自分を歩む
市ノ咲春
僕は
第1話
暗転
——瞬く間に、今までの人生で染み付いた世界の法則が全て否定された感覚だった。
脱力
——うつ伏せに倒れた体を起こそうと、腕や足に意識を集中させる。
転倒する直前、受け身を取るように右手を出したが、とっさの対応は報われず、体の下敷きになっている。
幸い、顔や腕が勢いよく地面に衝突したが痛みは無い。
いや、痛みだけではない。身体のあらゆる感覚が、元より生まれ持っていないかのよう消失している。
焦燥
——目は、見える範囲にコンクリートの地面が広がっていることは分かる。
耳は、一緒にいた友人が繰り返し意識を確認する声が聞こえる。
ただ、身体の感触や動かし方が、頭の中からすっぽりと抜け落ちたように見当たらない。
なぜ。心の底から湧き上がった冷たい不安感に背中を押されながら、脳内に意識を駆け巡らせる。現状を変える方法が見つからない。脳の裏側に火がついたように、僅かな熱と痛みを感じ始める。
どこにも無い。どうして。先程まであった感覚を探し求め、先行きが見えない思考の糸を手繰り寄せ続ける。
しかし、無数に引き寄せた糸の先は空虚しか存在しなかった。
○
「お疲れさまでした」
今日の労働終了の挨拶を口にしながら、スタッフルームの扉を抜けた。店の裏口へ足速に向かいつつ、晩御飯や手付かずの課題を思い浮かべる。
裏口の扉を脱出したことで、晴れてバイトの拘束から自由の身になった。両手を上に挙げて背筋を伸ばし、微かな解放感を味わう。だが、すぐに次の予定の為に目的地へ向かわなければならない。
僕の友達、ユウが今日も待っているから。
夕暮れの赤が目に染みる。
信号待ちの最中、建物の群集に向かう夕日と目線があったことを疎ましく思った。眼球の奥まで抉るような赤が、鋭い光が。
体が波打つように揺れる感じがした。
夕日を視界から追い払うように目線を下に向けた。右手で、もう一方の手首を探るように触れる。手のひらと手首の皮膚から、体温と握る力で自分の存在を確認する。
鳥の鳴き声の様な電子音と共に、コンクリートに映る信号待ちの影が動き出す。影が道路や横縞の白線と重なる様子で、ようやく信号が青に変わったことに気がつく。
内側に向いていた意識を外側に修正し、足速に横断歩道へ踏み出した。
ユウは僕と同じ大学の同級生だ。
通う学部は異なるが、取る講義の傾向が似ている為か、週に何度も顔を合わせることが多い。互いに自宅が近く、仲良くなってからは、よく休日やバイト後にダラダラと喋りながら帰宅している。
大勢より少数精鋭。相手を深掘りすることなくフランクに。思考より感覚で人生を送るような人物だ。
公園の出入り口にある手すりに重心を預けながら、携帯電話と地面を交互に眺める待ち人を発見する。
待ち人は何かを察したように顔を上げる。
「おーい!」
ユウは僕に向かって右手を軽く振る。
僕は向こうの声掛けを合図に彼の元へ近寄った。彼には見えないアンテナが生えている。
そう考えてしまうことがある。僕の存在を眼や耳以外のアンテナで感知して、何度も手を伸ばす様に僕の隣に立ってくれている。
「ユウ、お待たせ」
「大丈夫ダイジョーブ。バイトお疲れ様」
気の抜けた笑顔でユウは答えながら、手すりから体を起こした。
左手にペットボトルを握っていた。ラベルの色味から、おそらく中身はスポーツドリンクであろう。
「うん。そっちもお疲れ様、練習の調子どう?」
「そこそこかなあ。新しいやつ始めたばっかだから、まだリズムに追いつけない感じがあるや」
「どんな感じの曲?前のアップテンポなやつはやり易そうな感じだったけど、アレより速いリズム?」
「逆、めっちゃスローテンポ。前のは慣れた動きが多かったから良かったけど、今回のは知らないフリも結構あるから大変」
「大変そうだね……ダンス、頑張って」
「おう。今日は何処か寄る?動きすぎて、腹減ってきた」
「僕も少し空いてるし、軽く食べられる店に行く?」
ユウが足元に置いていた鞄を肩にかける。
「よし、ならさっさと行こう。空腹で死にそうだから」
「ファミレス?それともカフェとか?」
「ファミレス。確かすぐ近くにあるはず」
ユウの意見に賛同するように歩き慣れた歩道へ向かう。ユウと二人並んで進みながら、気持ちと言葉で喉の奥底を敷き詰めていく圧感に襲われた。
店内に入り、案内された席についた。僕は軽い夕食として丁度良い量のドリアを。ユウは僕と同じ料理に加えて、サラダやデザートを各々注文した。
料理が届くまで、二人揃って携帯電話で暇を潰す。少しだけ携帯電話の画面から視線を外し、自分達の周りを確認する。今日は客の入りが控えめで、僕達を含めて店内にいる客は半分を満たない。程よく互いに距離を取った状態でテーブルに客が着いている。あまり大事にしたくない話をするには都合が良い。
……そう、この状況は僕にとって良い状態だ。話題を出したくない、隠したい気持ちで縫い閉じようとする口を必死に動かす。
「ぁ……あのさ」
「ん?なに?」
僕の声に反応し、ユウが顔を上げてこちらを見つめる。僕が伝えたい内容を大方予想はしていると思うが、ユウは僕から話すことを待っていた。心の奥に引っ込めたい声をゆっくり吐き出して伝えた。
途中、言葉や声を詰まらせながらユウに説明していく。分かりやすく内容をまとめると次の通りだ。
数ヶ月前から突然意識が薄れてその場で倒れてしまうことがあった。主に一人でいる時に起こっていた。その為、最初は日頃の疲れで心理的なものかと思い、気にしていなかった。
だが、日が進む毎に謎の失神が起こる回数が増加。
2ヶ月程前、ついに人前で起こってしまった。状態が悪化していく不安に押されて、ようやく病院で詳しく診てもらうことになった。
「一昨日、検査してきた」
「——どうだった?」
「結果もその日に聴けて、僕……」
ユウは病院へ行くことを提案してくれた。人前で倒れる時はいつもユウと過ごす時に起こることが多く、毎回迷惑をかけてしまっている自覚がある。僕のことに巻き込んでしまった責任として伝える義務がある。
「『てんかん』て言う病気で。先生の勧めで薬で治療も始めたんだ」
「へえ。薬飲んでるならもう平気なの?」
「……なんともいえないや。病気に使う薬が色々あって、様子みながら調節するから」
「そっかぁ、良くなるといいな」
「うん」
ユウの返答を聴き終えて、ピンと張った気持ちがようやく緩み出した。彼の明るい励ましから少し勇気を貰い、一昨日から続いていた不安が和らぐ。
病院から貰った『てんかん』についてのパンフレットを鞄に入れたまま読んでいないことを思い出した。先生から診断を聞いてから、ユウに報告する事ばかり考えていて、つい後回しにしてしまった。
荷重が軽くなったお陰で、自分の今を見る余力が出来てきた。
そのはずだ。
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