第47話

 駅につくと、美空は走って苦しくなった息を整える。言われた時間には間に合わなくて、時計の針は十時を過ぎていた。


 寒い中を全速力で走ったせいで、肺が引きちぎれるかのように痛い。寒くて手足の先は凍えているのに、血液が流れて身体がポカポカしていた。


 美空はやっと息を整え終わると、辺りを見回した。日曜日で人通りは多く、あちこちに大勢の人影が見える。しかし、そこに、美空の目的の人物らしき人影はいない。


 そこからは早歩きになりながら、公園へと向かった。美空が遅くなる時、必ず夕は美空の最寄り駅まで送り届けてくれて、たまに公園で話をした。それが、今向かっている公園だ。


 鮮烈な思い出と共に、いつもおしゃべりをしていた屋根のあるベンチへと向かう。そこにぽつんと一人座っている人影を見て、美空は全身が震えた。


「嘘……本当に……?」


 公園には人が少なかったので、美空のつぶやきは案外遠くまで聞こえたようだ。美空の声に気がついた人影が、ベンチに腰を下ろして遠くを見ていた視線をこちらへと向けた。


 冷たい風にさらさらの髪の毛を揺らしながら、美空の思い出の中の人である葵田夕あおいだゆうはゆっくりと振り返った。


 硝子のように美しい漆黒の瞳を向けて、にこりと笑って立ち上がると、美空の前へとゆっくり歩いてくる。美空はその場から動けなくて、そのまま固まってしまった。足が震え、手が震え、全身が気がついたときには震えていた。


 視界がにじんで、意図していないのに頬に温かいものが流れ落ち、木枯らしに吹かれて冷たく頬を濡らした。


 夕はあの時と変わらないまま、少し大人びた表情でそこに立ち、そして美空の涙を温かい手でぬぐった。


「先輩、どうして……」


「美空くん、逢いたかった」


 そのまま抱きしめられると、あの青春の日々が、脳内に色濃く焼き付けられたあの時が、鮮明に思い出される。


 あの時と同じ温もりで、あの時と同じ体温で、夕は美空を強く強く、抱きしめた――。


 *


 泣きじゃくる美空を抱きしめながら、ベンチに腰かけて夕はずっと抱き寄せて美空の頭を撫でていた。ものすごく寒かったのに、夕にくっついていると、その懐かしい匂いに包まれていると、不思議と安心してくる。


 目がはれぼったくなるまで泣いてから、ようやく美空の涙は止まる。しかし、気が緩むとすぐに視界が滲んだ。美空は、夕の手を握って落ち着いて呼吸を繰り返す。くっついたまま、このまま溶けてしまってもいいとさえ思えた。


 夕に触れて、ぬくもりを感じて、そして美空は彼の頬に手を伸ばした。冬の外気に当てられて頬は冷え切っていたけれども、美空の手のひらには、確実に夕の温もりが伝わってきていた。


 真っ白くて陶器のような肌、虹彩まで黒い瞳。細い線はそのままに、少年から青年へと成長していた。夢でも幻でもなく、その人物は間違いなく葵田夕だった。


「……夢じゃないんだ」


「美空くん、僕は君と一緒に居たくて……神様にはなれなかった」


 美空が夕を見つめると、いとおしそうに漆黒の瞳が細められた。ふわりと、風に前髪が揺れる。屋上で初めて夕と出会った日を、ふと思いだした。あの日も、夕は美しくて、まるで天使のようだった。


「神様だなんて、嘘をついてごめんね。僕は、ただの臆病な人間なんだ」


「そんな」


「美空くん、逢いたかった」


 夕に言われると、止まっていた美空の涙がまたもや流れ出す。そんな美空を見て、夕は思い切り困った笑顔になって、ぎゅっと美空を抱きしめた。


 その後に夕がぽつりぽつりと話し始め、美空は彼の鼓動を聞きながら、相槌を打った。 難病だったこと、ドナーが見つかって急きょ遠いところで手術したこと、しかし適合しなくてずっと意識がなかったこと。


 それだけではなく、合併症を併発して治療が難航したこと。目が覚めてからはリハビリと療養が必要だったこと。


 それからしばらく入退院を繰り返す生活をし、やっと自宅に帰ってきたのは、つい最近だったこと。


 この長い長い三年半を、夕はかいつまんで美空に話した。最後がほんの少し掠れる独特の声。心地よいその音を懐かしく思いながら、美空は離れたくなくてぎゅっとしがみ付いていた。


「美空くんに、僕はたくさん謝らなければいけないことがあるね」


 握った夕の手は温かい。あの冷たかった手が嘘のように、今は人としての温もりを宿していた。


 長い長い闘病生活だったが、その多くを寝て過ごしていたという。美空が苦しんでいる時に、意識が無かったことを夕は謝った。


「僕が神様だって嘘をついていたことはもちろん、それから……お別れも言わなかったこと。本当は、君は僕のことを恨んで殴ってもいいくらいなんだ。あんな悲しい思いをさせているなんて……僕はただ、美空くんに笑顔でいてもらいたかっただけなのに」


 それに美空は首を横へ振った。


「先輩がいたから私は死ななかったし、生き延びることができました。今でも、先輩は私の神様です」


 そうつぶやくと、夕は目を見開いた後に困ったように笑った。そこには、あの青春の日々を一緒に過ごした時と同じ、あどけなさが残っていた。

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