第三章 潺、皓月堂に集う《三》
朝餉を食べ終えた善次郎は、のんびりと茶を啜る。
「お鴇ちゃんの飯は美味いなぁ。
湯呑をお鴇から受け取った皓月が、しみじみと噛みしめた。
「皓月さんだって、煮炊きはできるでしょう。私より美味しい煮物を作るくせに」
自分の湯呑にも茶を注いで、お鴇が腰を下ろす。
「俺のは、やむを得ず、だからなぁ。長く一人で暮らしていりゃ、それなりに何でも、できるようになるってぇだけの話だよ。だから作ってもらえるってぇのは、嬉しいねぇ」
「人参の
ぽそりと呟いた善次郎に、お鴇がほんのり頬を赤らめた。
「そんなに大したものじゃ、ないですよ。でも、ちょっとだけ隠し味があるんです。善次郎様に気に入っていただけて、良かった」
照れながら微笑む顔が、とても嬉しそうだ。実は自慢の一品なのかもしれない。
「夕餉も、また頼めるか? お鴇の飯が、楽しみになった」
力強く頷いて、胸をぽん、と叩いた。
「任せてください。善次郎様がびっくりするくらい、美味しい夕餉を作りますから」
気勢充分なお鴇に、微笑む。
(何かを任せていたほうが、生き生きとしているな。体に障りのない程度に家事を頼むとするか)
瞳に浮かんでいた羸瘦が消え、活気が戻っている。働き者の気質に、感心するばかりだ。
「あまり無理は、するなよ。疲れたら体を休ませて……」
正面から飛んでくる小さな妖の気に、善次郎の動きが止まる。
びたん、と肌にぶつかる音がして、何かが善次郎の顔に張り付いた。
「きゃぁ! 善次郎様、大丈夫ですか? それは……イタチ?」
お鴇が慌てて手を伸ばそうとするのを、皓月がやんわりと止める。
「こいつぁ、管狐といってね。妖さね。悪さするもんじゃぁねぇから、放っておいて大丈夫だよ」
「でも、善次郎様のお顔にぴったりくっ付いているし。音が、とっても痛そうでしたよ」
善次郎の顔に張り付いた管狐は、ずるずると胸元まで滑り落ち、肩に乗った。
「儂が避ければ、後ろの障子に穴が空く。掴み取れば、管狐が苦しかろう。常の事故、気にするな」
はらはらした顔で、お鴇が浮いた腰を下ろした。
(円空め、わざと速く飛ばしおったな。管狐が、この速さで飛べるとなると、御府内に入ったか)
管狐は円空が使役する妖だ。特殊な竹筒の中に、数十匹の管狐を仕舞っている。火急の知らせの際、管狐の体に文を括りつけて、飛ばしてくる。
「文が見当たらぬ。どこかで落としたか? お前の主は、何か言っておったか?」
管狐は善次郎の肩の上を踊るように、くるくる回ると、すりっと頬擦りした。
「よくわからぬが、主が近くに来ているのだな。よしよし、揚げでも出してやるか」
管狐の小さな額を、指で撫でる。
(よく見れば、可愛い顔をしておる。今まで、あまり気にしたことが、なかったな)
ふふっと笑って、お鴇が立ち上がった。
「善次郎様は、管狐と仲良しなんですね。私が台所から油揚げを取ってきます」
楽しそうな足取りで、部屋を出ていく。
「これほど懐いている姿を見るのは、初めてですがねぇ。この短い間に、随分とお力を操れるようになりましたなぁ」
皓月が感心した声で、呆気にとられている。
「人も妖も神も、気の流れが見えれば、心が分かる。儂が少しばかり心を丸くして相対すれば、この者たちは怯えぬ。これまで尖った心で接していたのだと、ようやく、気が付いた」
焦りや忙しない気持ちが、心を尖らせているのだと、今までは、全く気が付いていなかった。瞼の裏に浮かぶ灯火を見るにつれ、善次郎の心持も変わっていった。
(これが、心眼か。まだ未熟であろうが。今の心構えこそが、何より大事なのだろう。父の教えに、一歩でも近付きたい。軽挙に進むのではなく、一つずつでも確かに前に)
前に進む糸口を掴んだ心は、澄んでいた。
「善次郎様……」
皓月が口を開いたのと同時に、店先で大きな音がした。
「きゃあ! 店の戸口が……」
台所にいるはずのお鴇の悲鳴が聞こえる。
善次郎は即座に部屋を飛び出した。その後を、皓月が追う。
土埃が上がる店先を、怯えた目で見詰めるお鴇に駆け寄った。
「お鴇、下がれ。怪我はないか」
背に庇ったお鴇が頷いたのを確かめて、店先に眼をやる。
開いた戸が、くの字に曲がって外れている。漆喰で塗り固めた壁が砕け、ぽろぽろと剥片が落ちる。その中に、人が立っていた。
「急ぎ馳せ参じました。いささか、帰着をしくじったようです。申し訳ありませぬ」
円空が律儀に頭を下げる。皓月が額に手を当て、がっくりと肩を落とした。
「些かではない、円空。皓月が泣くぞ。戸外で一度、止まればよかろうに」
土埃が薄れ、真っ黒い布を頭からすっぽり被った男の姿が浮かび上がる。円空の異様な様に、お鴇が後退った。
「止まろうと思ったのですが、荷が重く、勢いを殺しきれませんでした。皓月、すまぬ」
皓月に向かい、再び頭を下げる。皓月は言葉にならない様子で、手だけを上げた。
円空が纏う黒い布の下で、もぞもぞと何かが動いた。
目を鋭くする善次郎の肩から、お鴇がひょっこりと顔を出す。
「いってぇ。円空さん、ちぃっとばかし優しく運んでくだせぇよ。俺は荷じゃぁ、ありやせんぜ」
黒い布から顔を出した男に向かい、お鴇が叫んだ。
「兄ちゃん! 長七兄ちゃんでしょ! どうして、ここに? 何で、この人と?」
「お鴇か? いやぁ、仕事が早く終わったんで、急いで帰ってきたんだ。途中でこの、円空さんに、拾ってもらってな。お前ぇこそ、何で、こんな所にいるんだ?」
円空の片腕に抱えられたまま、長七が頭を掻いた。
「東海道で出会いまして。急ぎ江戸に帰るというので、行先も同じ故、持ち帰りました次第です」
円空の声に抑揚はなく、ただ淡々と話す。布を深く被っているせいで表情も見えないから、感情がさっぱり伝わってこない。
「だから、俺は荷じゃねぇってのに。江戸まで、こんなに早く連れてきてくれたのは有難てぇけどよ。いい加減、降ろしてくんな。苦しくて
「気が回らず、すまぬ。早く降ろすべきであった。私も、重いと思っていた」
円空が手を離すと、長七の体がごろりと地面に転がった。
「おわっと! いててて。あんた、親切なんだか不親切なんだか、わからねぇ人だな」
尻餅を搗いて腰を
二人のやり取りを黙って聞いていた善次郎は、長七を見詰めていた。
(この男が、長七。一見しては普通だ。特に強い気這いも感じぬ)
神が宿るとすら言われる鏝絵を作り上げる職人には、とうてい見えない。
(帰りは三日後以降との話だったが、円空が見つけるとは。どういう偶然かわからぬが、手間が省けた)
善次郎は一歩前に出て、円空に眼を向けた。
「お主が世話を焼くからには、仔細がありそうだな。後ほど詳しく聞かせてもらう。その前に、ここを、どうにかしてやってくれ。帰ったばかりで悪いが、このままでは皓月が気の毒だ」
派手に壊れ、散らかった足下を見回して、円空は頷いた。
「私の失体に他なりませぬ故、皓月と二人で片付けます」
円空が皓月に眼を向ける。皓月は肩を怒らせながらも、諦めた顔をした。
「そうだな、円空。お前ぇさんは、そういう男だよ。善次郎様、ここは俺と円空で片しますんで、二人と奥でお話くだせぇ」
すっかり肩を落とした皓月が、掃除道具を取りに、庭に向かう。
憂愁を帯びる背中を、気の毒な気持ちで見送る。善次郎は、地面に座り込む長七に向き合った。
「其方が長七か。儂は明楽善次郎と申す。皓月と円空の友人だ。円空の無礼な振舞いは、儂が詫びよう。あれで悪気はないのだ。許してやってくれ」
頭を下げると、長七が慌て出した。
「やめておくれなさいよ。御武家様に頭なんか下げられちゃ、敵わねぇ。円空さんには感謝しているよ。俺の足じゃぁ今日中になんざ、江戸に戻れなかったんだ。人離れした神速のお陰でさぁ。ただ、ちょいと、扱いが雑でしたがね」
困り顔で笑う長七から、柔らかな気が流れた。お鴇の気とよく似ているが、ずっと力強い。
(円空の神速に驚かないところを見ると、変わった人も、妖も神も、見慣れておるのだろう)
皓月の話が大仰ではないと、感得できた。
「実は其方に話したいことと、聞きたいことがある。一先ずは中に入って、落ち着け」
屈んで、長七に手を差し伸べる。長七の眼の先が、善次郎の後ろに立つお鴇に向いた。お鴇の纏う気の柔らかさを、善次郎は背に感じる。
善次郎に向き直った長七が、差し伸べた手を握った。手が触れた刹那、善次郎の頭に兆しが走った。
(この男とは、きっと長い付き合いになる)
同じ思いを抱いたのか、はたまた別の何かを悟ったのか。長七もまた目を見開き、善次郎を見詰めていた。
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