第36話

 この道をいったい何度、夕と一緒に歩いただろうか。冷たい手から伝わる、温かい温もりを何度感じて安心しただろうか。


 たくさん話をして、たくさん思い出をつくったのが蘇って、美空は立ち止まると、痛み始めた心臓を抑え込んだ。心の痛みは、本当に心臓をえぐるような痛みとして感じられるほどになっていた。


 深呼吸を繰り返しながら、冬の冷たい空気で肺をクールダウンさせる。冷たい風に身体と顔を冷やすように、マフラーをずらして外気を浴びた。


 雪はみぞれに近いのか、アスファルトに落ちてすぐ消える。だが、歩かない場所では、うっすらと白くなっている。車の轍の跡が分かるくらいには、雪は降り積もっているようだった。


 立ち止まって行きを整えていると、ふと声が聞こえてきた。美空は思わず、振り返ってしまった。


「あれ、葵田くんの彼女じゃない?」


 後ろから声をかけてきたのは、いつの日にか夕と一緒にいた佐野というきれいな先輩だった。美空の顔を見て、眉をひそめる。


「ちょっと、大丈夫?」


「はい……」


「大丈夫じゃないわね、あなた。こっち来て」


 佐野先輩は大きなため息を吐いた。先輩に連れられて、公園のベンチに強制的に連行されると、佐野は自販機で温かい飲み物を買ってきて美空へと手渡した。


「はい。これ飲める? あったかくて落ち着くよ?」


 言われて美空はお礼と共に冷え切っていた手でそれを掴むと、火傷をするくらいに熱く感じられて落としそうになる。大慌てで掴み直して、やっとその温かさが心地よいものであると認識できた。


 午前中からずっと寒い部屋で動かず、そして今も冷え切った外で立ち止まっていたせいで、美空の身体は冷たくなっていた。ちょっとの熱でも熱く感じるほど、芯まですっかりと凍ってしまっている。


「ほら、冷めちゃうからまず一口飲んで」


「あ、りがとうございます……」


 言われて美空はお礼と共に口を開けて、一口飲んだ。気がついていなかったのだが、喉はからからに乾いていて、温かい飲み物が体中にしみわたった。あたたかい飲物が食道を通過し、お腹の中に入って行くのさえ分かる。


 美空はそれを感じ取りながら、物凄く不思議な気分になっていた。


「落ち着いた?」


 尋ねられて、美空はゆっくりとうなずいた。あともう数口くらい飲みなよと言われて、美空は遠慮もなくガブガブと飲んだ。思った以上に、水分が身体から消えていたようだった。


 落ち着いてきた美空を見ながら、佐野がやっと落ち着いたようにうんうんとうなずきながら、美空を見ていた。


「ねえ、彼女ちゃんはさ、葵田くんのこと、もしかして知らなかった?」


 いきなり図星をつかれて、美空は引っこんでいた涙がもう一度出てきそうになった。うなずくと、佐野はぽつりと「辛かったね」と美空の気持ちを理解してくれた。


「いきなりだったもんね」


 言われてぽつぽつとかいつまんで美空が冬休みのことと、今朝生徒会室で渡された手紙のことを話すと、佐野は大きくため息を吐いて、美空に向き直る。


「私たちは終業式の後に、帰る瞬間に言われたの。そして、誰にも言わないでって、口止めされた。てっきり彼女ちゃんは知っていると思ったんだけど……残酷なことしてくれるわよね」


 佐野はそう言って自分用に購入していた温かい紅茶を一口飲むと、遠くを見つめた。その瞳にはきっと、在りし日の夕が映し出されているのだろうと美空は思った。


 美空の耳にも、夕の声は残っている。この声も、あのぬくもりも匂いも、忘れたくない。だから、何度も反芻する。それさえも忘れてしまったら、夕が本当にこの世から消えてしまうような気がした。


「お別れを言う隙間もくれないなんてね。お別れを言いたくないっていうわがままな奴だったんだよね、自己中だよね、勝手だよね、葵田くん」


 佐野先輩が、湯気の出る紅茶を見つめながら、悔しそうに言葉を紡いだ。それは美空に言っているようでいて、本当は佐野自身に言い聞かせているようなものだった。


「きれいごとばっか好きで、正しさばかり振りかざして、人の風上にもおけないよね……でも、そんな奴なのに、魅力的でさ……参っちゃうよね」


 佐野は恨みと憎しみのこもった言葉を紡いで、美空の肩を叩いた。そのあまりの力強さに、美空は肩を震わせて佐野を見つめた。そこには、泣きたいのに泣くことさえできず、想いの行先を失った人の顔があった。


 美空はその表情を見て、苦しさが込み上げてきた。


「私はクラスが三年間一緒だったけど、葵田くんがわがままを言ったところを、一度も見たことがない」


 それに美空はただただ、うなずくことしかできなかった。佐野の瞳は、ぎゅっと美空を掴んで離さなかった。


「葵田くんの最後のわがままなんだったら、聞いてあげましょう。それしか、できないんだもの」


 辛いかもしれないけれど、と佐野は唇を引き結んだ。辛いのは、佐野も一緒なのだと、美空はきれいなその横顔を見てから、冷めつつある飲物を見つめた。


 佐野はぎゅっと結んでいた唇を開けると、息を大きく吐いた。


「彼女ちゃんの前では、最後まで絶対的な葵田夕でいたかったのよ。お別れをあなたの口から聞いて、彼自身でいられなくなることを恐れたんじゃないかな」


 お別れを言われたくなかったと、夕の手紙には書いてあった。美空がお別れを言ったくらいで、夕の何かが変わるとは美空には思えなかったが、夕にとっては違ったのだ。美空には、美空にだけは言われたくなかったのだ。


「わがままで酷い男だけど、好きなら彼の弱さを、受け入れなくちゃね。私も、あなたも」


 何かあったらまた話聞くからねと佐野はほほ笑んで、駅まで一緒についてきて、美空を最後まで見送った。ぎゅっと握られた佐野の手は、冷えていたけれども夕の手よりもずっと温かかった。


 美空は今はただ泣きながら、その手を握り返すことしかできなかった。

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