最終話 持続と幸福

 ――あれから数年の月日が流れました。


 産業革命が進み新しい富裕層が増えたことで、当ホテルのお客様もひっきりなしという状況が続いています。エルスター領区は観光地としての知名度を上げ、シェリンガム家はかつての所有地を次々と買い戻し、統合型リゾート地としての開発を進めてゆきました。


 そんなおり、国中を貴族制度廃止のニュースが駆けめぐりました。


 きっかけは、悪い癖の出たジョシュア殿下の浮気だったようです。しかも「世継ぎが出来ないのはお前のせいだ!」と、散々妻をなじった上での不貞行為だったそうで……。


 愛娘を泣かされ、さらに一連のマスコミによる暴露報道で面子を潰されたボルトン家の当主は、持てる力全てで市民の怒りを煽りたてました。


『貴族制を廃止せよ』


 そう大きく書かれたプラカードを持った市民たちにより、首都では毎日のようにデモが繰り返されました。今にも大暴動が起こるのではないかと思われていた、その時。


 あの落盤事故から元通り以上にまで持ち直していたアルバーン侯爵を筆頭に、無血改革派の貴族が賛成多数を占め――貴族院の議会において、とうとう貴族制度の廃止が可決されたのです。


 こうしてグロウランド王国はグロウランド共和国へと生まれ変わり、長き王政の歴史に終止符を打つこととなりました。




「僕ももう、伯爵ではないんだな……」


 朝食の席で執事が持ってきた新聞に目を通しながら、アイザックはそう少しだけ寂しそうに言いました。


「そうね、伯爵じゃないわ。……社長でしょう?」


 私は空になった夫のカップにコーヒーのおかわりを注ぎながら、微笑みました。


「奥様のおっしゃる通りでございます。旦那様はこれからも私共の主人。このエルスターキャッスルアンドワインリゾート社の、社長でございます」


 そう言ってこちらも微笑む執事へ、そして私へと視線を移すと。


「社長……そうか、そうだな。領主も、社長も……従業員みなの暮らしを守っていかなくちゃならないのは、同じなんだ」


 噛み締めるようにうなずく夫の姿を見ながら、私は思いました。


 ──世襲の地位などなくなってしまっても、大丈夫。

 努力家の貴方には、自らつかんだ居場所があるのですから。



*****



 ──貴族制廃止のニュースが流れてから、数週間後。


 ゆったりとしたワンピースを着た私は庭園で、いつものようにお城のエントランスに飾るための花を摘んでいました。今日はどんなアレンジにしようかと考えながら季節のお花に囲まれるひとときは、最近のお気に入りなのです。


 収穫した花材を両手いっぱいに抱えて歩き出そうとすると、近くにいた庭師見習いの少年が慌てたように立ち上がりました。


「奥様! そんなものはオレが運びますから!」


「あら、このくらい軽いから大丈夫よ」


「いえ、そんなお足もとの見えにくい状態で歩かれるなどとんでもない! 今はお身体を大事になさってください」


「そうね、ありがとう」


 今は素直に少年の好意に甘えることにした私が、花の束を手渡そうとした……その時です。


 突然植え込みの間から現れた人影が強い力で私の腕をわしづかみ、その衝撃であたり一面に花が散らばりました。


「見つけたぞ、ミラベル!」


「きゃっ!」


 思わず声を上げた私が、相手の顔を見上げると。そこにあったのは絵画に描かれた悪魔のようにおぞましい表情を浮かべた、元婚約者の姿ではありませんか。


 すっかりけてしまった頬は無精髭におおわれて、かつての自信に満ちた美しい王子様の姿は、そこにはありませんでした。彼は落ちくぼんだ眼窩の奥で光る目をぎょろりとこちらへ向けると、哀願するように言いました。


「なあ、戻ってきてくれよ! 本当に俺のことを思ってくれるのはお前だけなんだって、ようやく分かったんだ! お前だって、本当はあいつなんかより俺の方が良いんだろう? 浮気したことは今なら許してやるから、また俺のものになれよ!」


「奥様に何をする!」


 勇敢にも立ち向かおうとした少年を思いきり突き飛ばして……ジョシュア殿下、いえ、ジョシュアさんは、かつての余裕を全て失ったかのような声で、叫びました。


「邪魔だ小僧、どけっ!!」


「誰かたすけてっ! 奥様があぶない! 誰かーっ!」


 散らばる花の中に倒れ込んだ少年が、大声を上げた……その時です。血相を変えて走ってくる夫の姿を見つけて、私は思わず安堵に頬を緩めました。


 到着したアイザックが彼の手首をつかむと、余程痛かったのでしょうか。思わずといった様子で、ジョシュアさんはぱっと私の腕を手離し一歩あとずさりました。


「おまえっ、アイザック!」


「身重の妻に乱暴はやめてもらえますか?」


 さっと夫に身を寄せる私を見て、ジョシュアさんは吐き捨てるように言いました。


「身重……だと!? このあばずれめ!」


「私は私の夫と子をなしたのです。それを侮辱されるいわれはありません」


「なんだとっ!? お前、ミラベルのくせにっ……!」


 まさかあの私が怒りに満ちた声で反論するとは、夢にも思わなかったのでしょう。困ったように苦言を呈することはありましたが、彼の前で怒りを見せたことは……そういえば一度たりともなかったのです。


 ジョシュアさんは酒焼けした顔をさらに真っ赤に染め上げると、再び私に腕を伸ばし──しかしそれは届く寸前で、夫の手で捻り上げられました。


「くそっ、離せ! ガリ勉のくせになんでこんなに力があるんだよ!」


「……まだ学生気分でいるらしい貴方とは違い、日々の労働で鍛えていますので。これ以上妻に付きまとうようなら、警察に引き渡します」


「警察だと!? ハッ、この俺を誰だと思ってる!」


「ただの市民、ジョシュア・グルナッジ君。そうだろう?」


「くっ……」


「君は真に自分のことを想ってくれる相手を見誤ったんだ。一度手を離したものは、もう二度と戻らない。そう、覚悟しておくべきだった」


 その言葉を聞いたとたん、ジョシュアさんはすっかり抵抗の意思を無くしたようでした。彼の力の抜けきった腕を、夫がそっと放してやると。ジョシュアさんはそのまま、地面に小さくうずくまりました。


「旦那様、奥様、ご無事ですか!?」


「こちらの方を、警備室で丁重におもてなししてくれ。落ち着いたら速やかにお帰り頂くように」


「かしこまりました」


 がっくりとうなだれたまま動かなくなってしまったジョシュアさんを、駆けつけてきた警備員たちに任せると。私たちはもう後ろを振り返ることなく、城へと向かって歩き始めました。


「もうすぐ今日のチェックインの時間ね。急いでドレスに着替えてお出迎えの準備をしなくては!」


「あんなことがあったばかりなのに、休まなくても大丈夫か?」


「大丈夫よ。だって、楽しいんだもの!」



 旧貴族家の衰退とともに保全の手がまわらず朽ち果ててゆく城が多い中で、中世さながらの優美な姿を残すエルスター城は……やがて宿泊客以外の観光客も、遠く外国からまで集めるようになりました。


 こうしてシェリンガム旧伯爵家は、昔ながらの農業収入のみだったエルスター地方に安定的な観光収入をもたらして、地元に長く貢献することとなったのです。



 富めるときも、貧しきときも。

 これからもずっと、共に貴方の想い出の城を守りましょう。


 ──ようこそ、エルスター伯爵城へ!








おしまい

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