賀正(織・太)

初詣の人波に流されながら、織田作之助は密かに焦っていた。

なんとか付属の指南書通りに着込んだ着物が、崩れてないかどうか非常に心配で仕方なかったのだ。何しろ今までの人生でとんと縁のなかった上物の一揃である。すぐ下を見れば確認出来る袴一つとっても紺碧の空か海のような美しい生地に、織田には知識が無かったが格式が高そうな植物を意匠化した紋が散りばめられている。汚したり破いたりなどしたら途方に暮れるしかない。此れが返還不要の支給品でなければ命懸けの海外逃亡生活突入である。

この任務を請け負わされた時、着物の着付けなど出来ないと上役へ(勿論控えめに)訴えたが、晴れ着であって正装では無いので多少着崩しても構わないと告げられ、任務の辞退は叶わなかった。素人仕事での着付けでは“多少”どころの騒ぎでなく。脱げてしまう危険性すらある。が、最下級構成員に社会的人権の保証など有りはしない。無情である。

と、いうかいっそ正装であれば最初から諦めて物知りで器用な友人たちに泣きついたかもしれない。そうしていたら今の織田の状況にはもう少し余裕があったのではないだろうか。

(裾を踏みそうだな……)

布地が足首に絡むたびに1月の外気と緊張に冷やりとしつつ、駅へ繋がる一般道から遠ざかる参道を進み、木造らしき門を潜り、本堂を目指して右へ曲がる初詣客の行列から抜け出して、出来るだけ他人の動線になりそうな場所を避けて立ち止まり、織田はほっと一息ついた。

「やァ織田作、今日は君も見慣れないものを着ているね。うふふ、此のまま何時ものバーに行ってみようか」

「ああ……構わないが。太宰、……そちらも参拝か?」

通りの良い声に呼びかけられて振り返る。そこにいた年下の友人、太宰治の姿に一度瞬きをして織田は尋ねた。

墨色の着物は金粉で化粧した白菊が裾を飾り、羽織にはまずフェイクではあるまい、立派な毛皮が首回りを覆うようにつけられている。右目と両腕、着物の合わせから覗く喉元には何時も通り包帯が巻かれているが、白と黒と金だけで構成された衣装は織田が内心冷や汗をかかされている自身の衣装より高級感が出ている。

十六歳、という彼の年齢を思えば渋すぎると感じられそうだが、類まれな才覚でその地位を上へ上へ登り続ける友人はしっかり着こなしていた。

流石である、と感心して思わずその要約を口に出す。

「よく似合っている」

「―ふふ、ありがとう織田作! 君にそう云って貰えるなら退屈な着付けの時間を我慢した甲斐があったね」

当たり前の話だが、幹部候補には専門の着付け師がついていたようだ。

そこで人混みから抜け出した最初の目的を思い出して、横で喋り続ける太宰の話に相槌を打ちながら全身を点検し始めた。

「全く御婦人の衣装より大分簡素とはいえ、何十分も直立したままぎゅうぎゅう締められて引っ張られるのは酷く疲れるね「そうか」ただこの首の毛皮はもふもふして気持ち好い!「善かったな」それで此れを枕にして外で寝たら気持ち好く死ねるかもしれないと思ったのだけど……「どうした」どうしたもこうしたもこの時期じゃあ酔っ払いだと判断されて市警に回収されるだけだって森さんに云われてしまったのだよ。名案だと思ったのにがっかりだ「残念だったな」それより織田作は何か失せ物でもしたのかい?」

「普段着慣れない服だ。着方を間違ってはいないだろうか」

「うん?」

自力での正確な点検を諦めて話を振ると、太宰は少し首を傾げてまじまじと織田の姿をその左目に収めた。

黒い蓬髪を上下にひょこひょこ動かしながらぐるりと一周し余すところなく点検すると、きらきらと輝いた笑顔で「大丈夫だ、織田作。自分で着たのかい? 凄いじゃないか!」と太鼓判を押してくれた。女性であるが普段から着物で過ごす幹部もいるらしいので、彼の目で見て可笑しくないのないのなら安心してもよいだろう。

「袴の模様は松と笹……ではなくこの場合は竹だね。松竹梅には梅が足りないけど」

「梅?」

流れるように話す太宰の言葉に引っかかって帯に挟んだ小物を引っ張り出す。

「梅なら此処に有るぞ」

「おお、揃った。お目出度いねぇ」

「目出度いのか」

「お正月だもの」

「そうか……」

正月は目出度いらしい。太宰の前で広げた梅の扇子を畳みながら織田は頷いた。

「それにしても織田作に渡されたのは随分マトモだね。羨ましい。私の渡されたこの衣装セットの箱には『極道のインテリ若頭』とか書いてあったよ。銀縁眼鏡も入ってたけれどそちらは遠慮したなァ」

「眼鏡も似合うだろう」

「―うん、ありがとう。織田作がそう云うなら今度してみるよ。まァ舞台的な発想なのだろうけど、このもふもふがなければ叩き返してたよね。小道具も色々入ってて」

口を動かしながらごそごそ袂を探っていた太宰が何やら細長い物を取り出す。

煙管と呼ばれるレトロな喫煙道具だ。愛好家も存在するらしいが織田には縁遠く、銀幕の内に見るばかりのものだ。

更に懐を探り時代劇でお付きが掲げる印籠をずっと小さくした根付けを出してくる。玩具の大きさだが薬入れとして使えるらしい。

「此れ、珍しいものがあった! って思って持って来たのだけど、煙草はあまり吸わないのだよね」

あまりも何も四年は早い。

そう思っても彼に深夜の酒場通いを許しているマフィアの最下級構成員が云えることではない。織田は別のことを聞いた。

「使えるのか」

「勿論! 織田作、君吸ってみないかい?」

「興味はあるが」

「じゃあ行こう!」

このあたりは休憩場所として開放されてるようで、一角には喫煙者の集まるスペースもある。緋い布を掛けられた縁台も設置してあり座れるようだ。

ちょうど集団が離れていくところに、太宰は素早く近寄って二人で陣取るには少々広めの空間を確保し織田を手招きした。

導かれるまま左隣に腰掛けると持ちっぱなしにしていた扇子を取り上げられて代わりに煙管を渡される。煙草を焚く方を少し下に向けるように指示されてその通りにすると、薬包紙で一服分に分けられた刻み煙草を取り出して中身を煙管の中に入れ、紙マッチに火を点けた。

刻み煙草に火を押し付けるのに合わせてゆっくり吸う。

「十分かな?」

「ああ」

軽く頷いてあらためて深く吸い込む。最も馴染み深い紙タバコよりずっと刺激が少なくその代わりくっきりと煙草葉の味がのった煙が肺を満たした。

「美味いな」

満足感を言葉にしてそのまま太宰に視線を流す。胸元に端末を構えた太宰が満面の笑みを浮かべていた。今まで気が付かなかったが大分冷えたのだろうか。少々紅くなっているような気がした。

「格好いいよ織田作っ! 此れは今年一番の伊達男が早くも決まってしまうね! 是非写真に残させてくれたま……あっ、あのチビよりによって今電話かけて来た!? 邪魔しないで!」

「?」

手の中の端末と格闘し始めた太宰に首を傾げていると程なくして何か結論に達したらしい。

「くっ……彼奴、此処にやって来るね! かくなる上は速やかにあのお遊び任務を熟して迎撃体制を整えるしかない!」

「任務?」

そういえば自分も任務……より詳しく内容を記せば参拝して預けられた賽銭を上げたあと、今年の年号か干支のお守りを購入して事務所に届けなければならない。

「同じ内容ではないよ、私はあっちだ」

鸚鵡返しにした単語だけで此方の疑問を汲み取ったらしい太宰がひょいと閉じた扇子で本堂の反対側のこんもりと緑を生い茂らせた丘を指し示した。

「あちらに在る神社に詣でて、巻物を咥えた狛狐と写真を撮って森さんに送らなくてはならないのだよね。思ったより高い丘で新年早々うんざりするよ。……あ、でも首吊りに良さそうな木が見つかるかも!」

「何時ものバーに行くんじゃなかったのか」

確か一番最初にそんな事を云っていた筈である。

一瞬、きょとんとした太宰が「……そうだねぇ。じゃあ今日は自殺は諦めようかな」とふにゃふにゃとした顔で笑うのに頷くと彼は急にきりりとした顔になった。

「では織田作、私は自由を確保するためにも任務に赴こう。君も首尾良く達成する事を願ってるよ! 幸運を祈る!」

「ああ」

一気に云い切って、袴より動きづらいだろうにかなりの速さで駆け去って行く太宰を尊敬の目で見送って、煙管を銜える。そこで持ち物が入れ替わったままなのに気がついたが今晩返せば良い事だ(後々正月休みの可能性に思い至ったがとりあえず行くしかない)。

中天に差し掛かった太陽と、一向に減った様子のない初詣客に少し眉を下げながら、織田は暫し紫煙を遊ばせていた。


〈了〉

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