第三章

第34話

 夕がとつじょ全員の前から消えたのは、美空の寿命がもうすぐ終わるという直前の話だ。それは、何の前触れもなく訪れた、世界で一番美空の心をえぐった出来事だった。


 文化祭が終わり、あっという間に寒くなり、手袋をした手を繋いで歩いて帰り、多くのお願いを叶えた。三ヶ月しかなかった寿命を、美空はとても惜しんだ。こんなに世界が美しく、優しさに溢れ、楽しいものだと教えてくれた夕には、日々感謝しかなかった。


 寿命が尽きる瞬間が迫ってきているのに、美空の心は満たされ続けていた。そんな矢先、クリスマスを一緒に過ごしたいという願いをノートに書いたのに、夕の姿が突然消えたのだった。


 本当に、突然の出来事だった。だから、美空は狐に化かされたような気持ちになっていた。どうして、夕が消えたのかが理解できなかった。


 きっとまたいつものように、目の前に現れてほほ笑みかけてくれる。そう思いながら、連絡のない携帯電話を眺める日々が続いた。しかし、そんな美空の期待を裏切り、夕は現れなかった。


 もしかしたら、連絡ができなくなっただけかもしれない。きっとそうだと信じて美空は、クリスマスの予定を聞いていた。返事のないまま前日になり、当日になった。


 美空は夕と一緒に映画に行きたかった。だから、チケットを買って、待ち合わせの駅前に十時に到着して、夕が来るのを待った。そして、そのまま十八時になっても、夕は来なかった。


 空を見上げれば、ホワイトクリスマスには程遠い晴れた空だった。凍えて手足の感覚はとっくになくなっていた。マフラーにうずめた鼻先まで痛くて、でもそれよりも夕と連絡が取れないことの方が美空の心を痛めた。


 ついこの間まで、連絡が取れていたのに。何かの手違いか嘘に違いない。結局その日は、使わなかった映画のチケットを二枚持ち帰り、魔法のノートに挟んだ。


 身体の芯から冷えてしまった美空は、翌日に熱を出してしばらく寝込んだ。高熱に意識がもうろうとする中で、夕の姿が、声が、ずっと美空に寄り添っているかのような感覚になっていた。


 目を開けたら、あの優しい笑顔がのぞき込んでくれているに違いない。真っ黒でいたずらっぽい目が、美空を見つめているはずだ。


 しかし、熱が下がってもうお正月の前日だというのに、音沙汰は無かった。そして初めて、魔法のノートに書いた願いが叶わないまま、夕との連絡が途絶えたまま、年が明けた。


 年が明けると、美空は夕に何通もメールをして、何十回と電話をしたが、それが繋がることも、メッセージが読まれて既読になることもなかった。


 もう寿命が尽きるという時に、夕の姿が見えないことの方が不安で、毎晩泣きじゃくって過ごした。もしかしたら、もう寿命が尽きるから夕は去ったのかもしれないと思ってみたものの、夜になると不安がどっと押し寄せて来ては美空の睡眠を邪魔した。


 そのあとに一泊二日で家族旅行をした。それは本当に久々の家族旅行で、美空は家族で出かける楽しさやちょっとだけこそばゆい気持ちを感じつつ、楽しい時間を過ごすことができた。


 こうして家族と仲良くなったのも、楽しく過ごせるのも、全ては夕のおかげだ。だから、旅行から戻って美空が一番にしたことは、夕に電話をすることだった。しかし、何度電話をかけても、夕の声がその機会の向こう側から聞こえてくることは無かった。


 美空は気が狂いそうになっていた。夕と連絡が途絶えたことは、美空にとって暗黒の時代が到来したことのようだった。


 希望も夢も、何もかもがはらはらと崩れ去って行くような気持ちだった。砂の城が波に崩れるのと同じように、まるで一瞬の夢だったのかと思った。


「どうして、先輩……」


 あまりにも突然すぎる予期せぬ別れに、身が裂けるようだった。いや、裂けてもおかしくなかった。家族には感づかれたくなかったので、美空は平静を装った。寿命が終わることは、夕と美空だけの秘密だから。美空は約束をずっと守っていた。


 宿題をやっている時も、家族とテレビを見ている時も、携帯電話が少しでも震えればすぐに飛びついた。しかし、そのどれもが美空の一番望んだ人からのものではなかった。


 こんなに早く、休みが終わることを望んだことはない。たった一週間と少しの休みなのに、美空にとってそれは永遠に続く地獄のように感じられた。夕とは結局、学校が始まるまで連絡を取ることができなかった。


 我慢の限界に達していて、学校が始まるとすぐに、夕の姿を探しに生徒会室へと駆け出した。一番早い電車に乗って、誰よりも早く登校して、生徒会室へと向かった美空を待ち受けていたのは、衝撃的な一言だった。


「え、葵田会長なら、留学したって……」


 早朝の生徒会室にすでにいた副会長が、美空の疲弊した姿を見て驚いた顔をした。美空は駆け出してきたために跳ね上がった息を整えながら、副会長を怪訝な顔をして見つめ返した。


 文化祭の時に、夕とともに生徒会の腕章をつけて校舎の中を回っていたので、副会長の顔走っていた。初めてしゃべったのにもかかわらず、副会長の顔や声や仕草の全てが一瞬にして美空の記憶に刻まれた。


 夕がとつじょ留学したという内容が、衝撃的すぎて美空は頭が真っ白になった。


「留学、ですか?」


 美空は訳が分からなくて、目をぎゅっとつぶってから、教室の中をじっと見つめた。その視線は、どこにも固定されておらず、何も見えていない。頭の中で留学という言葉と夕とが結びつかず、混乱して脚が震えた。


 そんな美空の様子を見て、副会長は心配そうに眉根を寄せた。


「うん、アメリカに行くって。急きょ決まったって言ってたよ」


「急きょ、決まった?」


 意味を理解するのに頭が働かず、言われたことをオウム返しにする。それでも、頭に何も入ってこない。


「葵田会長の、彼女だよね?」


「――はい」


「君が来たら渡してほしいって言ってた手紙があったけど……ここの椅子に座って読んで行っていいよ。俺はもう行くから、電気だけ消しておいてくれる?」


 美空の必死な顔を見て気を遣ったのか、副会長は生徒会長の机の引き出しから一通の手紙を取り出すと、そのまま部屋を去った。


 美空の顔や雰囲気には、見ていられないものがあったのだろう。生徒会室の扉を閉める直前、保健室に行く?と心配そうにした。


 それに美空は丁寧にお礼を言って断る。


「わかった。その……ゆっくりして行っていいよ」


 どうせ始業式だけだし、この後は誰も使わないからと言い残して、副会長はゆっくりと扉を閉めた。そんな彼にお辞儀をして、扉が閉まる音を聞いた。とつぜん、誰もいなくなった生徒会室はしんと静まり返る。


 耳に痛いほどの沈黙を感じながら、美空はとぼとぼと会長の椅子に座って、渡された白い封筒を見つめた。


 そこにはまぎれもなく夕の字で「美空くんへ」と書かれていた。


 その文字を見るだけで、視界が不明瞭になってきた。ガタガタと指先が震えるのは、雪が降っていて寒いせいではない。歯の根が合わないのをぎゅっと奥歯を噛みしめて黙らせると、美空は近くにあったカッターでそっと糊付けされた封を切る。



〈 美空くんへ


 急にいなくなってしまって、ごめんね。

 僕は、遠いところへと行かなければならなくなってしまった。

 みんなには、留学って言ってあるけど

 本当は、ものすごく遠いところへ行かなくちゃなんだ。

 電波も届かない、声も届かないところだよ。


 君にお別れを言いたくなかったから

 君にお別れを言われたくなかったから

 言わないままで行くよ。

 わがままを許してほしい。

 僕の最後のわがままだから。

 悲しいけれど、僕と一緒にいてくれてありがとう。

 ミサンガ、大事にするよ。

 本当にありがとう。


 それから、君の寿命は、延びたんだ。

 僕が他の神様に掛け合ったらね

 普通の人と同じ寿命にしてくれるって。

 あと何年生きられるかは秘密だけど

 すごく安心したよ。

 美空くんも、ほっとしたでしょ?


 もう、僕がいなくても君は一人でも大丈夫だから

 人生をたくさん謳歌してほしい。

 僕につき合ってくれてありがとう。

 心から感謝しているよ。


 二度と会えないかもしれないけれど

 最後にこれだけ伝えたい。


 僕は、君だけの神様だ。

 永遠に、これからも。   〉



 美空は読み終わって、椅子の後ろにあるソファに腰かけた。しかし、力が入らずに、その場に身体を倒した。


「なんでっ……!」


 こらえきれずにあふれ出た嗚咽を嘲笑うかのように、何も変わらない日常の始業を告げる残酷なチャイムが鳴った。夕が消えた世界が、始まるのだ。

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