聖娼

灰崎千尋

いつかの夜

 うつ伏せになった彼の背中を、薄明かりがぼんやりと照らしていた。薄紅色のガラスに覆われたランタンの火は、その肌が未だ火照っているかのように見せる。寝息に合わせて上下する肩から艷やかな黒髪が長くうねり、それは渦巻く夜の海に似ていた。

 私は貝殻骨の影に指を沿わせ、そっと撫でた。しっとりと滑らかな肌に、彼の汗と香油の麝香じゃこうが混じり合い香る。と、てっきり眠っていたものと思っていた彼が、くすぐったそうにふふ、と身をよじった。


「起きていたのか」


 私が言うと、彼は顔だけをこちらに向けて悪戯いたずらっぽく笑った。


「寝たフリは得意なんだ。たまにとってもな人がいるから」




 神殿の一角に張られた天幕には乾いた夜風が通り抜けて、私たちの熱を冷ましていく。それを少し名残惜しいと感じる自分が、意外だった。

 彼は猫のように体を伸ばしてから、ゆったりと上体を起こした。それから座っている私の肩にもたれて、上目遣いに私を見る。


「あなた、異国の人だね。知らない色の瞳だ」


 私の青い瞳を、彼のはしばみ色の瞳が覗き込む。少し涙で腫れた彼の下瞼を撫でながら、私は尋ねた。


「異邦人がこの神殿で祈るのは、おかしいだろうか」


 すると彼は驚いたように固まったかと思うと、ぷっと吹き出した。


「やだ、僕をしっかり抱いた後にそんなこと言うわけ?」


 彼はけらけらと楽しそうに笑った。つい先ほどまでの艶めかしさとはちぐはぐなそのほがらかさに、思わず私はたじろいだ。

 ひとしきり笑った彼は、「ごめんなさい、茶化すつもりは無かったんだけど」と、謝罪の印なのか私の頬に口付けた。


「おかしくなんかないよ。この神殿は広く旅人にだって開かれている。あなたの祈りが聞き届けられたから、神託に従って僕と交わった。そういうことでしょう」


 彼はそう言って、私の額にそっと手を当てた。まるで迷い子を慰めるかのように。






 私は或る男を探して旅をしている。僅かな手がかりを辿ってこの国まで来たは良いが、その先の足取りが掴めないでいた。手当たり次第に聞き込みをしているうちに、「そんなことなら神託でも聞いてこい。気分転換にもなるだろう」と紹介されたのが、この神殿だった。

 しるべと勝利を司る神へ、藁にもすがる思いで祈りを捧げ、残り少ない路銀から喜捨した。すると神託官が祭壇からこう告げたのだ。


「今宵、南西に待つ神の子のもとへ行け。さすればお前の求める力が与えられよう」


 他に当てもない私は言われるがままこの天幕を訪れると、整えられた寝台と彼に出迎えられたのだ。

 彼は、神に仕える男娼だった。この地の神は、彼のような聖娼と交わった者にその力を授けるのだという。

 娼婦を買ったことも無ければ男と交わったことも無く戸惑う私を、彼は慣れた様子で導いた。年若い彼の肢体はしなやかで、瑞々しく、淫らだった。彼こそが神の祝福であると、異邦人の私にも理解できてしまうほどに。私たちの交わりの果ては、神へ通じるであろうと信じられるほどに。

 そうして私たちは、無事その儀式を終えたのだった。




「眠れないの?」


 彼の手のひらが私の頬をそっと包んだ。伸びた髭がその柔らかい肌を刺すのも構わず、ぴったりと寄り添う。


「いや、久しぶりによく眠れそうだと思っていたところだ」

「本当? 良かった!」


 彼は嬉しそうに顔をほころばせた。それから何かを思いついたようにいそいそと膝を折って座り直し、脱いで放ってあった彼の腰布をその上に敷いた。


「じゃあついでに、寝かしつけてあげる」

「まるで子供扱いだな」

「いいから、いいから、ほら」


 腕を引かれ、半ば強引に彼の膝へ頭を乗せられた。薄布越しに、張りのある腿の温もりが伝わってくる。私は苦笑と共にほっと息を吐いた。


「子守唄と寝物語はどっちがお好き?」


 そう尋ねられた私は、うきうきとした彼の顔を見上げながら無意識に答えていた。


「君の話を聞きたい」


 彼は切れ長の目を見開いて瞬くと、「仕方ないなぁ」と私の頭を撫でながら話し始めた。




「ありきたりな話だから、まぁ寝物語にはちょうどいいかもね。

 僕は貧民街スラムの家に生まれてさ、家族仲は結構良かったんだけど……ほら、貧民街の男ってのは大抵、酒癖が悪いでしょう。或る日、父さんがなかなか帰ってこないと思ったら、酔っぱらって殴り合いの喧嘩した結果、相打ち。父さんと知らない男の死体が道端に転がっていたってわけ。

 母さんは織物の内職を増やしたけど、体が弱くて無理できないし、家族全員を養うには足りなかった。下のきょうだいはまだ小さくて、僕が働くしかない。でもその頃の僕ができる仕事なんてほとんど小遣い稼ぎにしかならなかった。そんなとき、この仕事の噂を聞いたんだ。

 娼館より稼ぎは少ないけど、神様の目があるから酷いことはされにくいし、何より家族の面倒までみてくれるって。神官の審査に通ればそれが叶う。それなら、ってことで僕はこっそり神殿に来た。結果はまぁ、この通り。事後報告したら母さんには泣かれちゃったけど、これが一番良い方法なんだって、最後にはわかってくれた。

 それにね、僕の体で誰かの願いが叶うって、とても素敵なことだと思わない?」




 そこまで聞いた私は、いったいどんな顔をしていたのか。彼は私を見下ろすと、「やだ、そんな顔しないでよ」と笑って、私の目を手で覆った。


「駄目だよ、娼夫の身の上話を本気にしちゃあ」


 柔らかな声音で、彼が耳元で囁いた。彼の長い髪が一すじ、さらさらと私の首元を撫でて去っていった。


「まぁ僕らの場合、誰とかは神託次第なんだけどね」


 おどけるように言って、彼は私の顔の上から手を退けた。私をのぞき込む目がすうっと細められる。


「やっぱりあなたの瞳、好きだな。夜明け前の空の色。でも今は暗く沈んでしまっているのが残念」

「君にはそう見えるのか」

「うん。さっきときは少しマシだったけど」

「……からかわないでくれ」

「本当なのに」


 クスクスと笑っていた彼が、ふと真面目な顔になる。


「ねぇ、あなたの願いが叶ったなら、その瞳に光が戻る?」

「……ああ、きっと」


 私たちは唇を重ねた。ついばむような接吻を繰り返しながら、私はゆっくりと起き上がり、彼の肩を抱いた。彼もまた私の胸に寄り添い、私たちの汗が、体温が、鼓動がじんわりと溶け合う。ずっと前からそうすることが決まっていたかのように感じるのは、彼の力なのか、この地の神がそうさせたのか。

 しばらく二人でそうして抱き合っていたが、ふいに彼が口を開いた。


「僕の秘密、教えてあげる」

「秘密?」

「うん。僕ね、僕と寝て願いを叶えた人のことを、夢に見ることがあるんだ。願いが叶ったお礼に来た人と答え合わせしたこともあるから、妄想なんかじゃないよ。だからね、」


 彼は私の腰に腕を回して、ぎゅうと強く抱きしめた。


「だから僕、あなたの夢が見られるように祈っているよ」

「……私の願いを知らないのに?」

「知らないから。あなたのことを知りたい。それでは駄目?」


 私は少し悩んだが、「いいや」と首を横に振った。


「それが君の願いなら。君の助けを得たのだから、私たちの願いはきっと叶う」


 私たちはもう一度だけ接吻した。それが別れの口付けであることを、彼もきっとわかっていただろうと思う。

 私たちは寝台に横になって、互いの瞳の色を刻み付けるように見つめ合いながら、やがて眠りに落ちた。

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