第五話 Artémis des larmes ~アルテミスの涙~ ⑰

 「エレナ、今日は体調はいかがですか」

「おかげ様で…。先日はご心配をお掛けして申し訳ございませんでした」

「いえ」


さて、上座の席から離れた端の方の席に座られているブリダンヌ侯爵とその娘のエレナ、そしてエレナの横にヴィンセントが着席して何やらお話をされております。

近くにはリーヴォニア国の副大臣など外国の方々が座られており、軽く雑談など交わした後、ヴィンセントはエレナの手をそっと取り優しく見つめながらお話をされております。


「パーティーなんて久しぶりでしたので…ちょっと雰囲気に飲み込まれてしまいましたわ」

「それで酔いも少し回ってしまったのですね」

「お恥ずかしいですわ…」

「…これからパーティーに出席することが多くなってくるかと思いますので一緒に慣らして行きましょう」

「え?」

「なるべく貴方のお傍にいてお守りするようにはいたしますが…席を外さねばならない時もありますのでその時はご容赦いただきたい」

「ヴィンセント様…」

「まぁお酒は体質もありますので…徐々に見極めて行かれると良い」

「…はい」


ヴィンセントはエレナを包み込むように優しい空気を醸し出し、まるで二人だけの世界、と言わんばかりの空気感を醸し出します。エレナは頬を赤く染め、ヴィンセントのミステリアスなアメジストのような瞳に囚われたかのように真っ直ぐ見つめ、小さい声で頷きました。


「ははははは…何から何までご心配いただき…ありがとうございます、ヴィンセント殿」

「とんでもない。当たり前のことです」

「ははは…ありがとうございます。…陛下の仰っていた通りですな」

「え?」

「真面目で一途な奴だと、陛下は仰っておりました。まさにその通りだと心からそう思います」

「そのような事…」


エレナの父親であるブリダンヌ侯爵はヴィンセントにそうお伝えすると、若干二人の甘い空気に耐えられないと言わんばかりに赤ワインをグイッと飲み干します。

近くの席はリーヴォニア国の者であまりローザタニアの言葉を理解できていないようではありましたが、彼も何だか甘い雰囲気に口笛を吹いてヴィンセントとエレナを囃し立てておりました。


「…もしよろしければヴィンセント殿、今度我が家で食事でもいかがでしょうか。我が家の酒蔵にはヴィンテージのワインなど多数所有しております。家族では私しかワインを嗜まないので飲みきれんのです」

「それは良いですね。是非…」

「えぇ、お待ちしております」

「楽しみにしております」


あはははは…とブリダンヌ侯爵とヴィンセントは笑いを交わし、グラスを掲げてワインを飲み干しました。そんなお二人に挟まれてエレナは頬をさらに赤く染めて何といってよいのか分からないと言った表情で下を向いているのでした。


「…シャルロット様、シャルロット様!」

「え…?」

「どうかされましたか?」

「あ…ゲルハルト王子…」


ガヤガヤと大勢の人々が隣の席の人や近くの席の人を飛び越え、立ち上って固まってグループを作り話しはじめて雑多になったパーティーは、音楽団の奏でるバックグラウンドミュージックもほとんど聞こえずになり始めております。

そんな中、シャルロット様はぼんやりとして広間の奥の方を見つめていたところを名前を呼ばれて、シャルロット様は一瞬ビクッと肩を大きく揺らして横にいるゲルハルト王子の方を振り向きました。


「もしかして…具合でも悪いのですか?」

「あ…そうじゃないの。少し…考え事をしてて…ごめんなさい」

「…もしよろしければ、気分転換にでも踊りませんか?」

「え?」

「大丈夫です、私がちゃんとシャルロット様をリードさせていただきます」

「ゲルハルト王子…」

「さぁ行きましょう」


ゲルハルト王子はスッと立ち上がり、シャルロット様の前に手を差しだされます。少し戸惑われた様子ではありましたが、シャルロット様はその手にご自分の手を重ね合わせて立ち上がりました。

お二人に背を向ける感じで話されていたウィリアム様とアドルフ陛下はそれに気づかず、大使や大臣たちとお話をされておりました。

そしてゲルハルト王子とシャルロット様は手を取って広間の奥へと進んで行き、奥のダンスフロアの方へと向かいます。

ヴィンセント達のお席の後ろに通りがかった時、一瞬の刹那、ヴィンセントの瞳がシャルロット様のお姿の方に動きました。しかし誰にも気づかれないほどの速さで瞳を戻しヴィンセントは立ち上がることなくそのままブリダンヌ侯爵と共にワインを楽しそうに飲まれております。


「―――…もしよろしければヴィンセント殿、今度我が家で食事でもいかがでしょうか。我が家の酒蔵にはヴィンテージのワインなど多数所有しております。家族では私しかワインを嗜まないので飲みきれんのです」

「それは良いですね。是非…」


そんな会話をしているヴィンセント達の後ろを通ゲルハルト王子とシャルロット様は通り過ぎて行かれます。フワ…ッと濃厚なバラの香りがヴィンセントの背中越しに流れて行きました。


「…甘くて素敵な香りですわね」

「え?」

「シャルロット姫様の香水の香りでしょうか?とても濃厚なバラの香りですわね」

「…そうですね」

「お噂通り、お人形みたいにとてもお美しいお方だわ…」

「まぁ…そうですね」

「ヴィンセント様もお幸せな方ですわね」

「え?」

「だってあんなに素敵なご兄妹といつも一緒にいられるなんて!ヴィンセント様のお美しさも加わって…三人で一緒にいられるところをお見かけいたしましたら、まるで完成された一枚の絵画の様でしたわ」

「ありがとうございます」

「…そのような中に入って行くなど畏れ多いですわ」

「エレナ?」

「何だか圧倒的な美しさに萎縮してしまいます」

「そんなこと…。貴女だってとてもお美しい―――…」

「ヴィンセント様…」


自分を卑下するかのように、少し遠慮がちに俯いたエレナに対してヴィンセントはそっと優しく手を取り、少し緑がかった茶色いアーモンドのようなエレナの瞳を見つめます。

エレナはヴィンセントに触れられた手から段々と身体が熱くなってくるのを感じて、鼓動もドクドクと耳にまで大きく響いてきました。


「ブリダンヌ侯爵…すこしエレナと二人っきりにさせていただいても…?」

「あぁ構いませんよ。どうぞ初心な娘に…大人の恋をご教授いただきたい」

「お父上の許可が出ましたね、エレナ」

「お父様っ!」

「はははは…二十にもなってお前は何を恥ずかしがっているんだ。私が二十の時などこの両腕にたくさんの女性を抱いてきたぞ?」

「おや、やりますね侯爵」

「…まっ!」

「結婚する前の話だ。もちろん結婚してからはお前の母意外の女には目もくれていないから安心しなさい」

「もう!お父様ったら!」

「…さぁエレナ」


笑いを押さえながらヴィンセントはエレナに手を差しだします。エレナはチラッとブリダンヌ侯爵を見ると、侯爵はニヤッと微笑んで返します。もう!と照れるエレナですが、ヴィンセントに引っ張られるように強引に席を立って歩き出しました。

その様子を見ていた、リーヴォニア国の副大臣はワインによって赤くなったお顔をニコニコとさせ、タヌキの様に大きなお腹をさすりながら隣の席のブリダンヌ侯爵に話しかけております。


「オヤオヤ…ナカナカ楽シソウデスネェ」

「あははははは…そうですな。若いうちは遊ばねばなりません」

「ソウデスネ。リーヴォニア我ガ国モコレカラハ、コウイウ華ヤカナパーティーガ行ワレテ、華ヤカナ話題ガ出ルコトヲ願イマス」

「…リーヴォニアの未来に乾杯ですな」


お二人はグラスを交わすと、一気にワインを飲み干されて楽しそうに大きな声で笑われておりました。そんな様子を、反対側の席に座っていた財務大臣のガストンと、その友人の貿易商の李 凰華リ・オウカは白ワインを片手に揺らしながら見ておりました。


「おいおい…あの小癪で生意気なヴィンセントが…珍しく女連れだったな。ふん…あんな澄ました顔しているがアイツも男だなぁ。こんな公のパーティーで女と抜け出すなんて…はっ!奴も色ボケしたか?」

「へぇ…。あれは…ランスのブリダンヌ侯爵のご令嬢では?」

「ブリダンヌ侯爵?あぁ…なぁに、田舎者じゃないか」

「確か古くから王家に使える由緒正しき家だと小耳に挟んだことが」

「はっ!政治の中枢にもいない隠居したような田舎の貴族など何とも思わんわ!」

「そうですか」

「それにしても…退屈じゃ!何か楽しいことでも起きんか!」

「先日お譲りいたしました『エカテリーナ』はいかがでしたか?」

「あぁあれか。もうすでに娼館を貸し切って昨日までに使い切ってしまったわ!あの薬は凄いな!久しぶりに何人もの女を抱きまくったわ!」

「そうですか。楽しまれたのでしたらなによりです」

「しばらく女はいらんわ!お陰で寝不足で退屈じゃ!」


がはははははは…と下品な笑い声でと声高らかに笑うガストン大臣を横目でチラッと見ながら、凰華は腕組みをしたまたま冷めた目で口元に乾いた笑みだけ浮かべておりました。

ワインを一口飲み乾いた喉を潤すと凰華はふぅ、と息を吐きます。


「そうですか…。では…スリルを味わいませんか、ガストン殿」

「なんじゃ?なんじゃ?」」

「…今まで体験したことのないスリルを貴方に捧げると言ったら?」

「…?お主何を?…っ!」


凰華はフフフ…と怪しく微笑むと、テーブルの下で組んだ足をそっとガストン大臣に絡ませませて行きます。他の者には一切分らぬよう足先でガストン大臣の足をツツツ…と動かし、柔らかなタッチで撫で続けます。驚いていたガストン大臣ですが、だんだんと鼻の下を伸ばしてきておりました。


「スリルとは…こんなもんか?凰華殿…」

「まさかそんなわけないでしょう。…この国の財務大臣である貴方にこれしきのスリルなんて」

「まぁなぁ…。じゃがこんな初々しいスリルも久々でいいのぉ」

「…閨ではこんなもんじゃないですからね」

「久々にお主のその身体に触れたいのぉ」


ガストン大臣はニヤッとあるいやらしい笑みを浮かべると、凰華の黒曜石のような艶やかな黒髪に触れます。

一瞬凰華は顔を強張らせて、ガストン大臣を冷ややかな瞳でチラッと見ました。しかし瞳を一度閉じて、もう一度ゆっくりと開けると、自分の髪を触っているガストン大臣の手をパッと払い除けます。


「スマンスマン…。お主の美しさについ…気を悪くせんでくれ」

「ガストン大臣殿…私と貴方はビジネス上でのパートナーです。気安く触らないでいただきたい」

「スマン…」

「…」


凰華に拒まれ、シュンっと小さくなってしまったガストン大臣はバツが悪そうな顔をして残りのワインを口に流し込みました。凰華はガストン大臣を蔑むかのような横目でジッと見つめ続けます。

凰華はふぅ…と一つ息を吐くと失礼、と席を立ち歩き出しました。


「オ…凰華オウカ殿っ!」

「…ガストン大臣、後で貴方のお屋敷にお伺いいたします」

「?!」

「極上のワインを用意していてください」

「凰華殿…?」

「言ったでしょ、スリルを味あわせてあげます、と」

「…」

「それと…私を商品として欲しいなら、一晩300万ルリカ用意しておいてくださいね」

「300万ルリカ…」

「チップ次第でサービスは可能ですよ。では…後ほど」


ニコッと妖しく凰華は微笑むと、テラスの方へと向かって歩いて行きました。オレンジの燭台の光が揺れる、人もまばらなテラスへと凰華は出てくると懐から葉巻を取出して火を着けました。煙を燻らせ、ふと空を見上げると今宵は満月、まん丸のお月様が空で銀色に輝いております。


「…大変申し訳ございませんがこちらは禁煙となっております」


凰華の背後から穏やかながらも強くてどっしりとした声が聞こえてきました。

振り返るとそこにはローザタニア王国の執事長、セバスチャンが凰華の背後に立っておりました。


「…そうでしたか。それは失礼いたしました」

「喫煙所は反対側のテラスになります」

「ありがとうございます」

「…今日は何を企んでいらっしゃるのですか?」

「企むなど…。ただなにかスリルはないかと友人と想像していただけですよ。想像は自由でしょう?」

「…平和なこの国にスリルなど不要でございます」

「貴方ほどの人材が何を仰る…。かつて裏世界のドンとして名を馳せた貴方が―――…」

「遠い昔の話です。私は今、ここローザタニア国の執事長です」

「あはははは…ご謙遜を」


セバスチャンが持っていた灰皿の上で葉巻の火を消しながら凰華は微笑みます。セバスチャンはただ静かに視線を少し落として葉巻の火が消え、煙がスーッと細くなっていくのを見つめております。


「さて…それでは私は失礼いたしましょう」

「お出口までご案内をいたしましょう」

「…先程可愛らしい女性を見つけたんで声を掛けたいんですよ」

「左様ですか」

「それではア・デュー」


ヒラヒラと手を振って凰華はその場を去って行きました。セバスチャンは背中越しにその姿が見えなくなるまで見つめております。そして外の空気を吸いたくて出てきている数人の客人たちの間を縫うように歩き、セバスチャンはカフスボタンを口元に持って行きます。


「…こちらセバスチャン。聞こえますか、エースのアン

「はい、こちらエースのアン。聞こえておりますどうぞ」

劉 黒豹リュウ ヘイボウがガストン大臣の友人の貿易商、李 凰華リ・オウカとしてパーティー会場に来ております。何か仕出かすかも知れませんので細心の注意を払ってください」

「はい…」

「見回りを強化するようお願いします」

「承知いたしました」


セバスチャンはカフスボタンに付いている通信機を切ると何事も無かったかのように姿勢を正して歩き出します。視界の端に、ヴィンセントとエレナがテラスにあるソファーに座って何やら楽しげにお話をされているのが見えました。

お楽しみのところを報告で邪魔することもない…とセバスチャンは判断し、そのままその場をあとにしましたのでした。

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