一章 カレー

天才の種子

 虎島食堂の料理人、鹿島は困惑していた。

 この店で最も辛いメニューである究辛きゅうからカレーを頼みつつ、同時にビールを頼んだお客さんがいたのだ。激辛マニアならこんな注文の仕方はしない。ビールと激辛は相性最悪なのだ。

 しかも、この注文は若いOL風の女性によるものだった。茶色に染めた肩ほどの髪、黒いカーディガンにクリーム色のスカート。首から下げられた長いネックレスが可愛らしい。

 女性がこんな頼み方では食事を楽しめるとは思えない。鹿島は何度かメニューの辛さを忠告したが、聞き入れられず、軽い絶望を感じていた。


 彼女はビールを美味しそうに半分ほど飲み干すと、究辛カレーに手を付け始めた。カレーには野菜のほとんどが溶け込まれており、具材として見えているのは鶏肉くらい。端っこには紅ショウガが添え付けられている。

 ご飯にカレーを乗せると、OL風の女性はそのまま口に入れる。鹿島の感覚では極上の旨味がその辛さの内側に封じ込前られている。果たして、それが彼女に伝わるだろうか。

 女性は一口、口に入れて頬張る。味わっているようだ。ここで鹿島は疑念を抱く。究極カレーはあまりにも辛く、辛いものに慣れない人ならば、味わうことなどできないはずだ。

 そして、その女性は驚くべき一言を口にした。


「美味しい~!」


 あまりにも朗らかな、あまりにもにこやかな笑顔だった。

 その透明感のある笑顔に鹿島も思わず見惚れてしまう。


 それからの彼女をどう表現したらいいだろうか。

 カレーをひたすら頬張る姿は粗野に見えもするだろう。しかし、どこか上品で、見ていて不愉快にならない。

 辛いはずのカレーを美味しそうに食べ、それをビールで流していく。


 普通、激辛と水は相性が悪い。辛い物を食べた後に水を飲んで中和しようとする行為は多いようだが、これは逆効果である。水が舌をリセットして、辛さに対する耐性がなくなってしまうのだ。

 それをビールで行っているのだ。ビールは辛さをリセットするばかりか、炭酸により追撃を行う。辛さでダメージを追った舌には、この追撃は恐ろしいほどの追加ダメージを与えるといっていい。

 それをまったく気にしないように究辛カレーを食べるとともに、ビールを交互に飲んでいる。


 そして、あろうことか、カレーを食べ終えた後に、味噌汁を口にし、一口で飲み干したのだ。

 鹿島はその様子を驚愕の表情で見ていた。本来、究辛カレーでズタズタにされた口内に、この味噌汁は悪魔のように映る。それを、いとも容易く飲み干している。


 すごい奴に出会った。そんな衝撃を抱いていた。


     ◇   ◇   ◇


「おい、なんなんだよ、このカレーはよぉ!」


 急に荒げた声が聞こえてきた。少し前に入ってきていた若い男の客だ。金髪に逆立った目立つ髪型で、胸元を広げたシャツには派手な模様が入っている。そして、腕と足には刺青タトゥーが入っており、それがアピールしているかのように目に入ってくる。だいぶわかりやすいチンピラであった。

 どうやらカレーの辛さに立腹しているらしい。しかし、虎島食堂のカレーは辛いものだと確認してあるはずだ。そのことを説明するも、男は頑として退かない。

 挙句の果てに、持参していたのか、酢をどぼどぼとかけたかと思うと、

「なんて、不味いカレーなんだッ!? 酸っぱいしよぉ、腐ってんのかって。こんなんで商売してんじゃねぇぞ!」

 と大声で文句をブーブーと言い始めた。


 鹿島はさすがにカチンと来たものの、そんなことを感情に出すことはできない。

 どうにか親身な姿勢を崩さずに、相手を懐柔しようとする。しかし、意外なところから声が上がった。


「さっきから、なんなんですか? 自分で酢を入れておいて、その態度、小学生ですか? せっかくの美味しいカレーが台無しです」


 さきほどのOL風の女性だった。チンピラの態度が腹に据えかねたらしく激昂している。

 味方してくれること自体は嬉しいが、この状況に鹿島は困った。ふたりがバチバチとやり合っていて取り付く島もない。


「私は美味しい食べ物を邪道な食べ方で不味くされるのが、何より許せないんです」


「おい、するってぇとよぉ! 俺と勝負するとでも言うのかよ!?」


「いいですよ。勝負しましょうか」


 話が変な方向に来ている。鹿島から嫌な汗が流れてくるのを感じた。


「店主さん、この店での勝負のルールは?」


 女性が鹿島に尋ねてきた。やはり勝負になってしまうようだ。


「究辛カレー10杯です。先に完食したほうが勝ちとなります」


 鹿島は反射的に答えてしまった。

 すでに女性はカレー1杯とビール1杯を平らげてしまっている。ここからさらに10杯というのはさすがにハードルが高い。

 そして、男の方は一見辛いものが苦手なように見せているが、その行動はわざとやっているように感じられた。実際には辛いものが苦手なのではなさそうだ。しかも、酢を持ち込んでいる。これを使用することは現在のルールでは反則とされていない。

 鹿島の視点では女性が不利に見えた。


     ◇   ◇   ◇


 大食いが正式なスポーツとして認知されるようになり、変わったことがいくつかある。そのうちのひとつは、どこの店舗でも設定されている大食いの草試合ではないだろうか。これは以前では考えれなかったことだであった。

 そして、虎島食堂では激辛メニューである究辛カレーが種目になっていた。ただの大食いではこれを乗り越えることはできない。激辛に対する耐性を持ち、その痛みを乗り越える工夫を持つもの。それが勝利の条件だった。


「両者、名乗ってください」


 しきたりに則り、鹿島はふたりに声をかけた。


高梨たかなし日葵ひまりです。天才の種子ライジング・プロミネンスと呼ばれています。よろしくお願いします」


 女性が宣言した。


「俺は人吉ひとよし恒臓つねぞうってもんだ。二つ名は水没都市ヴァリアブル・ルルド・ウォーターを名乗ってるぜ。まあ、覚えてくんな」


 男も宣言する。


「では、勝負を開始します」


 その言葉とともに、ふたりはカレーに手を付け始める。

 日葵は静寂ともいえるほど淡々とカレーを食べ始める。その食べるスピードはかなり速いといえた。

 人吉は相も変わらず酢をジョバジョバとかける。そして、びしゃびしゃになったカレーを飲むかのような勢いで食べた始めた。


 こうなってくると、人吉のほうが速い。「カレーは飲み物」と発言したのはウガンダ・トラだっただろうか。まさに、その言葉の通りに飲むように食べ進めていく。

 あくまで食べている日葵とはそのスピードは明らかだった。


「そんなのは邪道な食べ方です。私の方が美味しく食べてますよ」


 朗らかに微笑みながらそう語る。それでも、勝負は彼女に不利であるように見えた。

 しかし、そんな日葵の食べ方を見ながら、鹿島は違和感を覚えていた。

 激辛にコツなどない、とはよく言われる。敢えて言えば、食前に牛乳などで食道や胃を粘膜で覆う、食中に水を飲むなどの口内をリセットするような行動をしないことだ。

 あとは無用に慌てて食べないことだろうか。これは当たり前のようだが、実は難しい。辛さは食欲を増進させるというが、究辛カレーのような旨味を凝縮させたようなカレーだと、ついつい食を進めるスピードが高まってしまう。それにより、思わずむせてしまうこともあれば、辛さで舌や胃を痛めることもよくあることだ。


 だが、日葵の食べ方はどうだろう。

 まるで一糸乱れぬように落ち着いている。その食べるスピードは機械のように安定しているように見えた。それでいて、その食べるスピードは徐々にギアが上がっているかのように、次第に速くなっている。

 人吉が5皿目を食べ終えた時、日葵もまた5皿目を食べ終えた。


「5皿目、食べ終えたぜぇ。よし、お替わりだ」

「5皿目、食べ終わりました。お替わりをください」


 ふたりの声が同時に響いた。

 そのことに人吉は思わず日葵の姿を見る。全く動じていないかのような落ち着いた姿勢に彼は驚愕を隠すことができない。


 酢をどれだけ混ぜたとしても究辛カレーは辛い。舌も口内もどんどんズタズタになっており、人吉の脳内にアラートが鳴り響くようにジンジンとした痛みが走り続けていた。なにより、疲労がどんどん溜まってきている。辛いものを食べると疲れが目に見えてわかってくるものだが、もはや限界が近いと感じていた。

 人吉はカレーを飲むようなスピードで食べ進めることで、日葵を怖気づかせて戦意を挫くつもりだった。しかし、日葵の勢いは止まるどころか徐々に増してきている。


 見た目の上でのリードを保つだけでも、人吉は苦しんでいた。さらに、「美味しく食べてます」という宣言があり、いつの間にかリードが失われていたのだ。これには大いに慌てた。

 思わず、カレーを飲むスピードを速めようと、たくさんのカレーを口に含んでしまう。そして、むせた。喉を焼き付くような痛みが襲う。それだけでなく、鼻腔や目にカレーが逆流する。痛みに悶え、もはやカレーを食べるどころではない。


 そんな中、日葵は落ち着いた態度を一切変えず、堂々と食べ続けている。 

 人吉はそのことに絶望しつつ、ただ悶え苦しんでいた。


     ◇   ◇   ◇


 日葵ひまりは勝利を収めた。

 負けた人吉ひとよしは店に料金を支払うと、みじめに敗走した。


「見ていた。見事な勝利だった」


 鹿島の背後から声がした。店のオーナーの虎島だった。

 虎島は日葵の勝利に感動するように涙を流すと、涙ながらに、どうにか言葉を紡ぐ。


「あれはライバルグループである二階堂にかいどうグループの嫌がらせだ。二階堂グループはオリンピックのメダリスト、二階堂にかいどう六華りっかの名声があるからどうにもならん」


 そこまで一息で言うと、虎島は日葵の目を見て告げた。


「今度、二階堂六華と勝負する手はずになっている。あんた、この勝負に参加してはくれないか」

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