第8話 8年前────その日、全てが変わった
日曜日。
雲ひとつない青空が頭上に広がっていた。
陽の光は暖かいが、空気は冷たく澄み切っている。
擦り切れた聖書を片手に、イチヨウは教会へと続く道を歩いていた。
今日は、イチカと共に礼拝者達の前で聖歌を歌う日だ。練習は充分に重ねてきた。人前で披露しても問題ない出来栄えだと思う。それでも最後の練習のため、イチヨウはいつもより一時間早く家を出た。
「よお、お嬢ちゃん」
目の前に、酒臭い息を吐く男がいる。
小太りで赤ら顔の不潔な男。上唇から、黄色い前歯が飛び出している。
昨日、酒場でイチヨウに絡んできたあの男だ。今日は、両腕にぶら下げていた取り巻き女の姿はない。
「こんな朝早くから教会へお勉強かい? 真面目だねえ」
「··········何の用?」
「調子に乗んなよ、てめえなんかに用があるわけないだろ。ちょっと優しくしてやったらすぐにつけあがりやがって。まったくこれだから女ってのはよぉ」
出っ歯の男は、地を這うように低い声で吐き捨てた。それからすぐに、にんまりと笑う。
「だけど今回だけは特別に許してやっても良いぜ。でかい仕事が片付いて、すっきりしたところだからなあ」
男は懐に手を突っ込み、ずるりと汚れた短剣を引き出した。イチヨウに見せつけるように、鞘を払う。
その刃は、今まさに人を刺してきたというように、赤黒く汚れていた。
「··········ッ」
「けけけけけ。そうかそうか。悲鳴も出ないか」
顔を引き攣らせたイチヨウを見て、男は上機嫌に笑い声を上げた。手の中で短剣を弄びながら、ゆっくりと近づいてくる。
逃げなければと思うのに、イチヨウの足は動かなかった。足だけではなく、体全体が石になってしまったような気がする。爪先から頭まで、少しずつ硬く、冷たく、重くなっていくのを感じていた。
「お前が通ってる教会な、若い姉ちゃんが
若い姉ちゃん。司教様ごっこ。それは、イチカのことか。
反論してやろうと思った。酒場で絡まれた時と同じように。
言葉は喉元までせり上がっている。だが、どうしても吐き出すことができなかった。
男の手の中にある、血塗られた短剣。それに目が吸い寄せられてしまう。
「だけどなあ、教会ってえのはいつまでもお嬢ちゃんの玩具になっちゃいけねえのよ。神様は悪事を見逃さないってな。だから」
男がイチヨウの隣に立つ。気味の悪い猫なで声が、耳元で響いた。
「殺してやったよ。滅多刺しにしてやったんだ、身の程知らずの弁えない馬鹿な女を」
くくく、と男の喉が鳴る。イチヨウは動けない。
「女だって指導者になれる、だったか? そんな馬鹿なことを言うから神罰が下ったんだよ。女は男に従うもんだ。聖書にだってそう書いてある」
違う。そんなはずはない。相手が男なら、どんな男であろうと従わなければならないなど、それこそ馬鹿げている。
そう思うのに、声が出ない。
血まみれの短剣。いつそれが突き出されるのか。わからない。
「本当はお前にも神罰を下してやりたかったんだけどなあ、駄目だって言われちまったからなあ」
指先が冷たい。氷のようだ。ただ立っているだけなのに、まるで全力疾走しているかのように、呼吸が浅く、早くなっていく。
「長生きしたいんなら、ご主人様には逆らわないこった。お優しいブラックウッドの旦那に感謝するんだなあ」
ブラックウッドの旦那。そんな人物は知らない。聞いたこともない。
出っ歯の男が、ゆっくりと歩き去る。その後ろ姿が完全に消えるまで、イチヨウは石像のように立ち尽くしていた。
その後の記憶は曖昧だ。
気づいた時には自宅に戻っていた。手の中には、ぐしゃぐしゃに丸められた新聞記事がある。
窓から、夕焼けの赤い光が差し込んでいた。照明を点けるために立ち上がる気力も無く、イチヨウは部屋の片隅で呆然と座り込んでいた。
(イチカが死んだ··········)
教会の前には、人だかりが出来ていた。入口は黄色のテープで封鎖され、中を覗こうと押し寄せる野次馬を、紺色の制服を着た警官が怒鳴りつけて追い払っている。
「号外! 号外だよ! 大ニュースだ! 白昼堂々、教会の中での惨劇だ! 東地区教導師長一家惨殺事件!」
野次馬達の中を泳ぐようにして、鹿撃ち帽を被った若い男が声を張り上げていた。つい先程刷ったばかりの新聞の束を掲げて、実に楽しそうにニュースだ、事件だと野次馬達を煽っている。
『怨恨か? 粛清か? 東地区教導師長一家、惨殺!』
記事に目を落とすと、おどろおどろしい見出しがまず目に入る。その後に、現時点で判明している事件の内容が続いていた。
(イチカが死んだ··········殺された··········?)
出っ歯の男は、神罰が下ったのだと言った。
男に従うべき女が指導者になろうとしたから。
教会を玩具にしたから。
男に従うべき女の身でありながら、身の程を弁えなかったから。
(違う。これが神罰だなんて。認めない)
奥歯を強く噛み締める。認めない、私だけは認めてやらないと、何度も胸中で繰り返した。
これが神罰であるはずが無い。神罰が下るべきなのは、彼女を殺した男の方だ。
「おい」
不意に、太い男の声がした。
いつの間に部屋に侵入したのか。白髪の男がイチヨウを見下ろしている。
心臓が跳ねた。茫然自失ではあったが、きちんと施錠していたはずだ。何故こんなところに男が居るのか。
「誰!? なんでここに居るの!? お金なんて無いわ!」
「この私を盗っ人扱いする気か? まったく、女が馬鹿なのは知っていたが、ここまでとは」
白髪の男が、嘲るように言う。
小さな男だった。隣に立てば、イチヨウの方が背が高いのではないかと思うほどに。いかにも高級なスーツに身を包んでいるが、頬はたるみ、顔や手足に醜い皺がある。
白髪の男の背後には、若い男が二人、石像のように立っていた。
「いくら呼びかけても返事をしないから、扉を蹴破らせてもらった。酒場の娼婦なんかに鍵など要らんだろう? 男を見れば誰彼構わず股を開くんだ」
「なっ··········」
頭に血が昇る。勝手に娼婦だと決めつけられ侮辱されたことは我慢がならなかった。
罵声では足りない。殴ってやる。殺してやる。こいつは男だが、老人だ。
奇声を上げて飛びかかる。イチヨウが男の醜い顔面に爪を突き立てるより早く、白髪の男を守るように背後の石像が前に出た。
鳩尾に衝撃が走る。男の護衛に蹴り倒されたのだと気づいた時には、惨めに床の上で這い蹲っていた。
「ふん。これだから女は駄目なんだ。論理をまるでわかっていない。すぐに感情的になる」
男はじっとりと湿った視線でイチヨウを見下ろしていた。その唇の端が、不自然に吊り上がる。
「感謝するが良い。なんの取り柄もない、長所などどこにもない無能な女のお前を取り立ててやろうと言うのだ。これからは私の命令には絶対服従しろ。女は男に従うものだ。聖書にもそう書いてある」
────それが、ダスティン・ブラックウッドとの出会いだった。
そして、いつ終わるとも知れない地獄の日々が始まった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます