第6話
翌日の朝に屋上でノートを見せると、神様だと言った生徒会長の葵田夕はとてもうれしそうに美空の文字を目で追った。美空は昨晩、ワクワクして到底寝付けなかった。
いつの間にか今日になっていた深夜にお願いを書いて、早く寝なくてはと思って電気を消して布団に入ったのに、そのまま寝付けずに何度も寝返りを打った。寝不足になるかと思ったのだが、今朝はすっかりと気持ちよく起きられた。
これも、魔法のノートをもらったおかげかもしれない。
何度も何度も、昼間に起きた奇跡を頭の中で反芻し、夕の美しい瞳を、儚げな姿を意識がある間中、反芻した。幻かもしれないと思って、ノートを何度確認したか分からない。目を開けたら、消えてしまっているかもしれないと思って、結局枕元に置いて寝た。
朝起きても、ノートは消えていなかった。まやかしでも、幻でもなかったのだ。朝起きる度に泥のように重たかった手足が、油をさしたブリキのようにスムーズに動いた。食べる気力の落ちていた朝食もすっかりと食べることができ、鏡を見れば暗い影を落としていた顔は、若干、色を取り戻していた。
美空は、登校する前に昨日書いたお願いをきちんと確認する。それが果たして、お願いとして正解かどうかは分からなくとも、夕と一緒に叶えることにワクワクした。学校が近づくにつれて、胸の高鳴りは最高潮に近くなる。
そして、屋上について、神様が待っていた時には、美空は駆け出すかのようにして夕へと近づいたのだ。
「うん、いいね。じゃあ叶えて行こうか」
お願いを書いたノートを見せて、なんと言われるか勘ぐっていた自分が愚かだと瞬時に理解するほど、夕は美空の叶えたいお願いを素直に褒めた。
「えっと、こんなお願いでいいんですか?」
「なんで? 素敵じゃない?」
美空は、本当は鼻で笑われるかもしれないと思っていた。びっくりするほどに、自分自身ではなく、自分がやりたいことにさえ自信がないことを思い知る。
自身がない自分が悔しくて、願いを書いたノートに視線を落とした。そこにはたった一言、なんともないと思えるような願いが書かれていた。
〈授業をさぼってみたい〉
一ページ目に書いたそれは、お願いと呼ぶにはあまりにもちっぽけに感じていた。しかし、楽しかったと思える経験や思い出と言われて、美空が真っ先に思いついたのはそれだった。
夜中まで迷ったのにも関わらず、結局書きたいと、叶えたいと思ったのはそれだったのだ。
「ちなみに、このお願いにした理由を聞いてもいい?」
「私……小学校からずっと、無遅刻無欠席なんです。どんなに具合が悪くても、内申書に書いてあると評価が良くなるからって、熱があっても学校に来ていました」
美空はどんなに苦しくても、お腹が痛くても、頭が痛くても、親に学校へ行くように言われていた。無遅刻無欠席こそが、両親の望む模範的な生徒だからだ。
そしてそれは先生にとても評判がよかった。生徒たちの間では、無理に来て先生たちの評判をあげているだけだ、という人もいたけれども、美空は休みたくなくて休まないわけではなかった。
両親の希望に応えなくてはいけない。先生の望む良い生徒でいなくてはならない。そうすれば自分は認められている。そう思っていたから、美空は今までさぼるということをしなかったのだ。
昨日学校さぼっちゃった、と話す生徒がいる度に、その度に羨ましいとずっと思っていた。さぼるという言葉を聞くたびに、唇を引き結んでいたのだから。
「今まで、学校を休んだことありません。でも、みんなたまには学校さぼって出かけているの知ってて……」
授業をさぼるなど、悪いことであるとは知っている。しかし、そんなちょっとの悪いことさえ経験死なないまま死んでしまうなんて、後悔するに決まっていた。
そんなの一人でできるお願いだと言われようが、今までして来なかった美空としては、一人では叶えることができないお願いなのだ。たったそれだけのことを踏み出すのにも、大きな一歩だ。
いつの間にか、美空はだいぶ臆病になっていたのだ。そして、自分を押し殺してしまうようになっていた。
「美空くん、じゃあ今からさっそくさぼろう」
「……え? 今からですか?」
そうだよ、と夕は余裕で笑った。
「時間は有限だよ。今行かなかったら、君の気持ちは明日には萎えてしまうんじゃない?」
図星を言われて、美空は黙った。そんな美空の手を引っ張って夕は立たせると、あっという間に屋上から引っ張り出して学校の裏門まで来た。幸か不幸か、二人とも鞄は持ったままで、上履きにも履き替えていない。
今から学校を出て行くには、十分な装備だった。
「先輩、私まだ心の準備が」
「美空くんの心の準備を待っていたら、冬になっちゃうよ?」
夕に鮮やかに笑われて、確かにそうだ、と美空は口を引き結んだ。美空の小さな決心は、先生に声をかけられでもしたらぐしゃっと潰れる。それを分かっていて、夕は向かってくる生徒たちと逆方向へ向かいながら、校舎の裏手にある門へとやってきた。
「じゃあ、今から学校をさぼるよ。いい?」
「待ってください。すごく、怖いです……。先輩は、休んじゃってもいいんですか?」
引っ張られた手を、引っ張り返した。夕を押しとどめようと、美空は息を吐く。目の前には、余裕な顔をした神様がいる。美空は、心臓がドキドキと鳴りやまない。
「僕を誰だと思っているの? 僕は、この学校の生徒会長だよ?」
そのあまりにも自信たっぷりの笑顔に押されて、美空は気が緩んだ。それと同時に、ぐいっと引っ張られて校門を抜ける。何ともあっけなく、それはただの校門であって、何かの拘束が働くわけではなかった。
それは、ただの鉄の轍だった。踏み越えれば、道路のアスファルトが続いている。たったそれだけのことなのに、美空は弾かれたように夕を見つめていた。
胸が張り裂けそうになって、美空は声が出せないまま歩く。夕の手は相変わらず冷たくて、美空の熱っぽさを奪っていく。二人で歩いて駅に向かう道すがら、後ろから追いかけてくるようにチャイムが鳴った。
美空は後ろを振り返る。生まれて初めて、学校を休んだ。それも、無断で。そのドキドキと罪悪感と高揚感で、胸の鼓動が鳴りやまない。
「美空くん、どこへ行きたい?」
夕が美空の手を今一度ぎゅっと握る。まだ暑いのに、冷たい夕の手の温度は非現実世界へと誘われているかのような錯覚に陥る。それは、まるで魔法をかけられたかのような瞬間だった。
「どこって、言われても……学校をさぼったことがないので」
さぼるという願いは叶ってしまった。その先を、美空は考えてさえいなかった。そんな美空を見つめて、夕はにっこりと笑った。
「じゃあさ、海に行こうよこのまま。校門をくぐって予鈴のチャイムを外で聞いただけじゃ、さぼったにならないよ。徹底的に、さぼらなくっちゃ」
それに美空はうなずいて、駅まで二人で向かうと、学校に体調が悪いから帰宅する旨を電話で伝える。その瞬間が一番緊張し、そして通話ボタンを切る手が震えたのを、夕が優しく握り返した。
「先輩、私、生まれて初めて……やりたいことやっています」
海まで行ける電車に飛び乗った。今まで学校を休まなかったのが嘘のように、それは一歩踏み出してしまえばワクワクとした現実になる。
海まで一時間。揺られて景色を眺めながら、気持ちが満たされて行くのを美空は感じていた。電車の枕木を踏む音が、美空の心臓の音と重なっていた。
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