒い刀が飾られていました。近くでよく見てみると、本来銀色であるはずの刃が錆にやられていました。
3人の前にニイサンが現れました。
「これから石のみの儀式を始める」
「石をのむ?」トウヤンは尋ねました。
「火の器が、火の石をのむということだ。器が石を体内に取り込むことで、力を呼び覚ます」
「そんなことをしたら、どうなる、イザナは」
トウヤンは、隠しきれない不安をあらわにしました。
「より力を統制できるようになる。あのサンも既に雷の石をのんでいる」
「大丈夫だ」
そう言ったのはサメヤラニでした。
ニイサンは小袋の中から火の石を取り出して、イザナの小さな手にのせました。彼の手の中で赤色に輝く石は、これまで見たどの時よりもまぶしく輝いていました。
「石をのんでごらん」
優しい口調でニイサンは話し掛けました。イザナは長いこと火の石を見つめていました。普通の人なら触れただけでけがをする危険な石です。でも、火の器であるイザナはどれだけ長い間石を持っていても、やけどをすることはおろか、吹き飛ぶこともありませんでした。
「ここに水を置いておく。一緒に飲むと喉を通りやすいだろう」
水の入ったコップをニイサンは置きました。
イザナは石をのみこみました。彼にしてみれば大きな粒でしたから、やはりのみこむのにも手間がかかりました。そばにあったコップを手に取り、ゴクリと水ごと流し込みました。心配そうに見守る周囲をよそに、イザナはおそるおそる目を開けました。もともと赤かった彼の髪は熱を帯びたようにチリチリと光り、目の奥にはともしびが揺れていました。
「これで器と石は一つになった」ニイサンは言いました。
イザナは自ら求めるように刀へ手を伸ばしていました。じっと目を凝らしていたトウヤンは、いつなにが起こってもいいように、神経を研ぎ澄ましていました。しかし、心配するようなことは何も起こりませんでした。イザナが刀を持った瞬間、刃を覆っていた錆が赤色の光とともにボロボロ崩れ落ちました。やがて錆は完全に落ち、鞘から赤く染まる刃が引き抜かれました。
イザナの回りには熱い風が吹いていました。
「これは、石とともに保管されていた古代の刀だ。長い眠りから、今、解き放たれた。いずれ、この熱が氷の壁を解かすだろう」ニイサンは言いました。「イザナ、君の力を貸してほしい」
イザナは途端に自信をなくした目をしました。
「だったら、うんといい生活をさせてもらわないとな」
トウヤンは2人の間に割って入りました。
「ふかふかのベッドに、おいしいご飯、過ごしやすい部屋に、清潔な服。自由に使えるお金だ。ただで力を貸す必要なんてない。きちんと要求するものは、要求しておかないと」
「生活の保証はする」
そう言ったのはサメヤラニでした。
「だったら話が早い。ほら、ほしいものはなんでも頼むんだ。図々しいことでもなんでもない。だって、それ以上のものを与えるんだ。イザナ、なにが今一番ほしい?」
イザナは黙ったままでした。
「自分の思ったこと、もっと遠慮なく言った方がいいぞ。あんたはいつだって遠慮し過ぎる。ほらほら、心にある言葉をもっと口で表現してみるといい」
「トウヤン」サメヤラニは言いました。「なんというか、その子は本当になにもしゃべらないんだな」
「俺には話してくれたぞ」
トウヤンは得意になりました。
まさか石をあんなふうに使うのだとは考えもしませんでしたが、ここでやっと意味が分かった気がしました。火の器は、火の石を捜し求め、火の石は火の器を捜し求めていたわけです。イザナは本当に特別な子どもなのだと、トウヤンは思うよりほかありませんでした。
その日のうちに、トウヤンはニイサンがいる部屋を訪ねました。本がうず高く積まれていて、足の踏み場もないくらいです。なんとか前に進むと、灯籠の下で本を読む彼の後ろ姿が見えました。
「あんたはいつも、そうやって知らないふりをする」
ニイサンは本を見たまま動きません。
「頼みがあってきたんだ」
「なんだ」
「俺はコウ領には戻らない。イザナの指導者になる」
ニイサンは落ち着いていました。
「怒らないんだな」
フン、と鼻で笑う声がしました。
「なにがおかしい。だいたい、こんな気遣いされたって、ちっともうれしくないんだからな。俺の右手が使い物にならないからってコウ領に追い払うなんて……」
「サメヤラニが話したか」
「あぁ、そうさ。なにも知らないでシバを出ていれば俺は正真正銘のばかだ」
ニイサンは本を閉じました。
「弟子のお前が、任務先でへまやらかして帰ってきたと思えば、このありさまだ。指導者としてはまだサメヤラニとルットの方が上。指導者というのは、導く者のこと。お前は成績こそいいが、そこがまだ足りていないところだ」
「完璧なやつなんていない」トウヤンは言いました。「そこを鑑みてくれよ、ニイサン。俺はこれからも成長できる。人生は死ぬまで勉強、そう言ったのはあんただ。確かに右手は本調子じゃないが、イザナに剣だって教えられる」
トウヤンはニイサンの真横で腕を組みました。そんなトウヤンを手で追い払うとニイサンはクルリと振り返りました。
「そこまで言うのなら」
ニイサンはトウヤンの腰から剣を奪うと柄を差し出しました。
「握ってみればいい。右手で」
これほど意地悪な言葉はないと、トウヤンは思いました。
「もし、イザナのそばにいたいのなら、左手で刀を握れ」
「俺の右手は治る」
「治らない」
トウヤンは後ずさりしました。
「どうして分かる」
ニイサンは静かにトウヤンの肩に手を置きました。
「盛られた毒はそういう毒だ」
「でも……」
ニイサンはトウヤンを引き寄せました。何か言い返そうとしましたが、力強い腕の中で次第にその気持ちはうせていきました。
「後悔しても仕方がない。トウヤン。今できることを私たちは考えねばならない。未来のためにな」
トウヤンは唇を強くかみしめました。大切な右手。それが、もう一生使えないのです。そんな絶望の中――あの医者が言っていた言葉を思い出しました。不幸ではなく、幸運にも生き残ったのだと。トウヤンは心の中で言い聞かせました。けれども、ニイサンが背中を優しくたたくので、ついに目は言うことをきかなくなりました。
「私はずっとお前を見守ってきた。師として、家族として」
トウヤンは肩を震わせました。
「なら、どうして……」
「お前をコウ領に行かせようとしたのは、少なくとも、この町よりはいいと思ったからだ。あの氷の壁を見ただろう。北領に一歩出れば、世界は危険に満ちあふれている。これからあの子たちを待ち受けるのは過酷な運命だろう。その同伴者となるべき人間は、万全の状態で、強くなければならない」
トウヤンを見てニイサンは目を細めました。
「生きていれば、試練からは逃れられない。でも、生きているからこそ乗り越えられる」
ニイサンはもう一度刀を差し出しました。今度は左手を伸ばし、しっかり握り返しました。もう、涙は浮かんでいませんでした。力強い光が浮かんでいたのです。
「私がここに残る理由はなくなったな」
トウヤンは驚いて顔を上げました。
「地方の剣士学校から教育係のオファーがあった」
「ちょっと待て」
「嫌か? なら、お前にその役を譲ってもいいんだぞ?」
そう言って、ニイサンはニッコリしました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます