12
俺が指差したものに、先生は困ったように笑った。
「なにそれ、おかしいでしょ」
「え、似合うと思うけど」
先生の視線が、俺の手元と俺の顔を行ったり来たりする。
「…いやどう見たって似合わないから。前のと同じのに…」
「なんで、ちょっとかけてみてよ? ねえ」
「いやだ」
目移りしそうなほど並ぶたくさんの眼鏡の中から先生が選んだのは、壊れてしまったものとほとんど変わらない形のフレームだった。
はあ? と俺は声を上げた。
「それじゃ俺が選ぶ意味ないじゃん。選んでいいって言ったの先生でしょ、だめ、こっち」
「ああ、ちょっ…」
少し強引に先生の顔に掛けると、うわ、と先生が慌てた。
「なにするんだよ…っ」
真っ赤になって俯く顔に構わず、腕を取って鏡の前に連れて行く。先生の後ろに立って、俺は自分の胸の高さにある肩に手のひらを置いた。顔を上げた先生と、鏡の中で目を合わせる。
「ほら──似合うって」
「…っ」
笑いかけると、先生の目が分かりやすく泳いだ。俺は肩から手を離した。
「うわ、にあ、似合わな…」
「どうですかこれ」
俺は振り返り、ずっと傍に控えていた男性店員に訊いた。彼はにっこりと微笑んだ。
「はい、とてもよくお似合いです」
「だって。ほらあ」
これにしよ、と顔を覗き込むと、むっとした顔で仰ぎ見られる。
「あのねえ、三吉さんは店員さんだから!」
その目は、彼は良く言うに決まってると言いたそうだ。
それを感じ取ったのか、能田様、と三吉と呼ばれた男性店員は先生にそっと近づいた。
「私は、似合わないものを似合うなんて言いません」
「み、三吉さん」
「ほらー、せんせー観念しろよ」
「だって」
逃げ場を失くした先生が弱り切った顔をした。
困っているのは分かっているけど、それに気づかないふりをする。気がついていると知られてしまったら駄目だ。
何でもないようににっこりと笑う。
「これで決まりな」
俺は先生の顔から眼鏡を外して三吉さんに渡した。
「すいません、これ下さい」
「はい。かしこまりました」
受け取った三吉さんがにこりと俺に笑った。
壊れてしまった眼鏡を弁償したいと言ったら頑なに拒まれたのは、朝の続きだ。
押し問答の末、始業のベチャイムが鳴り始めるまで粘って、それならばと先生の口から妥協案を出させたのは我ながらずるいと思った。
『じゃあ…、眼鏡は僕のだから僕が買う、そのかわり、風間くんに選んでもらうって、それでいい?』
『うん、それでいいよ』
先生がため息をついた。
『なんか納得いかないんだけど…』
そして、あのまま今日を終わりにしたくなくて、強引に放課後の待ち合わせを取り付けた。
まさかこんなに遅くなるとは思わなかったけど。
「能田様、レンズはご予約の通りいつもの仕様でお間違いないでしょうか?」
「はい」
カウンター越しに三吉さんが差し出した用紙を見て、先生が頷いた。いつもの仕様、という三吉さんの言葉に俺は首を傾げた。
「仕様って?」
ここは先生の行きつけだとは最初に聞いていたけど、ただフレームを買うだけだと思っていたのだ。
先生が俺を見て言った。
「ああ、僕、虹彩が薄いから、レンズは紫外線カットのものなんだよ」
「へ?」
「視力に問題はないんだけど、普通の光でも場合によっては眩しくて、眼鏡はサングラス代わりなんだ」
「えっ、嘘!」
初めてかけたとき度は入っていなかった。だからてっきり先生のそれは伊達眼鏡だとばかり思っていた。
自分の顔を隠すための。
そういえば、先生の目って…
「綺麗なダークブルーですよね。灰色とも言えますけど。北欧圏の人に多い色味なんですよ」
目の前で調整作業をしながら三吉さんが俺に言った。
そう、先生の瞳はうっすらと青みがかった灰色だった。
前に眠っている先生を起こしたときに気がついた。
「両親ともに家系は純粋な日本人なんですけどね。なぜか僕だけこうなんです」
「遠い昔のどこかで、能田様と同じ目をした人がいたんでしょうね」
ふふ、と先生が笑う。
調整が終わると、三吉さんが引渡書と書かれた紙を先生に差し出した。
「それではお引き渡しは30分後となります」
そうですか、と先生は言った。
「それじゃまたあとで伺います」
「お待ちしております」
「え」
カウンターの向こうで頭を下げた三吉さんに会釈をして先生は立ち上がる。椅子に座ったままの俺を見下ろして、行こう、と目で示された。
行く?
帰るってこと?
「や、30分ぐらいなら待てるじゃん」
むしろあと30分一緒にいられるなら是非とも待っていたい。
俺の困惑を見て、くすっと先生は笑った。
「お腹空いただろ? お
ふわりとした幸福感に包まれている。
多幸感。
今日あった嫌なことが何もかもなくなってしまいそうな気持ちだ。
「美味しかったね」
「うん」
地上に上がるエスカレーターの上、前後に並んで立っている。前にいる先生が俺を振り向くと、その目線は珍しく同じ高さにあった。その目は柔らかく微笑んでいる。
先生が連れて行ってくれたのは、駅ビルの地下街にある飲食店のひとつだった。ここの牛タン美味しいんだよ、と肉が食べたいと言った俺に合わせて選んだ店だ。何を食べるかをふたりで選んで注文をして、料理が来る前に先生は席を立って出来上がった眼鏡を取りに行った。戻ってきたとき、手には小さな紙袋があった。
一緒に食事をして、幸せだと思う。
目の前には笑っている先生がいて、他愛のない話を俺としている。
学校での生活、今日あった職員室での面白話、他の生徒と交わした会話、天気のこと、中庭の花壇にまた花が咲いたこと。その花の名前。
「明日からちゃんとそれしてきてよ?」
紙袋を
「えー…」
「えーってなんだよ」
どうしようかな、と先生が言う。
灰色の瞳に夜の光が映り込んでいる。制服の上着を脱いでネクタイを緩めた俺もその中にいる。
嬉しいと思うのに。
楽しいと思うのに。
消えない違和感は、これは何だろう?
「まあ、頑張ってしていこうかな」
エスカレーターが地上に着き、先生が歩き出す。俺も後をついて歩いた。
その背中を呼び止める。
「先生」
先生が振り返った。
「どうしたの?」
立ち止まった俺を見て、不思議そうな顔をした。
「あのさ──先生」
「ん?」
俺はまっすぐに先生を見た。
「あれを…なかったことにしようとしてんの?」
「え?」
「俺が昨日先生にしたことだよ」
「──」
違和感の正体はこれだ。
ずっと、頭の隅で感じていた。
どうして先生は──
「前は一緒に何か飲むのだけでも嫌だって言ってたのに、一緒に飯って、どう考えても変なんだよ」
少し手を伸ばせば届く距離から先生は俺を見上げている。
さっきとは違う。
それはもう同じ目線じゃない。
「これで、なかったことにして欲しいの?」
放課後のわずかな時間。
待ち合わせて、買い物をして、食事して、それで帰る。
それを何て呼べばいいんだ。
デート?
思い出?
冗談だろ。
「俺が嫌い?」
「嫌いじゃないよ」
「じゃあなに?」
「……」
何かを言いかけて先生は口を噤んだ。
「そこで黙るのずるくない?」
じっと俺を見ていた先生がふっと目を伏せた。
「きみは勘違いしてるんだよ」
「は?」
「男子校では、こういうのよくあることなんだ。ほら、まわりは皆…」
「まわりなんか知らねえよ」
側を通りかかる人たちが俺の声に目を向けてくるのが分かった。でも皆、すぐに素知らぬふりをして通り過ぎて行く。
「でもそうなんだよ」
「…はあ? ふざけんなよ」
腕に抱えている荷物が重い。持っていた脱いだ制服の上着を俺は握りしめていた。
朝は、あんなに真っ赤になって俺のことを見ていたのに。
今ではもうその面影はない。
咄嗟のことに隠れるくらい恥ずかしがってたのに。
もしかしたらと思っていたのに。
何かあった?
「なんで…」
なんでこうなるんだ。
声が震えそうになるのを必死で抑えた。
「じゃあ先生は、俺がキスしたのも、そういうよくあることにすんの?」
「するよ」
「っ、なんで」
「僕はきみよりもずっと大人だから」
と先生は言った。
大人?
大人だから?
そんなの全然理由になってねえよ。
じわりと腹の底から悔しさみたいなものが湧き上がってくる。
「好きだからって思わないの?」
握りしめたジャケットが熱い。
「好きだからキスするんじゃん」
返事はない。
ただ俺を見ている。
どうしよう。
荷物なんか捨てて抱き締めたいのに、それが出来ない。手を伸ばせば届くだろうに、そこには見えない透明の壁がある。
「先生が好きだよ」
口からぽろりと言葉が零れた。
「好きなだけだよ」
何かを言いかけて先生はまたやめた。薄く開いた唇が、ほんの一瞬だけ確かに震えた。
「ごめんね」
「──」
なんで──
なんでそんな顔するの。
「…おやすみ、風間くん」
泣きそうな顔で笑って俺の名前を呼ぶ。
なんで、そんな顔するくらいなら、…
先生は俺に背を向けて歩き出した。
追いかけて振り向かせたい。
今どんな顔してるの。
その肩を掴んで振り向かせて確かめたい。
「……」
歩いて行く後ろ姿、離れていく背中を、けれどどうしてか俺は追いかけることが出来なかった。
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