18

 


 忙しなく時間は過ぎて行く。

 あっという間に一週間は流れ、明日はもう校内レクの当日だった。

 ここ数日の俺の記憶は、生徒会のことばかりだ。

「かっざまあ、この配布すんの、各クラスに置いてっていい?」

「あー頼む。入口に藪さんが机出してるからその上」

「オッケ。あとさあ実行委員の配置なんだけど…」

 次から次へと来る質問や支持の催促に追われる。

 明日のレクに備えて半日授業だった今日は──校内イベントにどれだけ力を入れているのか、この学校の能天気さが窺える──前準備にうってつけの日だった。

 よく晴れた午後、校舎の中を生徒会役員と各クラスの実行委員とが準備に追われ走り回っている。

 圧倒的に人手は足りていなかったが、とりあえず順調に作業は進んでいた。

「ふつー生徒主催のイベントにここまでやるかねー」

 レク未経験の松島が感心しきったような、半ば呆れた口調で呟くのを聞き、俺は同感だと頷いた。

「これもうマジで文化祭レベルじゃね?」

「文化祭はもっと派手だぞ」

「マジか! っ、そういやそうだったわ!」

 かろうじて秋の文化祭は去年経験済みの松島だ。あーそうだったそうだったと、壁に案内板を設置しながらひとり納得していた。

「何なのこの学校。頭沸いてるんだけど」

「今に始まったことじゃない…」

 昔からこうなのだと、父親に聞いたことがある。この高校の卒業生でもある俺の父親は、入学前、いろんな噂を面白おかしく俺に吹き込んだ。この私立高校の創設者が、その昔病弱でろくに学校に通うことが出来なかったため、それを悔いていて学校を作るに至ったとか、教育とは生徒を主体に為せるものという信念を、今も伝統という名に落とし込んで──それは教師がただ楽をしたいからでは?──学校の方針にしているとか、いないとか。何代か前の理事長がある不祥事に怒り体育祭を以後廃止したとき、当時の体育系生徒会役員が理事側に直談判してもぎとったイベントがあるとか(それがこれか?)──ほとんど冗談みたいな話だ。

 まあとにかく、自由な学校だ。俺の父親のホラ話は抜きにして。

「あ、松島、俺いったん生徒会室に戻るから。あと頼めるか?」

 わかった、と松島が頷いた。

「なんかあったらラインして?」

「んん」

 松島に手を上げて俺は階段に向かった。途中、階段を下りてきた二年生の実行委員の集団とすれ違う。会釈をされ、それを返した。

 階段を駆け上がる背中にちりちりと感じた視線は佐根井のものだ。けれど、挑発するようなそれに応える気はない。俺は振り返らなかった。



 夕方も遅くなったころ、ようやく明日の準備が終わろうとしていた。

「お疲れ、もう帰っていいぞ」

「おう、あともうちょいな」

「何時までいていいんだっけ」

「十七時、あとでまた声掛けるよ」

「お疲れー」

 明日使う第二棟の教室を回り、三年の実行委員たちに声を掛けて回った。二年のほうは平田が声を掛けに行っている。今回ゲストである一年の実行委員は当日の誘導と説明のみの役割なので、前準備の参加はなかった。人手が減るのは痛かったけれど、何のためのレクかと考えたら、そのほうがいいと思ったからだ。

「誰かいる?」

 がらんとした教室に声が響いた。返事はない。

 普段は授業以外であまり来ることのない特別教室の中を覗き、誰も残っていないことを確認して、戸締りをしていく。あとは生徒会室に戻って明日の打ち合わせをすれば今日が終わる。

「あー、つっかれた…」

 教室を見回りながら大きく伸びをした。

「はー…」

 三階の廊下の窓の外は夕暮れの色に染まっている。

 無性に会いたいな、と思った。

 この一週間、ほとんど先生とは会えていない。

 用がなければ保健室に行かないし、行こうにも休み時間も潰れるほどひどく忙しくて時間がなかった。

 帰り間際、暗い廊下の奥まで行っても明かりはなくて、扉の前まで行かなくても、もう帰っているのが分かった。

 声だけでも、と思っても、連絡先もよく考えてみれば知らないのだ。

「…ライン、交換、とか」

 交換して、って言ったら、困んのかな。

 話したい。

 声が聞きたい。

「……」

 あんまり困らせたくはないんだけど。

 困ったような顔しか思い浮かばなくて、我ながらどうかと思う。

 キスしたい。

 やっぱりあのとき、無理矢理にでもしとけばよかった?

 俺のこと好き?

 言葉を返して欲しくて、強請りそうだ。

「ああ、…もう」

 がしがしと俺は髪を掻いた。

 沈んでいく陽が赤い。

 きっと今日も会えないで終わる。



「じゃあお疲れさん」

 明日の話し合いを終えて、席を立った。他の三人も同じように立ち上がる。

 窓の外は暗い。

 陽はとっくに暮れていた。

「あーマジで明日? 俺もう死にそうなんだけど」

「とりあえず明日終われば休みだろ」

「そりゃそうだけどさー」

 明日は金曜日、終われば休日というご褒美が待っている。

「終わったら打ち上げやろーぜ」

「やるやる」

「じゃあまた明日な」

「ああ」

 松島と薮内が先に生徒会室を出て行った。俺は平田と戸締りを確認し、机の上の備品室の鍵を手に取って生徒会室を出た。帰りに職員室に戻しておかなければならない。

 並んで階段を下りていく。もう誰も残っていない校舎の中、階段の下から笑い合う薮内と松島の声が響いている。

「なあ、おまえ知ってたの? 櫂が予備校行ってたこと」

 平田がかすかな笑い声を立てた。

「知ってたよ。って言っても、たまたま見かけて分かっただけ」

「そっかあ…」

「おまえは? 沢村から聞いた?」

「聞いた。でも俺も似たようなもん」

「あいつらしいけど」

「まーね…」

中園なかぞのの影響だろ」

 足先が一階の廊下に着く。俺は平田を見た。

来吏人きりと?」

「最近いつも一緒にいるし、仲良いだろあのふたり」

 一週間前、帰り道で偶然会った櫂と話していて、ふとそのときに来吏人を思い出したことを思い返す。中園来吏人なかぞのきりと、去年は平田を入れた四人が同じクラスで、今年は櫂と平田が別のクラスになって離れた。

 細身でどこか甘い容姿の来吏人は、その見た目に反してとても優秀だ。成績はいつも上位、5番より下になったことはないはずだ。櫂が来吏人と一緒にて、影響を受けたのならあの言葉も納得がいく。

『一緒にいたいから、同じ段階とこまで行きたいんだよ』

 ──一緒にいたい

「そっか、やっぱり来吏人か」

 平田が笑った。

「去年のいつぐらいからだっけ、一緒にいるようになったの。あいつら全然タイプ違ってるのに、変な組み合わせだよな」

「あー、確かに」

 俺も笑った。でも、違和感はない。むしろしっくりくるのはなぜだろう。

「じゃあまた明日」

「じゃあな」

 昇降口近くで平田と別れ、俺は備品室の鍵を返しに職員室へ行った。

「失礼しまーす」

「おお、お疲れさん」

「ども」

 出入り口近くの机に座る先生が俺を見て労いの表情を浮かべる。俺は会釈して職員室の中を進み、奥の壁に備え付けのキーボックスを開けて備品室の鍵を元の位置に戻した。

「明日は上手くいきそうか?」

「まあ、多分? 何もなければっすね」

「楽しみだなあ」

「はは、先生も楽しいの?」

「そりゃおまえ、こういうのは楽しんでこそだろ」

「そっか、そりゃそうだね」

 それぞれの机で雑務をしていた何人かの先生たちが楽しそうに笑う。ここの先生たちは仲が良いのか、いつ来ても職員室は和やかな雰囲気だ。

「和田先生も楽しみにしてるしなあ」

「ええ?」

 そう言われて俺は職員室を見回した。

 が、和田の姿はどこにもない。

「本人いないじゃないですか」

「あー今日はもう帰ったねえ」

「はあ? 今日前準備じゃん、顧問なのに、ったく」

「まあそう怒んなさんな。先生もあれで忙しい身の上だよ?」

 いや、こないだ準備室で漫画読んでたけど?

 でもそれをこの場で言っても仕方がない。

「ま、そうっすね」

 当たり障りなく、ため息まじりに呟いた。

「もう俺帰ろ」

「おー、気をつけて帰れー」

「はーい」

 そう言ったとき、開いたままの扉から中に入ってくる人が視界に映った。白い着衣。

「──」

 顔を向けて、俺は息が止まりそうになった。

 出入口にいた先生が言った。

「ああ能田先生、遅くまでお疲れさまです」

「いえ──」

 にこりと先生が笑い、何気なく視線を上げた。

 その目が、俺の上で止まる。

 先生が息を呑んだ──ように見えた。

「バスケ部の生徒、大丈夫でしたか?」

 と、誰かが言った。


***


 職員通用口から見上げる空は、もう夜になっていた。

「ごめん、お待たせ」

 金属の擦れる音がして、格子の門扉が内側から開く。帰り支度を終えた先生が、通用口から出て来た。カシャン、と音を立てて閉まる。

「お疲れさま」

「待ち長かっただろ、中にいればよかったのに」

「んー…、大丈夫」

「風間くん?」

「行こう」

 薄手のコートの袖を俺は指先で掴んで引っ張った。

「…うん」

 先生は俺に袖を取られ、促されるままに歩き出した。

 傍から見たら手を繋いでるように見えたかもしれない。

 離れないように。

 手を引いて、俺はほんの少しだけ先を歩いた。

「今日、遅かったんだ?」

「あーうん、バスケ部の子がふたり、練習試合で正面からぶつかってひとりが脳震盪のうしんとう起こしたんだ。相手は捻挫ねんざで、手当てで今まで時間かかって」

「大丈夫だったの? そいつ」

「うん。さっきふたりの親御さんと連絡ついて、脳震盪の子はコーチが病院まで送って行ったよ。頭だから、ちゃんと検査してもらった方がいいからね」

「そうなんだ」

「風間くん」

「なに」

「なんか怒ってる?」

 俺は振り向いた。

 暗がりの中、先生は驚いた顔で俺を見上げていた。

 指先の中の袖を強く握りしめる。

「先生、…」

 言葉が出てこない。

 声が喉で詰まって押し出せない。

 俺のこと好き?

 俺に会いたかった?

 ねえ。

 なんでさっき、あんな顔したの。

 何か、あったんじゃないの?

「ね、先生、ライン交換しよ?」

 え、と先生が目を見開いた。

 言えない。

 言いたい言葉を全部飲みこんで、俺は微笑んだ。

「ここんとこずっと顔見れなくて、嫌だったんだよ。声、聞きたいから」

「……」

 先生の俺を見る目が揺れた。

「ね? 頼むよ先生。寂しいから、…おやすみとか言いたいよ」

 俺を見上げていた先生の顔が藍色の夜の中でも分かるほど、見る間に赤くなっていった。住宅街から漏れてくる淡い光。それを映し取った瞳が、一瞬濡れたように見えた。

「せん…」

「いいよ」

「え?」

「うん、…いいから。交換しよう?」

「いいの?」

 先生が小さく頷いた。

「僕も、風間くんの声…聞きたかったよ」

 そう言って俯いた目の縁から、ぽたりと涙が一粒零れ落ちたのに──そのとき俺は気がつかなかった。

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