21



 沢村櫂の入ったグループは、今まさに5つ目の謎を解いているところだった。教室内で15人余りの男子高校生が頭を寄せ合ってあちらこちらに隠された謎を解いていくというのは、傍から見ていると随分と面白いものだが、本人たちは至って真剣だった。

「うーわ、何これ分かんないです…」

「えっ、ちょっと貸して? これさ、あれじゃない? なんだっけ、英単語」

「ばか、そりゃみんな分かってんだよ!」

 教室内には辞書やそれらに付随するすべてのものが撤去されており、携帯も実行委員以外は持ち込めない中、喉元まで出かかっている答えの正しさを確かめることは出来ない。徹底的な下準備の良さに生徒会と実行委員の意気込みが知れた。これを考えて実際に実現に繋げることはさぞかし大変だっただろうと、櫂は思った。ちくりと罪悪感が込み上げて、風間に手を貸さなかったことを後悔する。半分は意地のようなもので、自分で身動きが出来なくなっていただけなのだ。

 来吏人にも少し前に言われていた。もういいんじゃないか、と。

『風間に言われたから言うんじゃないけどさ』

 もう少し落ち着いたら──いや、あとで、顔を出してみようか。

「よっし! 解けたあ!」

 車座になった中から声が上がる。それを遠巻きに見ていた櫂は苦笑した。

 答えを書いた紙を手にした三年が出入り口横の廊下側の窓を開け、紙を外の3人に渡す。受け取った3人は答えを手に廊下を走って行った。それを見送った教室内の空気が、肩の力が抜けたようにふうっと一気に緩んだ。

「あー腹減ったあ」

 ざわざわと皆が話し始める中、ジジ、と天井近くに設置されている構内アナウンスのスピーカーが音を立てた。

『ん、んっ、あー』

 聞こえてきた声に櫂の目が見開いた。

 やけに間延びした──聞き覚えのある声。

『えーと! あのーお疲れさまです、せ、生徒会です、えーと…、ん? これ? あ、ここか…皆さん謎解けてますかどうですかー』

「え? なにこれ来吏人じゃん?」

『ここで! 慰労会の軽食のメニューを紹介しまーす』

「おおっ」

「何で来吏人?」

 上がった声に教室内の三年のクラスメイト全員が櫂を振り返った。

「おまえのせいだぞ沢村あ」

「ちゃんとフクカイチョーしとかねえから」

「風間もやるよなー」

「中園かわいそー」

 ひく、と顔を引き攣らせて櫂は呟いた。

「あの野郎…」

「おーい、沢村!」

 開いた廊下の窓から呼ぶ声がした。苛立ちながら顔を向けると、そこにはひどく焦った表情の松島が櫂に向かってぶんぶんと、両手を大袈裟なほど大きく振って身を乗り出していた。

「こっちこっち!」



「だから…」

 と平田は痛む頭を和らげるように、こめかみをぐりぐりと拳の凹凸で押した。

「俺は風間に頼まれたんだよ。文句があるなら本人に直接言え」

「で、その風間は?」

 体育館の入口で待機している平田に、ため息まじりに櫂は言った。

「出た」

「でた?」

「外に出たの」

「外? なんでだよ、まだ途中だろ」

「色々あるんだよっ」

 仕方ないだろ、と平田が言った。

「あんなふうに頼み込まれたら」

「……」

 体育館の中は空調が効きはじめ、とても涼しかった。実行委員や手の空いている先生たちがそこら中を忙しなく歩き回り、慰労会の準備をしている。運ばれていくテーブル、パイプ椅子、その間にもプレイヤーだった生徒たちが笑い合いながら入ってくる。

「沢村の事情も分かってるけどさ、今日だけでいいから許してやれば」

「…」

 許すも許さないもない。

 はじめからちゃんと分かっていたのに、自分の事ばかりで手を貸そうとしなかった自分がいけなかった。今日外野にいて、そのことを改めて実感していた。

 風間は本当に大変だっただろう。

「俺は…」

「あ、櫂!」

 体育館の入口から、来吏人が入ってくる。

「やっと来た、なー聞いた? おれのアナウンス、滅茶苦茶キンチョーしたんだけど!」

「ああ、まあ…」

 こちらに駆け寄って来る姿に、櫂は肩の力が抜けるのを感じた。

「おまえ遅いよ」

 来吏人に腕を取られ、引っ張られる。

「おれも手伝うからさ、もういい加減、副会長しようぜ?」

 なぜ風間がこの非常時に、自分ではなく先に来吏人を連れて行ったのか、分かる気がした。自分たちのことを風間に言ったことはない。でももしかしたら気づかれていたのかもしれない。風間は櫂にとって何が一番有効なのかをちゃんと理解しているようだ。たとえ知らなかったとしても、勘のいい風間は無意識にそれを選んでいる。

 敵わないな、と苦笑する。

 頭の良い奴にはほんと参る。

 苦笑交じりに来吏人の言葉に櫂は頷いた。

「それで、…俺は何をすればいい?」

 平田を振り返って櫂は言った。


***


 校門を出るとき、胸が痛まなかったわけじゃない。

 櫂にはちゃんと今度こそ正面から頼むべきだった。でも時間はなくて、全然なくて、ずるい手を使ってしまったことがひどく後ろめたい。

『頼む来吏人、おれの一生のお願い聞いて』

『え、なに、どうしたんだよ』

『俺、今すぐ行かなきゃいけないところがあって、だから』

 櫂を呼びたいから、と言うと、それだけで来吏人は分かったようだった。

『わかった。もういいよ』

『悪い』

『いいよ。早く行けば』

 仕方がないように来吏人は笑った。

 ごめん、と言って視聴覚室を出ようとして、なあ、と来吏人に呼び止められた。

『なんでおれだったの?』

 櫂の友達は他にもいる、そんなニュアンスの込められた言葉に、俺は言った。

『だっておまえが櫂の一番だろ』

『──え?』

 一瞬言葉に詰まった来吏人の顔が真っ赤になる。

 来吏人は櫂に影響を与えるほど、一番の親友だ。

 きっと。

『え、な、えっ!? か、知っ…』

『ありがとな、来吏人、借りは返すから!』

 なぜかぱくぱくと口を開け閉めしている来吏人にそう言うと、俺は頭を抱えている平田にごめんと言って走り出した。



 借りた平田の自転車を全速力で漕いで、俺は佐根井から聞き出した場所を目指した。

 S通りは駅の向こう側だ。線路を渡り、それと交差する高架をくぐらないといけない。

 制服の上着が背中で捲れ上がる。暑い。でも脱いでる暇も惜しくて漕ぎ続ける。泳ぐネクタイが首に纏わりついて邪魔だ。

 カン、と線路の警笛が聞こえてきた。

 カンカンカン、と続く。

 あと少し。あれを越えたら、左に曲がって。

 遮断機の下りた踏切の手前で自転車を止め、電車が通り過ぎるのを待つ。その速さに巻き込まれる風が俺の服も煽って行く。

 胸ポケットの携帯を取り出してメッセージを送った。

 今、どこにいるの?

 既読になるのを確かめる前に電車は行ってしまう。

 跳ね上がった遮断機を越えて、自転車を漕ぐ。

 どこにいるの?

 どこにいるの、返事してよ。

「く、そ、…っあー、もう!」

 なんでだよ。

 なんで先生、会わないって言ってたじゃん。

 なんで行くの?

 仕事ほっぽり出して何してんだよ。

 ちょっと泣きつかれたからって、ほだされてんじゃねえよ。

 見えてきた曲がり角を左に曲がり、その先の高架を抜ける。あとはもうまっすぐに、まっすぐに進めばS通りにぶつかる。十字路だ。この先にはこのあたりで一番大きな市立病院があり、Kホテルは通りを渡った左手にある。

 信号は赤。

 早く、早く、と心が焦る。

 ハンドルを握る手が汗で滑る。

 心臓がどくどくと鳴る。

 汗がこめかみを伝って顎に落ちた。

 先生、なんで。

 なんで言ってくれなかったんだよ。

 今朝話したじゃん。

「通話に…すりゃ、よかった」

 声を聞いていたら、分かったかもしれない。

 でも今さら遅くて、言ったところでどうしようもない。ただ早く、顔が見たくて。

 もうそれだけだった。

 何にも、何にもありませんように。

 ぱっと青に変わる信号。

 横断歩道を渡る人たちを避けて、出来るだけ早くと俺は足を動かした。

「──」

 渡り切る寸前、誰かがショートカットしようと、俺の前を横切った。

 耳に挿入ったイヤホン。

 気づいてない。

 避けようとした瞬間、右手にすれ違う車の中の顔が見えて──俺は振り返ってしまった。

 黒いタクシー。 

 段差に前輪が取られた。

 ──まずい。

「──ッ」

 歩道に乗り上げたタイヤが大きく揺らぎ、自転車はバランスを失った。滑るようにして倒れ込む。

 俺は勢いよく歩道に投げ出された。

「い、…っ」

 咄嗟に取った受け身がよかったのか、痛みはそれほどじゃなかった。肩が痺れていて、楽になろうと仰向けに転がった。

 空が回ってる。

「おい大丈夫か?!」

 周りに人が集まってきた。覗き込まれ、俺は大丈夫、と答えた。

「救急車呼ぶかい?」

「いえ、平気、です」

 ゆっくりと背中を起こそうとして、やめた。まだちょっと、早い。

「ああ、まだじっとしてなさい」

 年配の男性に言われ、俺は頷いた。

 大きく息をつく。

 そうしてようやく周りを見た。

 横になった視界の中で、知らない誰かが街路樹の下に倒れた自転車を起こしてくれていた。

 他に倒れている人はいない。

 誰にも、多分誰にもぶつかってない、…はず。自分だけだ。

「…よかった」

 ああ、よかった。

 一気に噴き出してきた汗に風が当たって冷やされる。ひんやりと気持ちいい。

 空が青い。

「──くん、かざまくんっ」

 その声に俺は顔を向けた。走ってくる足音。周りの人をかき分けて駆け寄ってきたのは、先生だった。

「風間くん!」

「…せんせー」

 やっぱり、見間違いじゃなかった。

 タクシーの中にいたのは、ほんとに先生だった。

 ほんの一瞬、目が合ったから…

「はは、よかった…」

「なに、何言って…! なんで、なにして…っ、なんできみこんなところにいるんだよ!」

 歩道に寝転んだ俺に覆い被さるようにして先生は声を上げた。確かめるように手のひらで頬を触られる。気持ちいい。

「まだレク中だろ? 血が…怪我は? 痛いところは? なんで、なんで自転車なんか、どこ行こうとしてたの、あんな急いで!」

「…ふっ、ふふ」

「ちょっと、何笑ってるの…!」

「ははっ…、」

「笑い事じゃないだろ…っ」

 ぐす、と先生が鼻を鳴らした。

 今にも泣きそうなぐしゃぐしゃな顔。混乱しながら俺を叱る先生に、思わず声を立てて俺は笑ってしまった。

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