8



 甘い飴をくれた。

「そこ座って。少し休憩するといいよ」

 保健室の窓は開いていて、風がカーテンを揺らしている。

 部屋に置かれた電気ポットは先生の私物だとか。

 口の中で甘い飴を転がしている。

 いつもは噛む派なんだけど、なんだかもったいない。

 そんな気がして──

「ほら、なにがいい? コーヒーか紅茶?」

「あー……紅茶?」

「はい」

 意外そうに肩越しに振り返って笑い、先生は俺に背を向けてティーバッグを取り出した。小さな戸棚からマグカップをふたつ取り出してお湯を注ぐ。

「紙コップじゃないんだ?」

「ああ、味気ないだろ」

 確かに。

 俯くと前髪で目元が隠れる。眼鏡が湯気で曇るのが、後ろからでも分かった。

「甘くする?」

「うー、うん」

「どっち」

 呆れたように笑う声。

「する」

「はい」

 いい匂い。

 なにこれ、紅茶ってこんないい匂いしたっけ。

 暖かい風に甘い匂いが混じっている。

 花の匂い。

「チューリップの匂いだね。昨日ぐらいから咲き始めたんだよ」

 窓の外を見ていると先生が言った。

「はい、紅茶」

 少し屈んだ先生がスチールの机にふたつマグカップを置いた。

 俺は先生の顔を見上げた。

「眼鏡、曇ってるよ」

「ん、大丈…」

 手を伸ばしてその眼鏡を取る。

「こら」

 綺麗な顔。眼鏡をかけているのとは違う顔。

 いつもよりも幼い。いや、もともと先生は童顔だけど。

 この顔を俺は何度か見たことがある。

「こっちのほうがいいよ」

「悪戯しない」

 そう言いながらも取り返そうとはせずに、先生は俺の前にある自分の椅子に座った。

 俺は先生の眼鏡をかけた。やっぱり度は入っていない。

「前にも訊いたけどさあ、なんで眼鏡かけてるの?」

 前は内緒だと言われた。

 遠くから放課後の部活動をする生徒の声が聞こえてくる。

 少しの沈黙。

 先生はマグカップに口をつける。こくりと飲んで言った。

「そっちのほうが都合がいいから」

「都合?」

「まあ…色々とね」

 ふうん。

「それってさ、あいつと関係あんの?」

 マグカップを持つ先生の手が一瞬止まった。すぐに何でもないように先生は紅茶を飲んだ。

「…ないよ」

「さっきあいつに会ったよ」

 俺も紅茶を飲んだ。

「やっぱり2年だったね」

 口の中で飴が溶けていく。

「和田センセーの尻拭いでさ、杉本先生を探してたんだ」

「…尻拭いって?」

「レクのときの教室使用許可の不手際」

 ふっと先生は笑った。

「和田先生らしいなあ」

「教室に探しに行ったら、そこにいたよ」

「…そう」

「先生」

 眼鏡をかけたまま、俺は顔を上げた。

「こっち向いてよ」

 ずっと横顔だ。

 ずっと目の前の壁を見て話してる。俺は先生を見てるのに。

 もやもやする。

 ずっと、俺はもやもやしてる。

 今日は、すごくなんだか──気分が悪い。

「ねえ、さっきからさあ、なんでそっぽ向いてんの?」

「そう?」

「俺のほう見てよ」

「じゃあ、眼鏡返して」

「──」

 横を向いたまま差し出される手。

 イラッとした。

 何か、自分では抑えられない──どうしようもない気持ちが膨れ上がって、内側から胸を押し上げてくる。

 なんで俺こんなに苛ついてるんだ。

 全然、余裕がない。

 気がつけば、奥歯で飴を噛み砕いていた。

「あいつが好きなの?」

 先生が驚いた顔で俺を見た。

 俺も自分の言ったことに驚いたけど、ああそうかとどこかで腑に落ちていた。

「何言ってんの…」

「あいつはさ、先生のこと好きだよ」

「まさか、違うよ。こないだも言ったけど──」

「違わないでしょ」

 今度視線を逸らしたのは俺のほうだった。

 見てりゃ分かる。

 あいつは先生が好きだ。

 俺も…

「そうじゃないよ、あのね、風間くん、彼は」

 先生は少し慌てたように俺の顔を覗き込んだ。

「…から」

「え?」

 聞こえないと、先生が聞き返す。

 俺は顔を上げた。

「俺も先生が好きだから、よく分かるんだよ」

 先生は息を止めた。

 目が合う。

 近い距離。

 白衣の襟を掴んで、俺は先生を自分のほうに引き寄せた。

 逃げられないように強く。胸を押し返す手のひらが肩を掴む。

 風で揺れる窓のカーテン。

 甘い匂い。

 口の中に残る飴の欠片。

 余裕がなくて──忙しないキスをした。


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