田中と鈴木

 青い闇の中、ぽつぽつと輝く街灯を頼りに酒を買って帰る道すがら、そのようなことを考え、将来に一抹の不安を覚える。こんな生活がいつまで続くのだろうか。そう思いながらもそこから抜け出す努力もせず、私は自分の住むアパート、そこの自分の住む部屋の隣のドアを叩いた。


 隣のその部屋には先輩の田中という男が住んでおり、私は彼からテストの過去問題などをもらうために酒を差し入れたり——何に使うのかは考えたくもないが——彼に自分の部屋を貸していたりした。田中にさまざまなことで融通を利かせてもらっている身としては、彼を大っぴらに批判したくないのだが、田中を一言で言えばどの大学にもよくいる最低な屑野郎だ。


「おう、酒か。あんがとな。お前も入って飲んでけや」


 田中はワックスで安いカツラのように固められた髪をいじりながら私を招き入れる。この男は髪をいじっていないと落ち着かないらしく、いつも鏡を探している。その姿に子供っぽさと間抜けさを抱くのだが、その姿が女にもてるらしく、真似している自分がいて気持ちが悪い。


「いらっはい」


 部屋には狭いアパートの一室にもかかわらず、人がぎちぎちに詰まっており、紙巻煙草のような何かと酒を楽しんでいる。むせかえるほど甘く、それでいて青臭い煙に咳き込んだが、自分以外誰もそれを気にしていない。私に話しかけてきた女に至っては呂律が回っておらず、そばのチューハイの缶と見るからに多すぎる空になった薬のPTP包装からであることは明らかだ。


「まあ座っていけや」


「あ、ありがとうございます」


 空いた座布団に座り、彼らから勧められる紙巻の乾燥したをそれとなくあしらう。俺はこいつらを利用しているだけ、同じレベルに堕ちてはいけない――それだけがこの破綻した空間で正気を保つ方法だった。


 どの顔も大学ですれ違ったことのある見知った顔だが、その中に一人、初めて会う男がいた。隣に座っているその男は他の連中とは違い、髪を固めておらず、服は油に汚れたつなぎと明らかに大学生ではない。落ち窪んだ眼もとにくすんだ隈、黄ばんだ歯を乾いた唇からのぞかせており、初対面ながらその生活環境が不安になる。彼は私を軽く睨むとの先をちりちりと燃やして、その煙を肺に入れた。


「あ、おめえ、こいつとは初めてだったな。こいつは鈴木、俺のツレでを仕入れてくれるのよ」


「よ、よろしくお願いします」


 鈴木と呼ばれるその男は早い話が売人だった。しかも、そのを吸っているあたり、末端の末端だろう。ただでさえジャンキーとは関わりたくないのに、ハッパをさばいているジャンキーなど以ての外だ。このような輩と付き合っていては命がいくつあっても足りない。


「よろしく」


 そう言って笑いながら鈴木は肩にパンチをしてくる。その力はハッパのせいか、おふざけの域を越えており、肩がじんじんと痛む。それに苦笑いで遺憾の意を示すが、彼にそのような感情の機微など伝わらず、ケタケタとまた笑って何度も殴ってきた。


 いっそのこと鈴木の肩を殴り返してやろうかとも思ったが、こういった手合いは自分が殴るのは良いが、殴り返されると機嫌が悪くなりやすいので厄介だ。早い話が鈴木のようなボス猿タイプの人間は自分より弱いと思ったやつしか殴らず、そのように考えている相手の反撃を予測する脳も無いので、殴り返されると思考が止まり、不機嫌になるのだった。


「そんな顔するなや。こいつ、根は良いやつだからさ」


 田中に苦笑いしていたことがばれたのか、田中もケタケタ笑いながら言ってくる。鈴木も田中もボス猿タイプの人間だが、我がままを暴力で突き通す鈴木と異なり、田中は自分より頭の弱い連中をコントロールするタイプなのだろう。こちらの感情を読み取ってきた。


 しかし、だからといって田中が頭が良いというわけではなく、どちらも自分より弱い相手を探すのが上手いということに変わりはなかった。どちらも社会病質者――つまりはサイコパスだ。


「そうだ、鈴木。あの話をしてやれよ。こいつ驚くぜ、きっと」


 この手の連中の武勇伝など聞いても何も面白くない。それでも酒とハッパと、そこに精神関係の薬までチャンポンしているものだから鈴木の話は止まらない。彼はその薄い唇を蛇が如く舐めて湿らせると、立て板に水を流すように喋りはじめた。


「俺さ、そんときさ、草を買いたかったんだけど、手持ちの金がなかったんだよ」


「へ、へえ」


「だけど、俺、銀行にも金が無くてさ。借りようにもさ、どこも


 鈴木は見たところ田中と同い年、自分よりは多く見積もっても2、3歳上ぐらいだろう。その年で焦げつくというのは相当だ。その債務もまともなところ相手かわからない。


「今は平気なんだけどさ、あのユーチューブでやってた個人再生とかなんとかいうやつ? あれをやってもらってさ」


 あたかも借金が消えてなくなったかのような口ぶりだが、個人再生はそのような都合の良い魔法ではない。今後5年から10年はブラックリストに入り、借入はできなくなるし、金だけではなく部屋を借りることも難しくなるかもしれない。早い話が自己破産の一歩手前の救済措置なのだ。それを平然とやってのけ、その後に起こる問題の想像ができていない――それだけで、何故か背筋に冷たいものを当てられているような感覚を覚えた。彼は自分の住む世界とは違う、まったく別の世界の住人であるという事実が付きつけられたのだ。


 昔、どこかで聞いた話だがサイコパスと呼ばれる人間は快楽に関する記憶は強く覚えるが、その前後の記憶やそれによって起こりえるトラブルなどの想像力が極端に弱いらしい。故に彼は金を借りて遊んだ記憶は強く残っているが、金を借りることによって起きたトラブルはすっぽり抜けているようだ。


「金はないけど、草は欲しいじゃん?」


 そう聞かれても困る。このあたりから何だか雲行きが怪しくなりはじめ、自然とどのようにしてここから脱するかを考えだしていた。


「女のところに行ってもだからさ」


「そうなんですか」


「近所の婆さんの家をわけよ」


話が急に飛んだ。脈絡もなければ、整合性もない。何故、金がないというところから近所のお婆さんの家を叩く――つまりは強盗しようという話になるのだろうか。皆目見当もつかない。それでも当たり前のことのように話を続けるのでぞっとする。周りにいる人間たちも、紫煙で頭が惚けているのか、何の疑問も持っていない。まるでマネキンの群れに囲まれているような、そんな人間性の欠如と非現実感に冷や汗が垂れた。


「そしたらさ、あんまりにも婆さんが騒ぐもんだからさ」


「騒ぐもんだから?」


「台所にあった包丁で刺しちゃった」


「刺しちゃった?」


「それが1年ぐらい前の話」


 そう言って鈴木は黄色い乱杭歯を見せて笑った――この話のオチは?


 ここまでも脈絡も整合性も無い話だったが、最後の最後に起承転結も無くなった。周りの人間たちは名人の噺でも聞いたかのように笑っているが、自分は何が面白いのかもわからずに頭が真っ白になっていた。


「すっげえだろ、こいつ人をって1年ぐらい逃げてんだぜ」


 田中がそう笑って肩を叩いてきたとき、急に現実へと引き戻された。オチだとか、話の整合性など気にしている場合ではない。今、自分の目の前にいるのは殺人事件を起こした逃亡犯なのだ。それも犯行の動機は一時の快楽のための金欲しさ――理性も人間性も欠如している。先のことを考えず、一度知ったハッパの恍惚とした感覚を再び味わうために人の命を奪い、危険な橋を平然と渡る。そんな人間が目の前にいる。


「こいつ面白えだろ? 良いやつだろ?」


 下品に笑う田中に、人間に似た人間ではない生き物を見つけたような不気味さを覚えたのは言うまでもない。


「ひ、人を殺したんだったら、良い人ではないんじゃないですかね。あはは」


 苦笑いで誤魔化しながら、頭の中で何度も田中の言っていたという言葉が反芻し、それを否定する言葉が自然に漏れた。


「あー」


 田中はきょとんとした顔をし、私はそれを見てまずいことを言ってしまったのではないかと思い身構えたが、彼は子供のような顔をして言った。


「そうだな、悪いやつだな。あはははは、こいつ悪いやつだわ」


 まるで他人事のように笑うものだから、自分もそれに合わせて笑うしかなかった。生き残るために、周りの人間もどきに合わせて笑うしかなかったのだ。それから私はひたすらに笑い、すべてを忘れるかのように明るく振る舞った。そうでもしないと目の前に殺人犯がいるという事実に押しつぶされそうだった。


「笑え、笑え、とにかく笑え」


 そう自分に言い聞かせて、その晩はやり過ごすしかなかった。


 それから数年後、鈴木は逮捕されたらしい。裁判の結果まではニュースでしか追っていないのでよくわからない。田中も気がついたら大学を辞めていたため、それからはつるむことは無くなっていた。


 二人とも今はどうしているのだろうか。それを知る由など私にはない。私の人生は悲劇でも、喜劇でも、アクション満載のドラマでもない。ジャンキーも、殺人犯もだけの平凡な人生だ。


 それでも、どこかすぐそばに理解し難い人間がいることは確かだし、彼とすれ違うことはこれからもあるだろう。

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