13


 


 教室を出ると、昨日上がったはずの雨がまた降り出していた。

「あー雨かよ」

「オレ傘持ってねえわー」

「帰るころには止むだろ」

 廊下で窓の外を眺めている同級生の側を通って、階段を下りる。

 一階まで下りて、右に折れ、その先にある職員室を目指した。

「失礼しまーす」

 開いていた扉から中を覗くと、一番近くにいた先生が机から顔を上げた。

「おー風間」

「すんません、和田先生は?」

「あー、数学準備室かな。ここにはいないぞ」

「そうですか、どうも」

 軽く頭を下げると頑張れよ、と声を掛けられる。何を頑張るのか、よく分からないままに俺は頷いていた。

 何もかもが面倒だ。

 歩きながら零したため息は湿った空気の中に消えていく。

 全部放り出したい。

 出来ないのは分かってるけど、気分は最悪だ。

「和田センセー」

 職員室から階段を上がり、職員棟の二階の端のある数学準備室と書かれたドアを叩いた。中から返事のようなうめき声のような、何とも言えない声がして、俺はドアを開ける。

「センセー、ちょっと今いい?」

「おう」

 準備室とは名ばかりの資料倉庫のような部屋の中で、パイプ椅子に座った和田は俺を振り返った。手に持ってんのは、それ漫画か?

「レクのことなんだけど。つーかさ、サボってる暇なんかあんの?」

 業務をサボりたいときに和田はよくここに籠っている。

 和田はひらりと手を振った。

「人間余裕が肝心なんだよ」

「よく言うよ」

 俺は持っていた書類の束を和田の前の机に投げた。

「これ、読んでサインしといてよ。あとはこっちでどうにかするし」

「はいよ」

 クリップで留めたそれを持ち上げた和田の視線が、ちらりとこちらを向いた。

「…なに?」

 いや、と和田が言った。

「荒れてんなあ、と思ってさ」

「誰のせいだ」

 知らず声が尖っていく。

 平常心、とひとつ唱えて息を呑みこんだ。

 この人に怒って、一体何になる?

 和田は小さく鼻を鳴らして笑った。

「もっと気を楽にしろよ」

「は──」

 気を楽に?

 おまえにだけは言われたくない。

「どの口が言ってんだよ」

 俺は部屋の外に出ると、叩きつけるようにドアを閉めた。



 平田は入って来た俺の顔を見て、開きかけた口を閉じた。

 それに気づかないふりをして見回すと、生徒会室には平田しかいなかった。

「皆は?」

「…あとで来る」

 部屋の真ん中にある会議用のテーブルにはたくさんの資料が並んでいた。読みやすいようにと、綺麗に項目ごとに分けられているのに見る気も湧かず、何となく俺はテーブルから離れた窓際に寄せられている古い椅子に座った。

「昨日、どうした?」

 ぼんやりと雨の降る外に目を向けていると、平田が言った。

 振り返れば、平田はパソコンに目を落としたまま、手を休めずにキーボードを打っていた。

「電話、ごめん」

 結局、昨日の電話には出なかった。

「それは別にいいけどさ」

 カタカタカタ、と同じキーを連打する。

 多分、デリート。

 消去。

 俺の記憶も消して欲しい。

「なんかあっただろ」

「……」

「なに、振られたのか?」

「…分かんねえ」

 何かあったのかもとは考えた。

 夜に会うまでの間に。

 でも、そんなことはなくて、俺の考えるようなことは何もなくて、あれが先生の本心なら。

「なんであんな顔するかなあ」

 真っ赤になってカーテンの中に隠れていた朝。

 俺はその顔を見て、…

「おんなじかもって、思うじゃん…」

「は?」

 もしかしたらそうなんだと。

 もしかしなくても──先生も、俺を想ってくれているんだと。

「…都合良すぎだよな」

 十一歳の年の差、生徒と教師、なによりも自分たちは男同士だ。

 最初から望みなど持てない想いだ。

 俺だって、まさか年上の男を好きになるだなんて思ってもみなかった。ましてや先生がそうだなんて、どうして思ってしまったのか。

 でも、ほんの一瞬でも芽生えた希望は、なかなか消せない。

「面倒くさい恋愛してるな」

 ため息まじりに平田が言った。

「どうでもいいけどさ、そういうの言うのは俺の前だけにしとけよ。ダダ漏れてるぞ」

 はは、と笑った俺の声は掠れていた。平田が憐れむような目を向けてくる。

「わり、もうちょっとへこませて」

 俺は両手で顔を覆って、息を深く吐いた。

「へこむのはかまわねえけど、早めに膨らめ」

「…はは」

 キーボードを打つ音が聞こえ出して、そう言えば、と平田が言った。

「あの佐根井ってやつ、新入生と同時に来た転校生みたいだな」

「……」

「まあ、もう知ってるか」

 それくらいはとっくに調べていた。

 四月の進級と同時に転校してきたと聞いた。そうでなければ、今二年のあいつは去年の時点で俺の目に留まっていたはずだ。

 先生は俺が一年のとき、夏休み明けにここに赴任してきた。それから親しくなるのにそう時間はかからなかった。

 佐根井か…

 顔が浮かんで嫌な気持ちになる。

 俺の知らない先生を知っている。

 雨の降る窓の外は暗い。

「納得いかねえんなら、もう一遍話すってのもありなんじゃん?」

「…は?」

「もともと上手くいく当てなんかねえんだろ。何があったか知らんけどさ、一度駄目だっただけで諦めるんなら、それは違うんじゃねえって話」

「……違うって…?」

「勘違いだったんだろ」

「──」

 ──きみは勘違いしてるんだよ

「んなわけねえだろ」

「あっそ」

 思わず出た低い声に、平田はちらりと視線を投げて寄越した。

「本気なら足掻けば」

 本気なら。

 ドアが開いた瞬間、俺は立ち上がっていた。

 入って来た薮内が驚いた顔をする。

「おわ、え、どこ行くの」

「トイレ」

 そう言って俺は生徒会室を飛び出した。

 平田がため息をつく声が俺の足音に混じって聞こえた。


***


 ため息が漏れる。

 後悔するくらいなら言わなければよかった。

 いや、そもそもはじめから、親しくなどならなければ──

「…情けないな」

 窓の外は雨だ。

 雨が降るたびに保健室に来ていた子は、最近あまり来なくなった。

 時々校舎の中で見かける。

 上手く眠れているならそれでいい。

 いつも一緒にいる子がきっと彼の支えになっているんだろう。彼がここに来るたびに、心配して様子を見に来ていた。

 …そろそろ帰るか。

 ここの保健医の退勤時間は申告制だ。出勤時間は規定があるが退勤に関しては個人に任せるという、緩いものだった。私立校ならではというか、全体がざっくりとしていて、教師や生徒の雰囲気も皆大らかだ。

 いつもは部活生が怪我をして駆け込んでくることもあるので、放課後は出来るだけ残るようにしていたが、今日は雨だ。外での活動がなければ、それほど自分の出番はない。

 僕は残っていたカップの中身を飲み干して、手洗いで簡単にすすいだ。小さな洗い受けに伏せた愛用のマグカップから、ぽたりと雫が落ちた。

 鞄に荷物を入れ、戸棚に鍵を掛ける。鍵は帰りに職員室に預けておけば、必要なときに誰でも取り出すことが出来た。危険でないものはワゴンに常備してあるし、これで大丈夫だろう。

 もう帰ろう。

 帰りがたい名残惜しさ。

「なにやってんだか…」

 ため息がまた漏れる。

 白衣を脱ごうとしたとき、廊下から足音が聞こえた。

 誰か来る。

 振り向くと扉の小さなガラスの中に人影が見えた。

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