飾る爪はない

 カチカチと音が鳴る。それがこの空間にいる他人の爪が弾く音だと気づくと、彼は眉をしかめた。読んでいた本から顔を上げて、その音の持ち主の方へ視線を向ける。その人は机に乗せた小さな機械に釘付けで、彼に気付くそぶりはない。

「なあ」

「……」

「なあ」

 声をかけても一切意識を向けてこないその人に彼の声に苛立ちが含まれる。

「菜摘」

「えっ、あれ、呼んだ?」

 名前を呼ばれたその人は耳栓につながる糸をひっかけて、片方の耳を解放した。そして、たった今気づきましたというような顔で彼の方を見た。

 それとともに先ほどの弾く音も収まり、彼のいらだちは急激に冷えた。

「爪、やめろよ」

「あ、ごめん。無意識だった」

 彼の言葉で菜摘は自身の爪を見た。彼は今まで読んでいた本に栞を挟んで、ソファから立ち上がり、菜摘に近づいた。

「見せて」

 彼の声掛けに菜摘は頷いた。机に立てかけていたスマホをタップし、その中の時間を止める。花束を片手で振り回す男性の動きが止まった。そのスマホにつながったイヤホンをもう片方の耳からも取って、机の上に適当に置いた。

 菜摘が彼に手を遠慮がちに差し出す。彼は菜摘の手を取る。

 お世辞にも綺麗な爪とは言えなかった。

「また……」

「ごめんね、どうにも癖になっちゃったみたいで」

 菜摘は申し訳なさそうにしつつも、反省をしているようには彼には思えなかった。

 菜摘の爪へと視線を落とす。深爪と言うのもおこがましいくらいにむしり取られたようにガタガタな爪。爪先は強度が増す前に何度も削られてしまったせいか、彼の爪と比べると固さが感じられない。爪先の白い部分はある方がマシなもので、あったとしても普通ならピンク色の部分だ。

「やめろって、言ってるじゃん」

「うん、ごめんね」

 そう言ってやめる気なんてないんだろ。

 吐き出しそうになる言葉は溜息に変えた。人のよさそうな顔をしておいて、一番近くにいる彼の言うことは聞く気がないのだ。

 爪を爪切りを使わずに自身の爪同士をぶつけて削るのは、ストレスからだと彼も知っていた。それでも、今の菜摘にはそこまで強いストレスはかかっていないはずだ。本人のいうとおり、癖になってしまったのだろう。

「兄貴がいるときは、綺麗にしてたのに」

 彼の言葉に菜摘の手がピクリと彼の手の中で動いた。菜摘の爪から顔を上げて、彼女を見下ろす。口を一文字に結んで、どこか顔色が青く見える。

「……、でも、今はいないでしょ」

 水滴のように落ちた言葉を彼は拾わなかった。

(俺じゃ、……)

 ダメか。

 兄のようにこの人の抑止力になれない自分が恨めしかった。

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貯水湖の底 ヒロ田 @__Kuu_

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