第四章 怨霊の、正体見たり《六》

 皓月堂までの帰路を、善次郎はゆっくり歩いた。

 先ほどの忠光の様子が、気になっていた。

(平素は相好を崩さず、心の内をあまり見せない出雲守様の。あのような声は、初めて聞いた)

 短い一言に込められた憤りは、乗邑の怨霊が持つ恨みとは全く違う。だが、とても近い想いに感じた。

 三日前、御下命を拝した時。忠光の迂遠な言廻しは、善次郎の尻を叩く意味合いだと思っていた。

(そのような簡明な話ではない。儂の知らぬ、知らねばならぬ事実が、ある。いずれにせよ、二刻後に鍵屋に行けば、恐らく、わかる)

 内実がどうであれ、覚悟はできていた。

 細い裏路地に入り、奥へ進む。いつもは閑散とした通りに、賑やかな話声が響いていた。

「やっぱり、こいつでなけりゃぁ、こうはいかねぇ。皓月さんの砥ぎは一品だねぇ!」

 陽気な長七の声に、善次郎の歩が速まる。

 皓月堂の店先で、長七と皓月が立話をしていた。

「あ! 善次郎様、おけぇりなせぇまし。見てくだせぇ、この鏝を!」

 善次郎の姿を見付けた長七が、嬉しそうに駆け寄る。手にした鏝を、眼前に、ばんと見せつけた。

「皓月さんが砥いでくれたんでさぁ。早速、使わしてもらったんですがね。いやぁ、やっぱり使い勝手がいいねぇ。悪い気もすっかり落ちて、神々しいくれぇだ!」

 童のようにはしゃぐ長七に、皓月が、ははっと笑う。

「そいつぁ、褒めすぎだぁね。だが、瘴気は落としたし、もう半妖でもねぇ。只の道具だ。付喪神には、なれねぇだろうが。長七さんが使い込みゃぁ、この先は今より、きっと良い鏝になるぜ」

 口の端を、にっと上げる。皓月としても、満足のいく仕事ができたのだろう。善次郎も、ほっと胸を撫で下ろした。

「鏝の持ち手と、新しい桐箱に彫り細工を施しました。魔除けとなりましょう」

 わざと気這いを断って近づいた円空が後ろから、善次郎に語り掛ける。振り向くと、円空の表情も、いくばくか緩んで見えた。

 善次郎は、表情を和らげた。

「二人とも、ご苦労だったな。大仕事で疲れたろう。ゆっくり休んでくれ」

 皓月と円空が、顔を見合わせ、笑顔で頷く。善次郎の眼界の端に、壁に描かれた鏝絵が飛び込んだ。思わず眼を向け、じっと見つめる。

 戸を中心に、右上には、小さな丸い月。左下には群雲から龍が顔を出す。体の所々に纏う紅葉が、地から天の月を目がけて昇ろうとする龍の踊躍を引き立てる。

 あまりの見事さに、すぐには言葉が、出なかった。

 口を半開きにして強直する善次郎に、長七が陽気な声を掛ける。

「どうです、善次郎様! 半分以上は、皓月さんが砥いでくれた道具を使いやした。お陰で思ったより早く、ここまで仕上がりやしたぜ! あとは色を載せりゃぁ、出来上がりでぃ!」

 長七が、へへっと鼻を擦る。善次郎は壁から目を離さずに、頷いた。

「見事だ。話で聞くより、本物は、遙かに見事だ」

 心に溢れる発憤や感懐を言葉にするのが、これほど難しいとは、知らなかった。それほどに、善次郎は長七の鏝絵に見入っていた。

 善次郎の姿に、長七が陽気さを収めた。静かに隣に並び立つ。

「そこまで気に入って貰えりゃぁ、俺も、冥利に尽きやす。また思うような鏝絵を作れるなぁ、ここの皆さんのお陰でさ。本当に、ありがとうごぜぇやす」

 善次郎に向かい、長七が深々と頭を下げた。

「礼は、皓月と円空に言ってくれ。皓月堂に、これほど見事な鏝絵を拵えてもらった。儂こそ、礼を言わねばならぬ」

 長七が慌てて、手を振った。

「いやいやいや、よしてくだせぇ。俺もお鴇も、善次郎様やここの皆さんに随分と世話になったんだ。この程度じゃぁ、足りねぇくれぇです。それにねぇ」

 一度、言葉を切り、長七が善次郎に目を合わせた。

「善次郎様に、どんな心持で鏝絵を拵えているかって、聞かれやしたでしょう? あれから俺なりに考えやしてね」

「何か、気が付いたのか?」

 善次郎は身を乗り出した。長七が、困り顔で頭を掻いた。

「理屈は、やっぱり、わからねぇんですが。でも、俺の心ん中が、変わりやした。巧く言えねぇが、頭ん中にあるもんを、前よりもっと、そのまんま作れる。もしかしたら、頭にある絵よりずっと良いもんが、作れるかもしれねぇって、思うんですよ」

 長七の中から溢れてくる気は、善次郎にも感じ取れる。

「新たな何かを掴んだ、のか?」

 長七が、首を振った。

「新しいもんを見つけたってぇより、心ん中のもんが、はっきり見えたってぇのか。もっともっと、色んな鏝絵を作りてぇ。そういう気持ちが、前より、でっかくなりやした」

 発揚する気を隠しきれない長七に釣られて、善次郎の心も昂った。

「お二人は相性が良いんですねぇ。似たもん同士だ」

 後ろで見ていた皓月が、からっと笑った。

「俺と善次郎様が、かぃ? そいつぁ、善次郎様に失礼だ。俺ぁ、善次郎様みてぇに落ち着いてもいねぇし、頭も悪りぃしねぇ」

「儂は嬉しいが。むしろ儂も、長七とは馬が合うと思うておる」

 他意なく、さらりと流れた声に、長七が頬を赤らめた。

「似たもん同士ってぇのは、見た目じゃぁ、なくってよ。心根が、似ているのさ」

 皓月の言葉に、長七が、ぽかんと口を開けた。

「そう、ですかぃ。そいつぁ、なんだか、嬉しいねぇ」

 頭を掻きながら、照れた顔で笑う。その笑みは、しみじみとして、二人の言葉を噛みしめているようだった。

「おっし! お二人の願望にゃぁ、しっかとお応えしやすよ。俺ぁ、これから絵に色を入れますんで!」

 照れて赤くなった顔を隠すように、長七が絵の具の箱に手を伸ばす。

 善次郎は皓月に目配せした。皓月が頷き、店の中に入る。

「あまり気負い過ぎるなよ。前にも言ったが、急いではおらぬ。長七が納得のいくものを、作ってくれ」

 長七が顔を上げ、満面の笑みを見せた。

「勿論でさぁ! 任せておくんなせぇ!」

 力強い声を聞きながら、先に店の中に入った皓月に、後ろから声を掛ける。

「仕事上がりで悪いが、三社権現での出来事は、聞いておるか」

「円空から、聞きやした。今日、善次郎様が吹上御庭にお上がりになったのも、聞き及んでおりやす」

 廊下を歩き、奥の間へと向かう。二人で部屋に入ると、ぴしゃりと襖を閉めた。

 腰を下ろし、善次郎が皓月に向き合う。

「本日、出雲守様に怨霊討伐を願い出た。御下命は今日にも下るはずだ。暮七つに、もう一度、出雲守様に謁見する」

 皓月の眼が殺気立った。

「お鴇が、鈴の音に元気がない、と言うておった。恐らくは、兄上の力が衰弱しておる。乗邑の怨霊が、いつ動き出しても、不思議はない」

 口を引き結び、皓月は黙って善次郎の言葉を聞いている。

「奴がどこに狙いを定めるか、見当がつかぬ。故に、儂が囮となり、乗邑の怨霊を誘き出す。命に代えても、怨霊を討つ」

 皓月の眼の先が下がる。善次郎は構わず続けた。

「まだ真相の掴めぬ件も残っておる。目安箱に紛れていた紙きれ。あれは、妖の類が書いた文字だ。同時にそれも探し出す。だが、まずは怨霊討伐だ。いつでも動き出せるよう、支度を整えてくれ」

 小さく頭を下げ、皓月が短く返事した。

「鏝絵が仕上がったら、長七とお鴇には戻ってもらう。ここにいては、危ない。これ以上、巻き込む意味は、なかろう」

 善次郎の眼の先も、自然と下がる。

「宇八郎の鈴は、どう致します」

 善次郎が眼を上げる。その声と顔は皓月ではなく、木村卯之助だった。

「お鴇に託そうと思う。鈴を持っても、お鴇に害が及ぶには至るまい。守りになれば、重畳だ」

 しばしの沈黙が部屋に満ちた。善次郎は、皓月の言葉を待っていた。しかし、苦悶の表情を浮かべるばかりで、皓月は何も言わない。

 やむを得ず、善次郎は口を開いた。

「出雲守様との謁見を終え戻ったら、話を聞く。それまでに、頭の整理をしておけ」

 皓月がゆっくりと、顔を上げる。

「兄上の死霊を見た時から、その顔は変わらぬ。皓月、お主は儂に、伝えたい何かが、あるのだろう」

 皓月の顔が強張った。大きな体が、やけに小さく見える。

「兄上を失って以来、儂はお主を頼りにしてきた。時に、兄のように感じていた。それは今も変わらぬ。だからこそ儂の前で、斯様な顔を、せんでくれ。潺に、皓月に力添えを頼んだあの日より、儂は勇ましくなったと、思わぬか?」

 小さく息を吐いたら、肩の力が抜けた。笑ったつもりが、困ったような顔になっているのに、自分でも気が付いた。

 皓月の表情が見る間に変わり、緩んだ。

「善次郎様は大いに成長されました。俺の読みを遥かに超えて、勇ましく、強くなられた。成長しないのは、むしろ俺で、ございますね」

 居直った皓月が、一度、目を閉じた。すっと背筋を伸ばし、開いた眼が善次郎を見据える。

「皓月ではなく、木村卯之助として、総てお話致します。その上で、善次郎様の御力となる証を立てましょう。善次郎様も、どうか覚悟を決めて、お戻りください」

 びりっと痺れを感じるほどの気概に、皓月の、いや、木村卯之助の覚悟を見た。

「相分かった。肝に銘じて、戻ろう」

 善次郎の背筋が自然と伸びる。

 皓月の覚悟が、善次郎にとり吉凶のどちらに転じるかは、わからない。だが、潺として共に過ごした六年を凌ぐ顛末になると、じんわりと感じていた。

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