第五章 枯尾花の入舞に、別れを告げる《三》
宴は夕暮れの時分まで続いた。
名残惜しさを滲ませながら、長七とお鴇は、日暮れ前に皓月堂を後にした。
二人が帰った後も、善次郎たちは残った酒と肴を抓んでいた。
「楽しい時は、あっという間に過ぎるねぇ。もうちょぃと、お鴇ちゃんと話したかったなぁ。善次郎様も、そう思いましょう?」
酒が入って気分の良くなった環が、杯を傾ける。環の手から、円空が杯を奪った。
「それくらいにしておけ、環。また雷に撃たれても、もう背負ってやらんぞ」
むっとしながらも、環は大人しく居直った。
「明後日。日暮れ後に、亀戸天神、ですね」
皓月が、改めて善次郎に確かめる。善次郎は、頷いた。
「縫殿助殿の呼び掛けに、獅子が応じるか、わからぬ。源壽院の怨霊が、聞いた通り動くかも、わからぬが」
「恐らく、動きましょう」
環から取り上げた杯を揺らしながら、円空が呟いた。
「善次郎様の話から察するに、森村縫殿助と名乗る神官の死霊。只の死霊とも、思えませぬ」
「円空も、そう思うか」
頷いて、円空が続ける。
「獅子の御霊と繋がり、糸を引いているとも、考えられます。口穢く言えば、怨霊と変わりない。ですが、善次郎様がそう、お感じにならなかったのであれば、違う何か、なのでしょう」
眉間に皺を寄せ、環が苦い顔をする。
「あたしぁ、その神官は、好かねぇが。よくよく考えりゃぁ、大給松平宗家の源壽院が、徳川宗家に所縁のある神社を狙うってぇのも、違和があるよな」
皓月が、神妙な面持ちで呻る。
「武州の加護が弱るってぇんなら、余計に違和がある。源壽院の恨みの矛先は、御庭番である善次郎様や宇八郎。それに出雲守様や公方様だが。御公儀を潰そうなんて、大仰なつもりがあるとも思えねぇ。縫殿助ってぇ神官に益があるとも思えやせんが」
皆の話を黙ってきていた善次郎は、顎に手を当て、ぽそりと零した。
「縫殿助殿は、源壽院の恨みの深さに怯えているように見えた。皆の言には頷ける。だが儂には、縫殿助殿が怨霊には思えなんだ。只の恨みとは、違う。深い何かを孕んでいるような。もっと暗く、底の見えない……」
善次郎の言葉が途切れる。縫殿助に会い、感じたものを表す言葉が見つからなかった。
黙り込んだ善次郎に代わり、皓月が口を開く。
「いずれにしても、いつでも動けるよう支度を整えておきやしょう。源壽院の怨霊を叩きゃぁ、わかる事実も、ありやしょうから」
皆が頷いた、その時。店先の戸が開く音が聞こえた。
「善次郎様! 皓月さん! 誰か、いやすか! 誰か!」
大声で叫ぶのは、つい一刻ほど前に帰ったばかりの長七だ。善次郎は、部屋を飛び出す。
上がり框に身を乗り出して中を伺う長七は、蒼顔だ。善次郎は慌てて駆け寄った。
「お鴇が! お鴇が、消えちまった!」
「長七、落ち着け。何があったか、ゆっくり話せ」
善次郎の袖を掴んで慌てる長七を諫める。
長七が、何枚かの紙を握っているのに気が付いた。
「見せてもらうぞ」
昏乱する長七の手から、一枚を抜き取る。
紙には『狛犬を助けて』と、書かれている。
四日前、忠光が善次郎に見せた文字と同じ筆跡だ。善次郎は目を疑った。
「この紙は、どこにあった? 他の紙も見せてくれ」
長七が善次郎に紙を手渡す。一枚ずつ、丹念に確かめる。四枚は同じ文言だった。
(出雲守様に見せていただいた時は、気付かなんだが。この文字から漂う気は、福徳稲荷の狛犬の涙と、同じだ)
縫殿助も乗邑が連れていた獅子の核も、気這いが似ていた。この文字の気も二つの気這いと、とても近い。
(だが、文字から滲む感情は、違う。とても悲しげな。まるで、泣いているようだ)
最後の一枚にだけ、『獅子が泣いている』と、書かれていた。
文字に見入る善次郎の後ろから、皓月が覗き込む。振り返り、皓月と目を合わせる。二人は同時に、頷いた。
「ほら、長七さん、水だ。飲んで、息を整えな」
皓月の手渡した水を飲み干した長七が、深く息を吸い込む。
「それは、きっと……お鴇が、書いたんだと、思いやす。書いているのを見ちゃぁ、いねぇが。前ぇにも、こんなのを書いて、いなくなった日がありやした。あん時も、しばらく帰ってこなかったんだ。だから、嫌な勘がして」
善次郎の袖を握る長七の手が、震える。
「そん時ぁ、どこに行っていたんだぃ?」
環の問いに、長七は首を振った。
「わからねぇ。お鴇も覚えちゃぁ、いなくって。どこに行っていたのかも、何をしていたのかも、わからねぇんだ。あん時ぁ、自分から帰ってきたが、今日は何か、違う気がしやがる」
長七の尋常でない慌て振りに、善次郎にも焦慮が走る。
「何かが、乗移ったのやも、しれませぬな」
円空の言葉に、はっとする。
「鈴は! 鈴は、鳴っていたか? お鴇に持たせた、鈴は!」
長七が、考え込んだ。
「鈴……。鳴っていたと、思いやす。鳴らなきゃ、気が付くはずだ……」
懸命に思い返す長七をじっと見詰めて、唇を噛む。
(鈴が鳴っておるのに、兄上の加護が弱まったのか。何かが、起きておる。二人を帰したのは早計だった)
後悔の念に駆られる。
この文字を書いたのがお鴇なら、関わりがないと遠ざける訳にはいかない。
長七の腕を掴み、善次郎は立ち上がった。
「探すぞ。何としても、見つけ出す」
長七が抱える嫌な勘は、善次郎の中にも沸々と湧いていた。
(文字の主がお鴇だと、わかっておれば……!)
善次郎の怒る肩を、皓月が掴んだ。
「皆で、手分け致しやしょう。きっとすぐに見つかりやすよ」
「あたしぁ、浅草のほうを見てくらぁ。非人の奴らにも声を掛けてくる。こっちは任せな!」
皓月と環の言葉に安堵の表情を見せたのは、長七だった。
不意に円空が、店の外に目をやった。無言で、戸口を出て行く。不思議に思いながら、善次郎と皆が後に続く。
円空は、店の壁の前に立っていた。円空に並び立ち、善次郎は鏝絵の龍に目を向ける。龍の、ぎょろりとした目が動いていた。
「心太さんが、お鴇さんの気這いを追ってくれるそうです」
円空が龍を指さす。そのまま、すぅと、静かに指を引く。円空の指に引っ張られるように、龍が壁から顔を浮かび上がらせた。
顔を出した龍の全身が、にゅるりと壁から抜け出る。はらはらと、紅葉を体から落とした龍が、善次郎たちの目の前に現れた。
「わわわわ! 俺の龍が、壁から飛び出た!」
ぎょっと目を剥いて、長七が仰け反る。
座敷ぼっこが宿った龍が、善次郎に一つ、頬擦りした。
「心太、お鴇を探してくれるか。有難い。頼むぞ」
龍の顔に手を当て、額を合わせる。龍の目が細まる。心太が笑ったように見えた。
心太の乗移った小振りな龍が、ふわりと空に浮く。きょろきょろと辺りを見回すと、すぃと、飛んでいった。
「龍を追う! 長七、共に来い! 円空は、皓月と環を連れて、付いて来てくれ!」
円空が、頷く。
惑乱する長七の腕を引き、善治郎は走り出した。
「善次郎様! 馬は、いつもの場所におりやす!」
叫ぶ皓月に、善次郎は振り向いて、頷いた。
「さぁてっと。戦支度で、出張るかねぇ!」
気合いの籠った皓月の声を後ろに聞いて、走る。
善次郎は長七と共に、大伝馬町一丁目に向かった。
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