20


 第二棟の二階、一番端の教室に駆けつけると、廊下に薮内が立っていた。俺を見て大きく手を振る。

「あ、こっちこっち」

 少し慌てた様子で俺を呼んだ。

 携帯に着信を残していたのは薮内で、教室の中で体調不良の生徒が出たということだった。

 こんなときに、と思ったことは正直否定しない。

「具合悪いって」

 そう言った薮内の足元には一年生らしい人影がひとり蹲っていた。

「立てる?」

 しゃがんで顔を覗き込むと、彼はこくりと頷いた。両腕の中に埋めた青褪めた顔は貧血のように見える。

「保健室に…」

 言いかけてはっとした。和田の見間違いじゃなければ先生はいない。

「いいよ、オレ連れてくわ」

 薮内の横にいた三年の実行委員が、一年生の肩を抱くようにしてそっと立ち上がらせた。

「おまえら手一杯だろ。任せとけ」

 薮内はまだここを離れられない。有り難い申し出に俺は頷いた。

「ありがと。じゃあ俺は、職員室行って誰か手の空いてる先生に声掛けてくるから」

「へ? のんちゃんは?」

「さっき、外出たって」

「ええ、マジか」

 薮内が目を丸くした。

「和田先生が見たらしい」

「見間違いじゃね?」

 そうだったらいいんだけどな。

「じゃあ、オレら先行ってるな」

「頼む」

 俺は頷いて、職員室に足を向けた。廊下を走る。佐根井がいる──すぐ近くにいたのに気がつかなかった。すれ違いざまに視線が絡まる。

 その口元が意味ありげに歪んでいたのは気のせいじゃない。

「──」

 ざわりと胸の中が蠢いた。

 なんでだ。

 なんで── 

 その顔はなんだ?

「平田に連絡しとくなー」

 背中に投げられた声に、応える余裕がなかった。



「すいません、保健室お願いします」

 職員室の入口から声を掛けると、奥で話をしていたふたりの先生が同時に俺を見た。

「はいはい、今行くよ」

 よいしょ、と小柄な先生のほうが立ち上がり、壁のキーボックスから鍵を取り出す。あれは保健室の鍵か。保健室は放課後以外で保健医が不在のとき、生徒が無断で入らないように一旦鍵を掛けておく決まりだ。

 すぐに戻るのなら、放課後と同じで薬品棚の施錠だけでいい。

 保健室の鍵を預けて行ったということは、やっぱり先生はしばらく戻らないつもりで外に出たのか。

「あの、能田先生って…」

「ああ、さっき出掛けてね。昼頃には戻れると言っとったけどね」

 念のために尋ねると、小柄な先生は困り顔で言った。

「どこに──」

「さあ…、いや、なんか急用みたいでえらく慌ててたよ」

「そうですか」

 携帯に連絡はない。

 どうしたんだろう。

 何があった?

 もやもやとしたものを抱えたまま、俺は代理の先生と保健室へ向かった。廊下の奥の扉の前ではさっきの実行委員の三年と具合の悪い一年がすでに待っていた。手を振って合図をすると、向こうも振り返した。

「じゃ先生、あと頼みます。あの、多分、貧血っぽいんで」

「はいよ」

 俺はもう戻らなければならない。時刻は10時半になる。踵を返し、第二棟へ引き返す。廊下の向こうから、人の動き出した気配がする。ゲームも後半に入った。

 あと少し。

「──」

 だめだ。

 集中しろ、と自分に言い聞かせた。意識は無意識に逸れそうになる。先生のことが頭から離れない。気を抜くと、そればかりを考えてしまう。小さな子供が迷子になったわけでもないのに。

「くそ…っ」

 第二棟に入ると、鍵を持った先生たちを探し走り回る生徒たちとすれ違った。彼らの邪魔にならないように、俺は普段はあまり使われていない奥の階段を使って三階へと上がることにした。

 階段を上がりながら携帯を確認する。ラインのグループに目を通して、何事もないのを確認していく。

 ゲームは順調に進んでいた。生徒会のメンバーからも何もない。よかった。

 ほっとして顔を上げた、その視線の先の踊り場に足が見えた。

 誰かが座っている。

「大変だねー、風間先輩」

 階段の踊り場に腰を下ろした佐根井が、俺を見下ろしていた。

 俺は足を止めた。

「…何してんだ、ここで」

「ちょっと疲れたんだよ。休憩」

「実行委員だろ。持ち場に戻れ」

「別になりたくてなったんじゃねえもん」

 佐根井は膝に頬杖をついて笑った。

「風間先輩がいるから面白そーだと思ってさ。クラスの奴に代わってもらっただけ」

 面白そうに佐根井は言った。余裕のある口ぶりだった。

 こいつはここで俺を待っていたんだろうか。

 わざわざ、こんなどうでもいいことを言うために。

 思えば最初に話したときも待ち伏せだった。

「ああそう」

 今、こいつに取り合っている暇はない。俺は佐根井の横をすり抜けて踊り場を曲がり、階段に足を掛けた。

「いないんだろ、あいつ」

 笑いを含んだ佐根井の声が背中にぶつかる。振り向くと、佐根井が首を曲げ、俺を仰ぎ見ていた。

「…なに?」

「郁ちゃん。あー、ここじゃのんちゃん、だっけ」

 佐根井の口元が歪んだ。

「今頃、兄貴と一緒だよ」

 兄貴。

 音を立ててこめかみが引き攣れた。

「…ハア?」

 こわ、と佐根井が鼻で笑った。

「知らねえの? 兄貴があいつに電話したの」

「──」

 電話?

「知らねえんだ、ウケる…」

 固まった俺を見て、醜悪に佐根井は片頬を歪ませて笑った。

「あんたもさあ、あいつに気があるんなら掴まえとけよ。仕事中に抜け出して会いに行くとか普通じゃねーわ」

「まだ会いに行ったって決まってねえだろ」

 ハア? と佐根井は苛立ったように声を上げた。

「行ってるよ。昨日兄貴が話してるの聞いたんだよ、俺は! すぐ近くに仕事で行くから会えないかって、何度も何度も泣きそうな声で懇願しちゃってさあ、みっともねえったらねえよ! なんなんだよマジで!」

 佐根井は立ち上がってぐしゃぐしゃと髪を掻きむしった。引き結んだ口元が細かく震えている。先生が言っていた、佐根井は先生を嫌悪していると。同じ男を好きになった兄を憐れみ、そうさせてしまった先生をあれからずっと憎んで蔑んでいた。何もかもが先生のせいで──だから、結婚する兄の前に先生を連れて行き、自分の兄がまともになったことを証明したいのだと言っていた。

 でも、それは、何のために?

 誰のための証明なんだ。

「ちくしょう、…くそ、くそっ、くそ! あいつら俺を裏切ったんだ…! もう違うって言ったくせに…! なんだよっ、なんなんだよ…っ!」

 佐根井の足下に雫が落ちた。

 悔しさに滲んだ顔だった。

 階段に小さく響く嗚咽。

 ふと思った。

 もしかして、佐根井は…

 気がつけば、俺は踊り場に戻っていた。

「…どこだよ、そこ」

「ああ?」

「どこだって聞いてんだよ、知ってんだろ、場所ぐらい」

 一瞬、何のことか分からないような顔を俺に向けた佐根井は、ややあってぽつりと呟いた。

「S通り、にある、Kホテルのラウンジ…」

 携帯が鳴り出した。見れば平田からで、時間的にもう戻っていなければならず、限界なんだろうと分かった。

 俺は佐根井に背を向けて階段を上りかけ、肩越しに振り返った。

 佐根井は項垂れていた。その姿に向かって、俺は言った。

「なあ、おまえの兄貴が誰を好きになろうがおまえには関係ないことだろ」

「……」

「それで裏切られたことになるって、違うんじゃねえの?」

「…うるせえよ、おまえに何が分かんだ…」

 分かるわけがない。

 人の心の中なんて。

 だから不安になる。

「面倒くさいな、おまえ」

 佐根井が俺を睨んだ。

「兄貴と話せよ」

 それだけ言って俺は階段を駆け上がり、三階ではなく二階の廊下を突っ切った。遠くに薮内がいる。あの向こうだ、確か。俺に気づいて目を瞠るのが分かった。

「あれ、風間」

 廊下の真ん中にある中央階段を過ぎたとき、上がってきた人影に声を掛けられた。

 振り向くと、中園来吏人が立っていた。

「何してんの? なー見てよ、おれらいっちばん乗り!」

 手の中の鍵をぶらぶらと振って、来吏人はにっこりと笑った。

「凄いだろー? 答えめっちゃ簡単だったー、な?」

 にこにこと笑いながら、一緒にいた下級生に呼びかける。

 ああすごい、すごいなおまえは。

 見つける前に見つけてくれるんだから。

 俺はその鍵をひったくって、横にいた二年の手に押し付けた。

「来吏人、ちょっと来い!」

「え、なに? なにっ」

「悪い! ちょっとこいつ借りてくから!」

 傍にいた一年と二年がぽかんとした顔で俺と来吏人を交互に見た。俺は来吏人の腕を掴むと引きずるようにして、奥に向かって走り出した。

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