第11話 破滅の日
「殺してやりたい男が居るの」
ホワイトフィールドとの密談から二日後。ブラックウッドのお楽しみの日である水曜日。
その日の午後、イチヨウはホワイトフィールドと彼の若い秘書を伴って、警察署の扉を叩いていた。
「まだ、信じられません。だけど今日、とてもおぞましい犯罪が行われているのです」
膝の上で重ねた手のひら。背筋は不自然な程ピンと伸ばし、呼吸は浅く、唇を噛み締める。化粧はあえて薄めに、顔色が悪く見えるように注意した。
「本当に、信じられないのです。あの方はとてもお優しくて、立派で、でも、確かにこの目で見ました。私、嘘などついていません。どうか信じてください」
「はあ··········」
早口に捲し立てる割には具体的なことを何も言わないイチヨウに、警官は辟易している様子だった。
救いを求めるように、イチヨウの背後に立つホワイトフィールドに目を向ける。
警官の視線を受けたホワイトフィールドは、重々しく頷いた後に、低い声で言った。
「彼女の後ろ盾であるブラックウッド卿が、まだ幼い少年に性的虐待を加えている恐れがある」
それまでは眠たげですらあった警官の視線が、彼の言葉で一気に鋭くなった。
ホワイトフィールドが手短に、警官に事情を語る。
ブラックウッドのお目当ては、華々しいスキャンダルの主役であった女優、ベル・サンチェスではなく、その息子であること。
ブラックウッドが四歳から十二歳までの少年しか愛せない
ブラックウッドが毎月第二水曜日と第四水曜日に、母親であるベル・サンチェスから幼い息子を預かり、昏いお楽しみに耽っていること。
ホワイトフィールドが口を動かすたびに、警官の表情は険しくなっていった。真剣な顔で彼の言葉を聞き入り、メモを取り、時折近くの同僚を呼び寄せて鋭い声で指示を出している。
イチヨウが一人で駆け込んだところで、こう上手く事は運ばなかっただろう────自分一人では何もできない、無力で無能な女を演じ続けながら、イチヨウはひっそりとため息をついた。
もしも、自分一人で警察署に駆け込んだら、何が起こるか。想像してみる。
警官は欠伸を噛み殺しながらイチヨウの話を聞き、いかにも面倒くさそうに一言口にするだろう。
────それ、ちゃんとした証拠はあんの?
証拠は無い。だが、水曜日にブラックウッドの屋敷に踏み込めば現場を抑えられる。イチヨウがそう主張したところで、警官は鼻で笑い飛ばす。
────証拠が無いんじゃ何もできないね。それに、あんた一人の証言を鵜呑みにするわけにはいかない。
小さな男の子が性的虐待されているのだ、早く助けなくては────そう激昂するイチヨウに、警官は穏やかな口調で言うだろう。
────わかった、わかりましたよ。そんなに興奮しないでください。後でブラックウッドさんにもちゃんとお話を聞きますから。
それじゃあ意味が無いといきり立つイチヨウに、警官は深々とため息をつく。そして嘲るように吐き捨てるのだ。
────なあ、あんた、自分が何言ってんのかわかってんのか。一人の立派な紳士を、それもあんたを育ててくれた恩人を、幼児虐待が趣味の変態呼ばわりしてるんだぜ?
まともに話を聞いてもらえず、無力なイチヨウは肩を落としてその場を去る。彼女の姿が完全に消えた後、清々しい表情で言うだろう。
────あーやれやれ。ヒステリー女の妄想にはうんざりだ、警察は暇じゃないってのによ。
「わかりました、すぐに向かいます」
警官が───イチヨウの想像上の警官ではなく、実際にホワイトフィールドとやり取りしていた警官が、早口にそう言って立ち上がった。
「通報、感謝します。必ず彼を救出しましょう」
「よろしくお願いします」
ホワイトフィールドが頭を下げる。イチヨウも、それに倣った。一歩遅れて、若い秘書もそれに続いた。
ダスティン・ブラックウッドは逮捕された。
それだけなら、まだ言い逃れができた。
幼い少年の相手をしているうちに二人して泥だらけになってしまい、シャワーを浴びてきたところだと言い張ることができた。
だが、ブラックウッドは、教会との繋がりが深く、政治的な権力をほしいままにしてきたダスティン・ブラックウッド卿は、まだ五歳の幼い少年の唇に、己の股間に聳え立つ男の証を差し込んでいたのだ。
ブラックウッドは唾棄すべき
そして、人々の怒りの矛先は、身の毛もよだつ犯罪を犯したブラックウッド────ではなく、実の息子が被害に遭っていたにも関わらず、のうのうと遊び歩いていた母親、ベル・サンチェスへと向けられた。
「母親は一体何をしていたんだ!」
「月に二回も預けてたんですって。母親のくせに。息子が可愛くなかったのかしら」
「最初っからわかっててやったんだろうよ。息子がどうなろうが知ったことじゃなかったんだ。あのバカ女は、ブラックウッドに近づくために息子を生贄に捧げたのさ!」
「ねえ、あの子ってまだ二十一なんでしょ? それで五歳の子供が居るわけ? やばくない? だって、十五の時に×××したってことでしょ。『アタクシはお女優ザマスのよ』ってお高く止まってるけどさー、ただの尻軽女じゃん」
ベル・サンチェスが主演を務めていた舞台は、すぐに公演中止となった。その他の舞台についても次々に降板が決まり、代役を探し始めているという。
女優、ベル・サンチェスは表舞台から姿を消した。それでも人々の誹謗中傷は止まなかった。
「前々から思ってたけどさあ、あいつ、演技超下手だよね。顔だってどうせ化粧で作ってるだけじゃん。一生懸命枕営業して、ついでに息子も売って、主演の座を買ったんだよ」
ある日、ある新聞記者が、ベル・サンチェスの姿を見つけた。
彼女は一人だった。大きなスカーフで顔を覆い、誰かと目を合わせることがないように俯いて、太陽の光から逃げるように日陰の中を歩いていたのだと言う。
記者はすぐさま彼女に取材を申し込んだ。ブラックウッドの事件の後すぐに彼女は表舞台から消えてしまい、まだどの新聞社も彼女のコメントを手に入れていなかった。
「事件について、何か一言お願いします」
記者にそう言われて、彼女は髪を振り乱して叫んだと言う。
────知らない! 私、何も知らなかったわ! だって彼は、彼がそんなことをするなんて··········!
その次の日、ベル・サンチェスの言葉が新聞の一面を飾っていた。息子の安否よりも言い訳を優先する無責任で最低な母親だと、人々は怒り狂った。
売女、無能、尻軽女、ブサイク、無責任、母親のくせに遊びを優先した最低な女、
己の持ちうる語彙の限りを尽くして、人々はベル・サンチェスを罵った。
だが、いっそ滑稽なほど、彼らはブラックウッドについて口にしようとしなかった。
ブラックウッドの容姿を嘲笑う者は居なかった。顔に深く刻まれた醜いしわ、だらしなくせり出した腹など、その気になればいくらでもあげつらうことができただろうに。
ブラックウッドを無能だと見下す者は居なかった。彼の過去を少し調べれば、彼の失態や失言、新聞記者の大好物の醜聞の情報など、簡単に手に入れることができただろうに。
ブラックウッドは無責任だと批判する者は居なかった。まだ幼い少年の唇に、己の股間に聳え立つ男の証を突き入れるなどという、大人としてあるまじき罪を犯したというのに。
人々は男に甘い。どれほどおぞましい罪を犯そうとも、男は男であるだけで、どこにも存在しないはずの屁理屈をひねり出してでも擁護される。
『ベル・サンチェスがブラックウッドに息子を預けさえしなければ、こんな事件は起こらなかった』────大真面目な顔をして、そう口にする者さえ居た。
男は常に被害者だ。
人々の怒りは、ベル・サンチェスだけではなく、ブラックウッドの最も近くに居た女────イチヨウにも向けられた。
「なんでもっと早く通報しなかったんだ? 一緒に暮らしてるんだから、パパの性癖ぐらい知ってただろ」
「まともな神経してたらさあ、普通自分から子守りを引き受けるよね。男の人に任せたりしないで。女としてどうなの、アレ」
「あの不細工ヒステリーババアじゃ抜けるもんも抜けなかったんだろ。あいつがきちんとお勤めできてりゃあ、あんな小さな子が酷い目に逢うこともなかったのにな」
何を言われても、どれほど罵倒されようと、イチヨウは俯いたりしなかった。
顔だけは真面目ぶった新聞記者に、下品な質問を浴びても、彼女は目を逸らさず、真っ直ぐ背筋を伸ばしてこう答えた。
「私は、ただ神の教えに従い、最も正しいと思う事をしたまでです」
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