第2話 旅の災難
翌朝、トウヤンは床の上で目を覚ましました。ベッドを見てみると、イザナの姿がありません。心配になって名前を呼びました。まさか、外へ行ったのだろうかと思っていると、部屋の隅で荷物と一緒になってうずくまるイザナを見つけました。トウヤンはいらない心配をしたと思って笑顔を取り戻しました。
「おはよう、イザナ。よく眠れたか? さっそく朝飯にしよう。腹が減っちゃ長旅にはこたえる。ここで十分腹ごしらえしてから出発しよう。ちょいと後ろにある袋を取ってくれるか?」
イザナは寄りかかっていた大きな袋を抱えると、トウヤンに渡しました。長いこと1人の旅を続けてきたトウヤンにとって、朝飯の準備なんて簡単なことです。くん製肉をナイフで切り取り串で刺し暖炉で焼きました。部屋の中にはおいしそうな脂の臭いが漂います。取り置きしていたペースト状のイモにのせ、イザナに渡しました。おなかがペコペコだったのか、イザナはすぐにかぶりついて夢中で口を動かしました。
「いっぱい食え」
ペロリと平らげたイザナはトウヤンの分も取ろうとしましたが、はっとしてから手を引っ込めました。トウヤンはイザナの手に自分の分をのせました。
「食べていいぞ。俺はシンの様子を見てくる。ここでゆっくりしてな」
トウヤンは宿を出て隣にあるうまやに向かいました。シンはトウヤンを見た途端、しっぽを高く振り、ヒィンとうれしそうに鳴きました。シンは目を細めて頭をすり寄せ、安心したのかニンジンをおいしそうに食べ始めました。
「長旅になる。仲間が1人増えたんだ。後で紹介してやるからな」
部屋に戻ると、イザナが椅子に座って待っていました。両手にはさっきトウヤンが渡したイモがのっていて、そっとトウヤンに差し出しました。
「じゃあ、半分にしよう」
トウヤンは半分にして片方をイザナに渡しました。
2人は宿を出てうまやに向かいました。雪がちらほら降っていましたが、雪道を走ってきたトウヤンにとってはなんの厄介にもなりません。イザナはひっきりなしに降る雪を手でつかんでは食べたりしています。確かに雪は純白で、ふわふわしていて、美しくおいしそうに見えるのかもしれません。
「雪は食べるものじゃない。ちりやほこり、花粉なんかが元になってるからな」
イザナは物分かりが早い方でした。さっきまでばかみたいに空から落ちてくる雪を食べていたのに、トウヤンの話を聞いてからは、ちっとも口にしなくなりました。そんな調子でうまやに行くと、シンがまたしっぽを高く振って鳴きました。初めて馬を見たイザナはピンと立った耳、丸々とした目、白い毛並み、立派なたてがみを見て怖がり、今にも踏みつぶされそうだと言わんばかりにトウヤンを盾にして隠れました。
「馬って言うんだ。名前はシン。俺の相棒。大丈夫、扱い方さえ知れば、あんたも仲良くなれる。いいか? 馬っていうのは耳がいい。周りのことを俊敏に察するんだ。だから近づくときは大きな音を立てないで、優しーく声を掛けながら、横からそっと触ってあげる。どれ、ここは一つシン様にごあいさつといこう」
トウヤンはイザナを肩車しました。突然視界が高くなったので、イザナは落とされないよう必死にトウヤンの頭にしがみつきました。顔を上げると、大きな馬の頭が目の前に現れ、鼻息を肌身に感じるほど迫っていました。シンは初めて見る子どもに興味津々で、においをくんくん嗅いで確かめています。
「いてて! あんまり俺の髪引っ張んな。抜けちまう」トウヤンは涙目になりました。「ほぅら、シン。今日から一緒に旅する仲間のイザナだ。よろしくな。イザナ、触ってみろよ。大丈夫、怖くない」
イザナが拒否したので、トウヤンは横からシンに近づくと、先に自分から首辺りをポンポンたたいてやりました。
「こんなふうにな」
トウヤンがなんの苦もなく馬に触っているのを見て、自分にもできると思ったのでしょう。やっとトウヤンの頭から片方の手を離してシンに触れました。シンも触れられて悪い気はしないようで、ドゥドウゥと鳴きました。
「飯はさっきやったからな。また今度だ。さぁて、目的地はちょいと遠くてね。しばらくシン様のお力を借りるしかない。行こう。俺がいるから大丈夫だ」
トウヤンはくらに荷物を結び付け、先にイザナを上がらせました。最後にひょいとイザナを前にして乗ると、慣れた手つきで手綱を引き寄せ、うまやから外へ出ました。
「トンツクさんは、お優しく、威厳に満ちた、素晴らしい方です!」トウヤンはイッチの声をまねして皮肉っぽく笑いました。「……信じられるか? そんなふうに思われていた男が、実は家の地下室で男の子を監禁していたなんて。しかも、人の心に漬け込んで金をせしめようとした。まったく人は見掛けによらない。怖いねぇ。なにが怖いかって? そりゃあ、もちろん人間さ!」
あっという間に村を離れたトウヤンたちは、雪道もなんのその、風を切る勢いで走って行きました。
楼閣を出てから村に着くまで5日かかりましたが、むしろうまくいき過ぎたとトウヤンは思っていました。行き先も分からぬまま、石の光と熱だけを頼りに来たわけですから、ここまで早く、火の器を連れてくることができるなんて、信じていなかったのです。行きは道草をくった分、いらない時間もとりましたが、帰りは剣士協会に戻るだけなので、迷うことはありません。トウヤンはハイヤッ! ハイヤッ! と勇ましい声を上げながら走り続けました。
トウヤンは明るい未来を目に浮かべ、真っすぐ前を向いていましたが、イザナにとって乗馬は視界が上下に揺れる忙しい乗り物でした。振り落とされないよう必死に耐えるだけで精いっぱい。初めて見る外の世界に慣れる間もなく、馬に乗って雪原をひた走っているのです。それだけのことが、彼にとって大冒険でないとどうして言えましょう。シンに乗り、トウヤンに寄りかかる。その一方、陰気な地下室に閉じこめられていた時とは比べ物にならないほど、人生が輝いて見えたのも確かです。
日が暮れる前に、小さな町に立ち寄りました。長距離の慣れない移動でイザナはぐったりしていましたから、宿をとり、トウヤンは1人で市場まで買い物に繰り出しました。ダイコンやニンジンの酢漬け(日持ちしますから大変便利)や、獣肉のくん製、ジャガイモ、それから子ども用の着物を買い込みました。宿に戻ると、イザナはまた部屋の隅っこで膝を抱えていました。
「そこが落ち着くんだな。ほら、新しい着物だ」
トウヤンは買ってきた物をあさりながら真新しい着物を投げました。イザナは頭にのった着物から顔をのぞかせました。さぁ、着替えの時間です。
イザナはトウヤンの見掛け通り、着物の大きさはぴったりでした。夜が深まった頃、2人は暖炉の前で肩を並べながら夕食を取りました。トウヤンは食材が入った袋から、バターと塩を取り出しました。トウヤンが暖炉の中を金棒でつついている間、とんでもないことが起こりました。塩を白く美しい食べ物だと思ったのか、イザナは、塩をわしづかみにしてそのまま口に入れました。普通の人なら、考えただけでもゾッとするでしょう。トウヤンは大慌てでイザナの背中をたたき吐き出させました。
「死んじまうぞ!」
イザナは涙目になってヒリヒリした舌を出しました。まったく油断も隙もありません。どうやら物分かりがいいとはいえ、初めての物に対しては、何事も一から教えなくてはならないようです。トウヤンは本気で怒りましたが、それは塩の在庫が少なくなるためでも、もったいないからでもありません。イザナが塩の食べ過ぎで体調を壊さないか心配したからです。塩の悪夢を見たイザナは、しばらく台所に行ったきり戻ってきませんでした。何回口の中をゆすいでも、塩のヒリヒリとした痛みがとれないのです。
イザナが再び暖炉の前に戻ってくると、トウヤンは暖炉の中から仕込んでいたつぼを取り出しました。ふたを開けると、中からホカホカ湯気を上げるイモが現れました。
「ほら、機嫌直せよ。なんでも取り過ぎは体によくないってことだ。この白いのは塩って言うんだ。食べ物にしょっぱい味を付ける調味料。んで、こっちの黄色いコテコテしたのがバターって言って、牛乳、ウシやヤギの乳から作るんだ。見てろよ、今すっごくおいしいもん作ってやるからさ」
トウヤンは隣で小さくなるイザナに言うと、ふかしたてのジャガイモを半分に割り、熱々の谷間にバターを一切れ落とし込みました。バターはツーッとキラキラ光る液体に変わり、小皿の上に滴りました。イザナは口をすぼめたまま首を横に振りました。
「食べてみなって。頰が垂れるほど、うんまいから」
イザナは言われるがままイモを頰張りました。味を確かめているのか、宙を泳ぎ見た後、ポッと頰を赤く染めました。鼻の中をフワッと通り抜ける豊かな風味、ホクホクねっとりしたイモの食感。イザナは塩の悪夢など忘れ、落ちそうな頰を両手で押さえていました。
明日も朝早く出掛けることにしました。トウヤンはベッドの上で眠り、イザナは部屋の隅で眠りにつきました。トウヤンは浅い眠りでした。いつ、なにが起こっても立ち上がれるように、染みついた習慣でした。剣士として生きてきた彼の仕事癖でもあります。例のごとく、浅い眠りの中ベッドにいると、外で馬のいななきが聞こえました。しかも、明らかに嫌がるような感情のこもった声です。
トウヤンは飛び起きました。妙な胸騒ぎを覚えて宿を出ると、すぐさまうまやを見に行きました。シンを預けてある部屋が、もぬけの殻になっていたのです。
「なんてこった!」
馬を盗んだ? いったい誰が? トウヤンは頭を抱えました。そう遠くへは行っていないはずです。第一、あの優しい馬が盗みを働くような人間に、おとなしくついて行くはずがありません。
「シン! シン!」
トウヤンは叫びました。
「お兄さん」
驚いて振り返ると、若い女が片方の頰を赤くして立っていました。誰かに殴られたのでしょう、頭から血が流れています。
「もしかして、さっき連れて行かれた白い馬は、あなたの?」
「あぁ、きっとそうだ。それよりあんた、いったいどうしたんだ、その傷」
「馬が連れていかれるところを見ました! このことは誰にも言うなと、殴られたんです。三人組の人相が悪い男たちでした」
「なんてひどいやつらだ」
「その時、私の荷物まで奪っていったのです。きっと、旅人や剣士を襲う強盗でしょう。あぁ、でも私には、どうすることもできませんでした! あんな屈強な男たちに、かなうはずありませんもの。かと言って、こんな夜遅くでは警察も眠っています」
「命が助かってよかった。そいつらはどっちへ?」
「あちらです」
女は市場に続く大通りを指さしました。
「心配するな。俺が荷物も取り返してくる」
「ですが……」
女は目に涙をにじませました。
「俺は剣士だ。あんたは今すぐ救急に――」
女はトウヤンの胸に飛びつきました。
「私も一緒に行きます」
「駄目だ」
女はうつむきました。
「大丈夫さ」
トウヤンは優しく女を引き離して言いました。
「待って! お名前は?」
「トウヤン」
「トウヤン――どうかご無事で!」
トウヤンは女に背を向けて走り出しました。大通りは昼間歩き回った人の足跡で乱れていました。馬の足跡だって一つだけではありません。それでも、トウヤンはあの女の言葉を頼りに指で示した方向を歩いていきました。夜の寒さでガリガリに凍った雪を踏んでいくと、やがて倉庫が並んだ通りに出ました。耳を澄ますと、一際大きな倉庫の裏から馬の声がしました。
トウヤンはいつでも刀を抜けるようにして、倉庫の裏手に回りました。物陰に身を寄せていると、やはりシンがいました。ここで飛び出すことも考えましたが、もう少し情報を集めてみることにしました。倉庫の隣にある広場の中央に、シンと3人組の男がいました。帽子をかぶった男、襟巻を巻いた男、ひげを生やした男。あの女の言った通りでした。そばには川が流れており、周囲に3人以外の気配はありませんでした。しかし、隠れるのがへたといいますか、なぜこうも分かりやすい場所にいるのでしょう。トウヤンは男たちの話し声に耳を澄ましました。
「馬の主人を出し抜くことくらい簡単ですよ」
「明日、朝起きたら馬がいないって、ヒンヒン鳴くことになりますぜ」
「剣士が連れてる馬は上等なものが多い。こいつもきっと高く売れるだろう」
がははと嫌らしい笑い声を立てる男たちを見て、トウヤンはもう我慢なりませんでした。物陰から飛び出すと、まずは刀を抜かずに堂々と前に出ました。トウヤンを見つけたシンは主人の元に戻ろうと暴れましたが、手綱が支柱にかけられているため身動きができません。
「返してもらおう」
トウヤンは男たちに言いました。
「それは俺の馬だ」
3人組の男たちは目で示し合わせました。こんな時に逃げる算段でも立てているというのでしょうか。とにかく、盗んだ上に、ここまでこそこそされるのは気分が悪いものでした。
「……わ、悪かった。俺たちも生活に困ってたんだよ。だから馬を盗んだんだ。見逃してくれ」
帽子男はやけに丁寧な口調で言いました。ですが、彼らはやっていることと言っていることがまったく一致していません。悪いことをしておいて、急に下手に出るというのは、なにか裏があるからに決まっています。それに、トウヤンはさっき物陰で聞いていた彼らの本音こそ、信じるに値する言葉だと思っていました。
「調子がいいんだな」
そう言いつつ、なにか妙な違和感を抱いていました。こちらが出し抜いたと思ったにもかかわらず、向こうに出し抜かれているような、そんな気分でした。トウヤンがシンを取り返そうと前に進み出た時――急に視界がぼやけました。気のせいかとも思いましたが、立てなくなるほど強いめまいが襲いました。うずくまったトウヤンを見た男たちは、ニタリと笑いました。立ち上がらなければ、刀を握らなければ……。ザクザク雪を踏んで近づいてくる足音が聞こえました。
「この若造が」
ひげ男は、トウヤンの腹めがけて蹴りを入れました。その後も、トウヤンは抵抗することもできずに蹴られ続けました。顔は傷だらけで、着物はヨレヨレです。剣士として、なんたる屈辱でしょう。金目になりそうな物を全て奪われました。剣士の命である刀まで奪われたトウヤンは、自由がきかない自分の体に腹を立てていました。このままじゃ、シンも、あの女の大切な荷物も、自分の大切な刀も奪い返せません。男たちはトウヤンのすぐ横でげらげら笑いました。
「見てくださいよ、この刀。見たこともないくらい高そうですよ。こんな若造の剣士が持てるとは思えない! いったいこの男はどこの出身なんでしょうねぇ。おい、お前の出身はどこだ!」
トウヤンは帽子男に髪を引っ張られました。
「やめておけ。毒が回り過ぎて口も利けないさ」
ひげ男が言うと、帽子男はトウヤンを乱暴に離しました。
「こいつはどうします? ここに置いても足がつきますよ」
「川に流せばいいさ」
ひげ男は恐ろしい計画をトウヤンの前で言いました。
このまま身動きが取れず川に流されれば間違いなく死ぬでしょう。極寒の川に投げ込まれれば、まず心臓が止まるでしょう。手足は縄でしばられています。自分が死ねば、イザナは1人ぼっちです。
そんな時でした。物陰から、うまやのそばで会った女が駆け出してきたのです。トウヤンは必死に逃げるよう目で訴えました。ところが、女は大きな袋を男たちの前でドサッと置くと、別人のように冷たい口調でこう言いました。
「いつまで物色してるんだ。早くこの男を始末しな」
驚きのあまり、ここでようやく自分が罠にはめられたのだと知りました。女に抱きつかれた時、きっとなにか毒を仕組まれたのです。それに、冷静に考えればこんな夜遅い時間に、うまやの近くでうろうろしているのは奇妙です。そのことに気付かず、シンを盗まれたことで違和感にふたをしていたのです。トウヤンは自分が犯したミスに失望しました。女が下ろした袋の中身は部屋の荷物でした。でも、イザナの姿が見えません。トウヤンは底なしの不安に襲われました。
「この荷物は?」
襟巻男は荷物をあさりながら尋ねました。
「この男の部屋にあったもんだよ。小さな坊やもいたけど、珍しい光る宝石を持っていたから、縄にしばってそいつだけいただいてきた」
女の首には、イザナが大切に抱えていた小袋が下がっていました。イザナは今頃、部屋の中でわけも分からず縄でしばられたままということです。
「まったくお人よしの剣士だね、あんた」
女は横たわるトウヤンの目を見ながら笑いました。
「いいことを教えてあげる。この世はだまし合いなんだ」
女はトウヤンの頭をなでました。
「さようなら」
トウヤンは今、イザナのことが心の大半を占めていました。なんとか生きて帰らなければ、彼を楼閣に連れて行くことはできません。必死に逃げ出す方法を考えましたが、ついに縄で手足を拘束され、川へ投げ捨てられました。
全身が氷になったようでした。心臓は辛うじて動いていますが、いつまでもつか分かりません。毒が回っているせいもあり、もはやトウヤン自身の力ではい上がる力は残されていませんでした。ゆらゆら波打つ水面から見えました……男たちが去っていく影が。
もう、駄目です。
肺がつぶれそうになった時、なにかが勢いよく落下し、視界に泡がはじけました。水の中でもがく小さな手が、トウヤンの手をつかんだのです。ざばっと水の中からはい上がったのはイザナでした。彼は手や足を引っ張り、小さな体の全てを使って陸地にあげようともがきました。しかし、そのころになると、トウヤンの意識は完全になくなり、糸の切れた人形のようになりました。
周囲には人がおらず、漆黒の闇が横たわっているだけです。イザナはトウヤンの体を何度もゆすったり、頰をたたいたり、髪を引っ張ったりしました。ピクリとも動きません。ホクホクのジャガイモを分けてくれた時の笑顔も、誇り高く剣士のことを話してくれた時の自信も、彼が大切にしていたはずの刀もありません。
小さく震えるイザナの心には、悲しみと同時にいくつもの喜びが思い出されていました。初めて手を握ってくれた温かさ。差し向けてくれた笑顔の柔らかさ。頭をなでてくれた安心感。その全てが、大粒の涙となって頰を伝いました。
「トウヤン」
イザナは彼の名前を呼びました。ただもう一度、返事をしてくれることを期待して。でも、紫色になった彼の唇が開かれることはありませんでした。イザナは、こんな状況になって初めて、自分がどれだけトウヤンに救われたのかを思い出しました。心を閉ざすほど嫌っていたトンツクという男とは、比べものにならないほど優しくしてくれた青年。彼を失いたくありませんでした。
「トウヤン!」
暗闇の中に、イザナの泣き声だけが響いていました。
トウヤンはポカポカ温かい光に包まれた世界にいました。
自分が今までなにをしていたのかも忘れるくらい平穏で、悩みの一つもないところです。土の香りがする若草色のじゅうたんが、どこまでも続いていて、もう何年も雪を見ていないような気さえしました。柔らかい若葉の上を歩いて行くと、そもそも雪が何であったのかさえ、忘れていました。幸せな気分のまま歩いて行くと、幅50メートルは超えるであろう大きな川が現れました。美しい透明な川で、中には小魚たちが水草をかきわけて、たわむれていました。
そんな様子をながめていると、自然と口元がほころんでいました。穏やかで、ずっとここにいたいと思えるほどでした。
「気持ちいいな……」
トウヤンは若草の上で横になり、大きく背伸びをしました。まどろみの中、青い空を見上げるのは心地がよいものです。しばらくそうしていると、柔らかい風に乗って、涙がでるほどに懐かしい匂いを感じました。飛び起きて辺りを見ましたが、誰もいません。
トウヤンは匂いを頼りに川沿いを歩きました。そうするうちに、たくましい青年の姿をしていたトウヤンは、少年の頃の姿に戻っていました。背も低く、今よりうんときゃしゃで、首も細く、ひ弱なあの頃に。
トウヤンは、白い花が咲き誇る花畑に来ました。実に見事だったので、その代償に目を奪われるのではないかと心配になるほどでした。誘惑に負けて、無数に咲く花の中から一つだけ摘み取りました。
横を見ると、川の向こうに光り輝く女性が立っていました。一つに束ねられた長い髪、思いやりにあふれた目、人のよさが染み出た笑顔。夢にまでみた、トウヤンがこの世で一番愛していた美しい女性でした。会いたくて、会いたくて、その手を、足を、川へ伸ばしました。
「母さん」
水が膝元まで漬かった時でした。
「失敗は許されません」
必死に伸ばしていた手を、トウヤンは引っ込めました。そうです。彼は母親が自分と同じように会いたいと思ってくれていると、信じていたのです。けれども、投げかけられたのは、自分を律しなさいと言われているような、甘えられない言葉でした。
「分かってる」
トウヤンは自信のない声で言いました。
「あなたを必要としてくれる者が、この世界には大勢います。剣士として、その名に恥じぬ死を選びなさい。そして、あなたの力は、自分のためではなく、人のために使いなさい。それが宿命です。大きな船となりなさい。トウヤン。いずれ船に乗り、あなたを慕う者が現れるでしょう。その人たちを導くのです」
母親はしゃがみ込むと手元でササの葉を折り、船の形にして川に流しました。小さなササ船は波に揺られながら真っすぐトウヤンの元へ進み続けました。
「私はその船が沈まぬよう、少し離れた所から見守っています」
トウヤンはプカプカ水面を浮かんできたササ船を、両手ですくいました。顔を上げると、母親はどこにもいませんでした。
”トウヤン”
誰の声でしょうか。後ろを振り返りました。同時に、彼はもう少年の姿ではありませんでした。
”トウヤン”
またです。自分の名前を呼ぶ男の子の声。トウヤンは、大きな川とは反対方向に走り始めました。自分はなにか大切なものを忘れている。置き去りにしたままなのだと、川から遠ざかるほどに強く思い出しました。でも、まだなにを忘れているのか思い出せません。白い花畑を抜けて、若草のじゅうたんを過ぎ、ついにその名前を思い出しました。
「イザナ!」
目を開けると、そこは暗闇でした。
月も見えない暗くわびしい冬の夜。握りしめていたササ船も、白い花も、手にはなく、代わりに自分の胸の上で眠るイザナの姿が見えました。随分と泣いた後なのか、彼の顔は涙の跡で真っ赤に腫れ、少しばかりむくんでいます。
少しも寒いとは感じませんでした。それどころか、頭の先からつま先まで、どんなに細い血管でさえ、満足に温まっていると分かりました。その理由が今、分かりました。イザナが暖炉のように暖かくトウヤンを温めていたのです。瞬く間になにがあったのかを思い出し、トウヤンはイザナに腕を回しました。
「あったかい、あったかいよ……あったかい」
イザナは薄っすらと目を開けました。
「ごめん、ごめんな」
イザナはトウヤンの胸の中で苦しそうにもがきました。
「助けてくれたんだな、イザナ。ありがとう」
「トウヤン」
自分の耳を疑いました。
「トウヤン!」
イザナは大きな声で言いました。
「しゃべれるのか! あぁっ……!」
トウヤンは目の前にいる男の子がたまらなくいとしいと思い、額にキスしてやりました。ずっと何もしゃべらないと思っていたイザナが、自分から言葉を発したのです。
「どうやってここに来た」
イザナはすっかり乾いたトウヤンの縄に手を触れ、火を起こして焼き切りました。続いて足に巻かれた縄も同じようにして、ついにトウヤンは自由の身となりました。この時になって、トウヤンは初めて気付きました。右手の感覚がまるでないのです。自分の手に人の手がついているような不気味な感覚でした。トウヤンはそのことを顔に出さず、イザナの顔を見て笑顔を見せました。
「すごいな。そんなこともできるのか」
イザナはいきなりトウヤンに抱き着いて離れようとしませんでした。
「ごめんな。あんたの石、持っていかれちまった」
言葉の意味を理解したのか、イザナはしょんぼりしました。
「火の石はあんたじゃないと扱えない物だ。でも、心配するな。必ず取り返す。シンも、刀も、荷物も。よし、ひとまず……」
トウヤンは立ち上がろうとして、全身のしびれる痛みにもだえました。どうやら毒のせいで、体中にしびれが残っているようです。
「病院に行こう」
トウヤンとイザナは病院に駆け込みました。
「はい、いいですよ。しばらくそのベッドで寝ていてくださいね」
医者の言葉通り、トウヤンはベッドでごろんと横になりました。どっとくる疲れに負けて、2人はそのまま眠りにつきました。
明け方、医者が戻ってきました。
「いいですか」
医者は真面目な顔で言いました。
「これは奇跡です。こんな猛毒を盛られて生きているなんて、普通では考えられません。あなたは99・9%の確立で死亡する毒を盛られ、生き延びたのです。トウヤンさん、あなたは生かされたのです」
医者はトウヤンの右手を優しく包みました。
「右手にはまひが残りますが、まさに不幸中の幸いです。あなたは確か剣士でしたね。その手は剣士としてあなたの命だったはず。これが失われた今、あなたはこれから先、思い悩むことがあるかもしれません。でも、私が言ったことを決して忘れないでください。幸運にも生き残ったのですから」
トウヤンは感覚のない自分の右手を見つめました。
「近頃、剣士や旅人を狙った強盗が横行しているんです」
「だろうな」
トウヤンは言いました。
「なんでも、人の親切心を利用した犯行らしいですから、単純に人を信用しない方がいいかもしれません。まったく、嫌な世の中になったものです。この町でもあなたみたいな旅人が狙われて姿を消しているんです。助かって本当によかった。馬を連れているのなら、盗難防止用の板を付けておくといいでしょう。警察署に行くともらえますよ」
この調子では、楼閣に着くのはまだ先になりそうです。まずはシンと刀、それから火の石を取り戻さなくてはなりません。ただ、肝心の居場所が分からなければそう簡単に見つけることはできないでしょう。トウヤンはもやもやと考えながら、いい案を思いつきました。それは、あの村に訪れた日のこと。トンツクの家に入ったらイザナが壁をたたいて音を出した行動に、ヒントが隠されていました。仮にイザナが石を求めていたとしたら、あの時石が近づいたことを察知して、本能的に壁をたたいたのかもしれません。そう考えれば、今の問題も解決できるかもしれません。
トウヤンが視線を横に向けると、トウヤンが本の挿絵を指さしていました。
「そいつはクマだ」
そう教えてからトウヤンは真剣な顔になりました。
「イザナ、教えてくれ。俺が村に行った時、壁をたたいたのはどうしてだ?」
イザナはまた黙り込みました。ようやく言葉を出せるようになったかと思えば、どうやらまだ他の言葉は難しいようです。
「分かった。質問を変えよう。火の石はどこにある? 赤色に光る、あんたの石だ。もし分かるなら、指を指して教えてほしい」
トウヤンは首にかけていた小袋やら石を手ぶり身ぶりで伝えながら、一生懸命イザナに問い掛けました。今度は分かりやすい質問で理解できたのでしょう。イザナは急に立ち上がると、病室の窓から山並みが見える方向を指さしました。
「あっちにあるのか! あぁ……ありがとう!」
その言葉は何度言っても言い足りない言葉でしたが、ごめんね、と言うよりは感謝を伝えられる優しい言葉でした。トウヤンは無口なイザナを見ているうちに、もう一度言おうとした同じ言葉を胸にしまい込みました。言うだけなら簡単なのです。実際に行動し、言葉を実現させるためには、勇気がいることも知っていました。それをイザナはたった1人で成し遂げたのです。まさに言葉を失うとはこのことでした。
自分が犯した失敗から起こったことですが、命が助かった以上、火の石を取り返さなくてはなりません。少し触れただけで大変なことになる石ですから、今頃どんなふうに扱われているのか、知れたものではありません。体調が回復し次第、なるべく早く移動を開始した方がいいでしょう。
病院で治療をしてから2日が過ぎました。右手はと言いますと、ちっともよくなる気配はありませんでした。肘から指先にかけて、やはりどうしても感覚が戻らないのです。ふと触れた瞬間、知らない人の手があるような気分で慣れませんでした。あの医者の言う通り、生きていればそれでよし、と言いたいところですが、残念ながら今のトウヤンは文字通り無一文で、ジャガイモ一つ買えませんでした。これでは宿代を払うこともできません。そこで一つ、あまり得策ではないのですが、町のよろず屋に立ち寄り、借金をすることにしました。
「命があっただけでもよかったじゃないか。なぁに、気にすることはない。お金ならちゃんと返してもらえれば問題ないからさ」
よろず屋の亭主は書類1枚で親切に応じてくれました。トウヤンは臨時に得たお金で防寒具をそろえ、食料と刀を買い、宿代を払いました。たったこれだけのことで、お金は泡のように消えていきました。
犬ぞりで各地を渡り歩いている行商人の男と出会いました。彼はメドリと言い、高価な骨董品を売り歩く商人でした。こういった商人の多くは用心棒としてすご腕の剣士を雇うことが多く、彼もまたこの町で新しい剣士を捜していたのです。
「あの山を越えた先に行くのさ」
「乗せてくれないか?」
「君は剣士か」
「そうだ」
「剣士証を見せろ」
そう言われてトウヤンは頭をかきました。
「なきゃ駄目か?」
「当たり前だ。剣士である証明がなければ、乗せるわけにはいかない」
どうしてこう難航しているかというと、剣士証が手元にないからでした。剣士と名乗れるのは、剣士協会に所属し、正式な剣士証を持った者だけです。そんなものまで盗まれていたのですから、本当に強盗とは恨めしい存在です。
「協会に問い合わせれば分かる! 俺の名前はトウヤンだ。なぁ、頼むよ」
諦めずにわめいていると、さっき世話になったよろず屋の亭主がやってきました。
「犬ぞりの商人さんよ、そいつを連れていってくれないか」
「あなたには関係のない話です」
メドリは突き返しました。
「俺はこいつに金を貸したんだ。大丈夫、保証人になってやるからよ。荷物のことなら安心しな。こいつは数日前強盗に殺されかけて、金品ぜーんぶもってかれちまったんだ。そんで、取り返しにいくために、足が必要なんだと。ここは一つ、人助けだと思ってくれないかい」
「なおさら無理だ! 強盗も追い払えない剣士を雇ってどうする」
「なんでも優しさに漬け込まれたんだ。毒を盛られたら、誰でもかなうまい」
メドリはむっとしていた顔を急に緩めました。
「そんなことがあったとは知らなかった」
よろず屋の亭主はメドリに近づくと耳打ちしました。
「ここだけの話、俺はあのトウヤンって男を知ってる。あいつは領主に代々仕えているいいとこの剣士だ。ここで貸しをつくっておいて、損をすることはない。少しお人よしな剣士ってだけだろうよ」
「それはつまり、南のコウ領主の?」
「そういうことだ」
メドリは考え込んでいた顔を上げました。
「いいだろう。乗るがいい」
こうして見事約束を取り付けたのです。右手が使えないとは言え、だましたつもりはありませんでした。もともと両手で刀を振れましたし、左手でも並みの剣士程度は技術がありました。
トウヤンは、イザナが指さした山に向かうことにしました。
さっそくイヌたちが待つ場所に行ってみると、大きなそりの前に、毛がフサフサした大きな白いイヌがつながれていました。小型犬が8匹くらいそりを引いているのかと思っていただけに驚きました。
「でっかいイヌだな」
「雪の大地もなんのその、こいつらが力強く引っ張ってくれる。さぁ、なにをぼーっとしている。早く乗れ」
メドリに促されてトウヤンはイザナと一緒に乗り込みました。そりは馬車の荷台ほどに大きく、ほろまでついていました。そりの後ろには商売道具や商品がぎっしり詰まっていて、覆いの隙間からキラキラ光る財宝が見えました。
「さぁ、行くぞ!」
メドリの合図とともに犬ぞりは元気よく前進しました。
「動き出したぞ! 見てみろイザナ、ぐんぐん走ってる」
トウヤンはイザナを引っ張ると、前に座るメドリの脇から通り過ぎていく景色をのぞきました。常に馬と大地を駆けてきたトウヤンにとって、犬ぞりは新鮮な経験でした。なので、今は興奮した少年のようにはしゃぎ、イザナにうとまれるくらいでした。
「さっきはすまなかった」
しばらく走ったところでメドリは言いました。
「怪しまれて当然だ。こっちこそ無理言って悪かった」
「私は以前、剣士を名乗る男をそりに乗せたことがあってね。剣士証がなかったが、どうしても乗せてほしいというから乗せた。でも、やつは剣士を装った強盗だった。商売道具も大切な商品も、全て奪われたよ。一つの荷で1年は楽に暮らせるだけの価値があるものだったのに」
「そっか」
「だから、剣士証のない者以外は絶対に乗せないと、そう決めてたんだ。でも、私はこうしてまた君のような剣士証のない者を乗せている。もちろん、君の熱意もそうだが、あのよろず屋の男が君を名のある剣士だと教えてくれたからという理由もある。私はコウ領主を敬愛している。だから君を雇った」
「なんで知ってるんだか、あのよろず屋は」
「ああいう仕事をしている者は情報通だ」
メドリは少しだけ笑うとチラリと振り返りました。
「人を信じるというのは難しい。この年になってもだ」
「そうかい」
メドリは真面目な顔で前を向きました。
「だからだろうね。裏切られた時の悲しみはよく分かる」
「苦労してるんだな」
トウヤンはやれやれといった口調で言いました。
「人生は苦労の連続だよ」
メドリはクスリと人のいい笑みを浮かべました。
「心の苦労は目で見えないものだ。どんなに素晴らしい笑顔をしていても、根は既に枯れているのかもしれない。もしくは、枯れかけているのかもしれない。ありのままの人間などいない。皆心を持っているからな。だから疑わないといけない。本当に満足しているのだろうか。本当に楽しんでいるのだろうか。無理はしていないだろうか。善良な疑いを。その根っこが見えた時、人は心を開いてくれる。どうして分かったの? なんてね。疑うべきは、本来そういったことだ。だが、残念ながら、私たちは人の腹黒さを疑わねばならん。信じてもいい。疑ってもいい。でも、よい心を忘れるな」
こうも長く説教くさいことを言われるのは久々でした。一方で、トウヤンは彼の言葉を聞いたからこそ、今こうして安心していられるのだと思っていました。
「つまり?」
「人は自分の痛みを知って、初めて他人の痛みを分かち合える。本当の意味でな。だから今は苦労を買ったと思えばいい」
「そうかい。じゃあ俺は今、あんたの苦労を買ったことになるな」
トウヤンがニッと笑うとメドリも笑いました。
「私の苦労は高いぞ」
3人を乗せた犬ぞりは、順調に雪原を走っていました。途中、他の犬ぞりとすれ違いましたが、そのたびにメドリは手を上げて合図をするのです。彼に聞いてみると、あれは「お疲れ様。この先もご無事で」と相手を思いやるあいさつとのこと。
「イザナ、これを持ってみろ」
トウヤンはイザナにお手製の小旗を渡しました。
「石の場所。感じるままに方向を指してみろ」
小旗には、なにやら手書きの簡単な似顔絵が描かれていました。その絵が気になったのか、イザナは方角そっちのけで夢中でした。
「こっちの大きい丸が俺」トウヤンは指で自分のことを指しました。「んでんで、こっちの隣にいる小さい丸がイザナだ!」
ミミズがはったような絵を見て、イザナは眉をひそめました。
「おいおい、そんな顔するなよ」
イザナの機嫌をとっていると、そりの動きが緩やかになって、やがて止まりました。
「休憩だ」
トウヤンは外に出ました。イヌにご飯をあげてからメドリが戻ってきました。
「もうすぐ日が暮れる。その前に私たちも夕食にしよう。夜が深まれば強盗たちが動きだす。しばらくここで休憩したら、夜明けとともに出発だ。火を起こすから手伝ってくれ」
「分かった」
「なにかあった時は私も戦うが、君の力も貸してほしい」
メドリは火を起こし、魚介が豊富に入った特製のスープを作りました。イザナはおなかも満たされ安心したのか、トウヤンに寄り掛かりながら眠りにつきました。
「盗まれた物を取り返しに行くと言ったが、警察には頼まなかったのか」
メドリは言いました。
「一問題からんでる」
チカチカ燃える火を見つめながらトウヤンは言いました。
「力になれることがあれば言ってくれ」
トウヤンは「言っても信じないさ」と言おうとして、言葉を引っ込めました。彼ならきっと信じてくれる、そう思えたのです。トウヤンは素直に、ここに至るまでのことを彼に話しました。一通り話を聞いたメドリはさして動揺するわけでもなく、冷静な目で深く物事を考えているようでした。
「聞いたことがある」
「ほんとか?」
「千年前は四季のある美しい大地が広がっていたと。では、このイザナという子が、千年の時をへて選ばれた火の器だと?」
「そうらしい。器に選ばれた人間は、水の石を破壊できる力をもっている」
「水の石なのに、なぜ世界は水に包まれない?」
「石には影の部分がある。それが暴走して氷になった」
「危険な石が存在する理由は?」
「知らないねぇ、俺は。ただ剣士として、イザナを連れてくるように雇われただけだ。その石も盗まれるなんて首どころじゃないけどさ」
「石を盗んだやつらはその真価を知っているのか」
「たぶん、知らないと思う」
メドリは感慨深そうに空を見上げました。トウヤンだってそんな話は最初信じられませんでしたが、イザナという不思議な男の子と接するうちに、そういうものなのか、と妙に信じている自分に驚いていました。そもそも、自分は雇われた剣士。どこまでこの問題に立ち入っていいのか分かりませんでしたが、なんとなく仕事が完結した後のことを考えるのは気分が落ち込みました。こんな失態をしたのだから、きっと報酬は半分ももらえないでしょう。仕事が終わったとして残るのは――
トウヤンはふと自分に寄りかかるイザナの寝顔を見ました。彼の小さな手には、お手製の旗がギュッと握られており、粗末な似顔絵が心なしかさみしそうに見えました。
夜明けの出発まで、トウヤンは神経を張りつめていました。みんなが眠る中、トウヤンは目を開け耳を澄まします。眠りは浅い方ですが、ここはドア一つない外。少しの眠りが命とりになります。自分を信じて雇ってくれたメドリの期待に応えるためにも、気を緩めるわけにはいかないのです。何時間も過ぎ、辺りは風も少なく雪もまばらでした。
遠くの空でゴロゴロ雷が鳴る音がしました。岩の上に登って目を細めると、黒い雲が目指す山の方向に垂れ込めているのが見えました。この調子でいけば、夜が明ける前に嵐が襲いそうです。しばらく空をながめていると、突然ピカッと大きな雷が山の向こうに落ちました。遅れて空が切り裂くような音がとどろきました。
イザナが目を覚ましてこちらを見上げていました。
「大丈夫、心配すんな。朝が来るまでゆっくり寝てな」
トウヤンはイザナを抱えると、そりの荷台にのせて毛布をかけてやりました。再び離れようとしたら、イザナがトウヤンの手をつかみました。じんわりとした温かさが手から全身へ巡り、寒さが和らぎました。
「助けられてばかりだ、俺」
日が昇るころには、あの黒い雲が完全に太陽を隠していました。
「トウヤン、またしばらく走る。君は少しそりの上で寝ていなさい。なにかあれば起こす」
メドリは再びそりを走らせました。そうは言われたものの、トウヤンにはイザナから正しい方角を教えてもらう役目を担っていましたから、眠るにしても数時間置きに仮眠をとることしかできませんでした。イザナはやはり旗を山の向こう側に示しています。寝ては起きてを繰り返すうちに、トウヤンたちを乗せた犬ぞりは山の麓に差し掛かり、木々が生い茂る山道へと入っていました。ここから先が大荒れでしたが、ほろがあるおかげで雪をかぶることはありませんでした。視界はついに真っ白で一歩先にも進めない状態となりました。あまりにふぶくので、そりは立ち往生になりました。
「落ち着くのを待つしかない」
「やみそうにもないぞ」
「前が見えないのでは仕方がない」
メドリはそう言って荷台に戻りました。
「本当にこの先でいいのか?」
「あぁ」
「この山を越えた先はシバという大きな町だ」
「知ってる」
トウヤンの言葉にメドリは目を丸めました。
「どこから来た」
「出身はよろず屋の言う通りコウ領主の土地。だけど、この仕事を依頼される前は、この山を越えたある町にいた。そう、あんたが今言った、四つの領土が交わるシバにな」
「なるほど。確かに、あそこには剣士協会本部がある」
「俺はそこにイザナと火の石を無事に届ける。だから石がそこにあるっていうんなら、一石二鳥だ」
トウヤンは気付いていたのです。最初に出発した楼閣がある町に、今戻っているということを。たどってきた道とは真逆ですが、向かっている方向はシバ方面でした。
「そこに強盗がいると思うか」
「そう願うよ」
3人は長いことそりの中にいましたが、一向に雪がやむ気配はありません。こんな時にイザナがそばにいると寒さを知らずに済みました。イザナは自分が温かいことで2人の役に立てていると思ったのか、さっきからいつも以上に熱くなって、ほろの中を暖めてくれました。
「やっぱりあったかいなぁ」
トウヤンがニコニコしながらイザナに抱きついている時でした。急に奥からドタバタ雪を蹴って走る音が近づいてきたのです。山道は同じようなそりがやっとすれ違えるだけの距離しか空いていませんから、メドリは心配になって外に出ました。吹雪の中現れたのは、馬を引き連れたご一行で、剣士協会の立派な旗をなびかせていました。ぼうぜんとするメドリの前に、馬に乗った1人の老人が止まりました。顔中に深いしわがあり、賢そうな目、長い白髪をしています。
「トウヤンはどこだ!」
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