第三章 潺、皓月堂に集う《五》
円空が部屋を出た後も、長七は手の中の仏像を食い入るように見ていた。顔から体から背面まで、時に一点で眼を止め、委細まで観察している。先ほどまでの長七とは、まるで別人の、職人の眼だ。
そんな長七を、善次郎は黙って眺める。
一通り全体を見終えた長七が、仏像の顔をじっと見詰めて、息を吐く。ふっと、柔らかな笑みを浮かべた。
「こんなに優しいお顔をした仏様には、初めてお目に掛かりやした。円空さんは変わり者だが、
じっくりと感慨のこもった声は、眼差しと同じように優しい。笑んだ目は、お鴇に、とてもよく似ていた。
(やはり兄妹だな)
宇八郎が命懸けで守った兄妹と、皓月堂で出会った事実。ただの偶然か、はたまた宇八郎の導きか。どちらにしても、運命を感じずにはいられない。
(この二人の命を、今度は儂が守らねば)
善次郎の心の奥に、漠然と萌芽した感情だった。
「話は、わかった。任せておきな! えーっと、お鴇ちゃん、どこだぃ!」
店先で、環のよく通る声が響く。
「はーい。あれ、どちら様ですか? 皓月さんのご友人?」
「仕事はもういいから、あんたは、あたしと、こっちにおいでな」
昏惑するお鴇と、何の躊躇いもない環の足音が、居間に近づく。
すぱん、と襖が開き、お鴇の手を引いた環が、堂々と立っていた。
「お待たせ致しやした、善次郎様。早速、始めやしょうか」
部屋の前で二王立ちする環に、長七が呆気にとられている。環の後ろで、お鴇は訳も分からず惑乱している。
「環、気短すぎる。まだ二人には、何も話しておらぬ。一先ず座って落ち着け」
善次郎が促すと、環はふぅんと鼻を鳴らした。
「なぁんだ、そうですかぃ。それじゃぁ仰せのままに、っと」
豪快に胡坐をかいて、環がお鴇に手招きした。
「お鴇ちゃんは、あたしの隣に座りなぁよ。ほら、こっち」
すぃ、とお鴇の手を取る。お鴇は促されるまま、するりと環の隣に腰を下ろした。何と声を掛けていいのか、わからない様子で、お鴇はそわそわと善次郎と長七に目を向ける。
「そういやぁ、まだ名乗っていなかったね。あたしぁ、松坂は
ぱぁん、と背中を叩かれて、お鴇が小さく悲鳴を上げた。長七が落ち着かない顔で、腰を上げたり下げたりしている。
「二人とも、すまぬ。環も、皓月や円空と同様、儂の友人だ。こういう質だが、気持ちの良い
「いや、まぁ、なんだ。善次郎様の仰ることはわかりやすが、ちぃとばかし、豪気でごぜぇやすね」
背を叩かれて驚くお鴇を案じながら、長七が苦笑いする。
「環、力の加減を考えろ。お主は只でさえ強力の持ち主だ。いつもの力で叩いては、お鴇の骨が砕ける」
善次郎の忠言に、環がむっすりとした眼を向けた。
「充分過ぎるほど加減していますよ。そりゃぁ確かに、あたしぁ普通の女子より、少しばかり力が強いけれどねぇ。骨まで砕けやしませんよ。善次郎様も失礼ですねぇ」
「少しどころでは、ないだろう。頼りにしておる力だが、不断は考えて使ってくれ」
「へいへい、承知致しやした。善次郎様は、女心が分かっちゃいないねぇ」
困り顔の善次郎に、環は気のない返事をする。
(普通にしていれば、器量良しなのにな)
鼻筋の通ったすっきりした顔立ちと、女らしく整った体つき。黙っていれば、誰もが振り返るほどの佳人なのだが。
「善次郎様、大丈夫ですよ。少し驚いただけですから。環さん、初めまして」
にっこりと、お鴇が環に笑い掛ける。環の頬が、ふぃと緩んだ。
「あんた、可愛らしいねぇ。郷にいる妹たちに、似ているよ」
伸びてきた手に、お鴇がびくりと肩を上げたが、すぐに力が抜けた。頭を撫でる環の手は、先ほどとは打って変わって優しく、柔らかだ。お鴇は含羞しながら、素直に撫でられていた。
環とお鴇のやり取りを眺めていた長七は、浮いた腰をやっと落ち着かせた。だが、何かに気が付いたのか、はっとして善次郎に顔を向けた。
「もしや、円空さんがさっき言っていた覚悟ってぇのは、お鴇が環さんに殴られるってぇな話じゃ、ござんせんよね」
蒼い顔で、長七がびくびくと問う。
「殴りはせぬが。そうだな、環。まずは二人に、彫りの話をしてやってくれ」
「そういや、さっき彫師って言っていたよなぁ。浮世絵の
首を傾げる長七に、環は首を振る。
「あたしは、罪人に入墨を刺す彫師さ。本業は、町人なんかの彫物だがね。普通にやっていちゃぁ閑古鳥だからさ。あたしが刺す本来の彫物は、人を守るための特殊な彫りだ」
環は松坂の鬼瀬村から、大御所様が直に呼び寄せた腕利きの彫師だ。郷の名をとり、江戸では鬼瀬環と名乗っている。平生は小伝馬町の牢屋敷に詰め、非人に墨入れを教えている。
「彫りってぇのは、入墨かぃ……」
長七が、ぞっとした声で呟いた。
「入墨といやぁ、確かに罪人の印だけどね。入墨と彫物は全く別の代物だよ。あたしの郷の鬼瀬村じゃぁ、彫りは神聖な印で、村人の誇りだ。特に結界彫りは、魔除けや邪気払いのために施す。つまりは最上の護りなんだ」
長七が、強張った顔を上げた。
「まさか、そのなんちゃら彫りを、お鴇に刺そうってんじゃ、ねぇだろうな」
お鴇を環の傍から引き離し、長七が自分の後ろに庇う。
環の眼が据わり、声が低くなった。
「あたしの刺す結界彫りは、普通の彫りとは違う。結界彫りは常人の眼には映らねぇ。刺す時に痛みを感じるような下手もしねぇよ」
「ふざけるんじゃぁねぇや! 俺の大事な妹に、罪人みてぇな印を刺されて堪るかよ!」
長七の怒鳴り声に、後ろにいるお鴇がびくりと肩を縮める。
「ふざけてんのは、てめぇだろ! 刑の入墨と神聖な護りの彫りを、一緒にするんじゃぁねぇよ! しっかと解して、心得な!」
腹から湧き上がった環の怒号が、びんびんと部屋に響く。勢いのあった長七も、気圧されて尻餅をついた。
(環の逆鱗に触れてしまったな)
鬼瀬村は、内地にしては珍しく古くから彫物の慣習がある村だ。特に女に施す彫りが多いが、総ては護身や神聖の表徴であり、誇るべき印だ。と、以前に環が熱く語っていた。
江戸で罪人に入墨を刺す仕事を請け負ったのは、紀州にいた頃の大御所様に恩義があるからだと聞いている。義に厚い環の性格を考えれば、納得できる。
環にとり、彫物が郷土の誇るべき慣習であり、環そのものであることを、善次郎は解していた。義に厚く情に脆いが、短気なのが環の損な性格だ。
(やはり儂が話すべきだった)
善次郎が身を乗り出した時、長七の後ろにいるお鴇が、先に口を開いた。
「兄ちゃんが悪いわよ。環さんに、ちゃんと謝って」
長七が、ぎょっとした顔でお鴇を振り返った。
「何を言ってんだ。お前ぇの体に、入墨を刺そうってんだぞ」
「入墨じゃなくて、結界彫りよ。環さんは、ちゃぁんと話してくれたでしょう」
「入墨も彫物も、大きな違いは、ねぇだろ!」
ぱぁん、と、お鴇が両手で長七の頬を挟み込んだ。
「違うわよ! 兄ちゃんは鏝絵職人でしょう。入墨と彫物がどれだけ違うか、兄ちゃんなら、わかるでしょう。左官の添え物って笑われていた鏝絵一本で仕事が入るまでになるのに、兄ちゃんだって苦労してきたでしょうが。忘れちゃったの?」
いつものお鴇からは想像もつかない強い瞳が、真っ直ぐに長七を見据える。長七は言葉を失くして口を噤んだ。
じんわりとお鴇の目が潤んでいるのに気が付いて、長七の顔が下がった。
「そうだよな、そうだった。すまねぇ」
ぽつりと呟いて、長七は環に向き直った。
「環さん、失礼をしちまった。俺ぁだた、お鴇の体を案じただけなんだ。こいつぁ、まだ嫁入り前ぇの身だ。体に傷がつくと思ったら、頭にかっと血が昇って。あんたの仕事を馬鹿にしたわけじゃぁねぇんだ。すまねぇ」
長七が深く頭を下げる。二王立ちで長七を見下ろしていた環が、息を吐き、どっかりと座り込む。
「わかってくれりゃぁ、いいよ。あたしも、少し言葉が足りなかった。あんたのお鴇ちゃんを思う気持ちも、わかるよ。だから、その……悪かったね」
外方を向いた小さな呟きに、長七が顔を上げる。お鴇の微笑を見て、善次郎は安堵した。
(か弱そうに見えて、しっかりと芯を持った娘だ)
両親を亡くしても、二人で強く生きてきた軌跡が浮かぶようだった。
お鴇も長七と同じように頭を下げると、環にすっと寄った。
「環さん。私は、環さんの結界彫りを、お願いしたいと思います。私には身を守る術がないから。結界彫りで自分を守れるなら、彫ってほしいの」
真っ直ぐな瞳を環がじっと見詰める。環は何も言わずに長七に眼の先を向けた。目があった長七が、迷いを隠せない表情で俯く。環はまた、お鴇に目を戻した。
「お鴇ちゃんの決意は、わかった。だが、こればっかりは兄ちゃんと、ちゃぁんと話し合いな」
俯いていた長七が、驚いた顔を上げた。お鴇は黙って、環を見詰め続ける。
「あたしの結界彫りは、きっとお鴇ちゃんを護る。常人の目には映らねぇ彫りだ。だが、長七さんや善次郎様のように、気の敏い人にゃぁ見えちまう時が、稀にある。お鴇ちゃんの身を案じてくれる兄ちゃんが納得するまで、あたしはお鴇ちゃんに結界彫りをしない」
きっぱりと言い切った環を、お鴇が見上げる。ふっと、表情を緩めた。
「ありがとう、環さん。私、きっと兄ちゃんに納得してもらうから。その時は、結界彫りをお願いします」
環の手を取り、お鴇が頭を下げた。環が優しい瞳でお鴇を眺める。
「お鴇ちゃん、あんた、いい女だねぇ。あたしが惚れそうだよ。結界彫りをしないうちは、あたしがお鴇ちゃんを守ってやるから、安心しな!」
ぱん、と環がお鴇の肩を叩く。ひゃっと、お鴇が声にならない悲鳴を上げた。
「環、力の按排を考えろと忠言したばかりだ。お鴇の顔が蒼くなっておるぞ」
善次郎の困り声に、驚いた顔で環がお鴇を覗き込む。
「これでも、さっきより加減したんだけどねぇ。お鴇ちゃん、もっと鍛えなきゃぁねぇ」
「いいや、お鴇に環さんみてぇな力は要らねぇ」
腕組した長七が、きっぱりと首を振った。
「まぁ、歳も近いんだし、これからは仲良くしようさね」
ぽんぽん、と、今度は軽くお鴇の肩に触れる。そんな環に善次郎は怪訝な顔で、ぼそりと問い掛けた。
「環、今、いくつになった?」
「十九ですよ。前にも話したじゃぁありませんか。善次郎様は何度も同じことを聞きますねぇ。女に歳を聞くなんざ、野暮ですよ」
「そうだな。数年前に聞いた時も、十九だった」
「そうそう、だから十九でいいんですよぉ。ねぇ、お鴇ちゃん」
「環さん、綺麗だし若いから、きっと歳を取らないのね。鬼の血が混じっていると、あんまり歳を取らないものなの?」
にっこりと問うお鴇に、環と善次郎の動きが止まった。
「あ、言ってはいけなかったかしら。ごめんなさい。でも最初に会った時に気が付いたの。環さんが、人鬼だって」
二人の表情を察して、お鴇が手で口を塞ぐ。
「なんでぇ、内緒にしていたのかぃ。だったら黙っておくから、安心しな」
驚く環と善次郎を前に、長七も平然と言ってのけた。
「長七も、気が付いていたか」
「直ぐにわかりやしたぜ。俺らの周りにゃぁ、人に化けた狸も狐も獏も、結構おりやすからね。今更、珍しくもねぇや」
ぱちくりと目を瞬かせて、環が豪快に笑い出す。
「あっはは! あんたら兄妹は面白いねぇ。これから楽しくなりそうだ」
ぱんぱんと、環がお鴇の膝を叩く。ひゃっと驚いた顔で、お鴇が背筋を伸ばした。
「だから環さん、もっと加減してくだせぇな!」
怒りながらも、長七は嫌な顔をしていなかった。
(しばらくは、賑やかになりそうだ)
三人のやりとりを眺めながら、善次郎は微笑んだ。
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