第5話

「やあ、待っていたよ――美空くん」


 さわやかな笑顔と共に屋上で美空を迎え入れた夕は、にこにこしながら柵の手前に胡坐をかいて座っていた。読んでいた本をぱたんと閉じると、美空を手招きする。


 ずいぶんと風が強いのだが、不思議と不快ではなかった。美空は風に巻きあがる髪の毛を押さえつけながら、夕の近くへと向かった。


「はい、これ」


 美空が夕の前におずおずと座ると、夕は一冊のB5サイズのノートを渡した。受け取ってからわけがわからないでいると、中を見るように言われる。


 パラパラとめくれば、まだ何も書かれていないまっさらなノートだ。それも、罫線などが何もない、ただただ真っ白な画面が続く。どうしてこれを渡されたのかが理解できず、美空は思わず夕を見つめた。


「何ですか、これ」


「お願いを叶える、魔法のノート」


 夕はさも当たり前だとでも言うように、まるで菓子パンを渡す気軽さでつぶやいた。


「魔法のノート?」


 そう、と夕はうなずいた。


「君がここに書いたお願いは、全て叶えられる。でもね、自分が本当にしたいことじゃなきゃ、叶えられない」


 夕は何の変哲もないノートを指さしながら、美空に説明を始めた。


「……したいこと……?」


「自分がやりたくてもできなかったことをここに書いて、僕と一緒にそれを叶えるんだ」


「先輩と、一緒に?」


 そうだよ、と夕はうなずいて小指を立てる。


「さっき約束、したでしょ?」


 美空は午前中に、この屋上で夕と約束したことを思い出した。混乱していたが、言いくるめられるように自然に神様と指切りをしたのだった。


「やっぱり、夢じゃなかったんですね」


「うん。僕と一緒にやりたいことを一つずつ叶えて行く約束だよ。それとも、神様との約束なんて破棄したいかな?」


 覗き込まれるようにされて、息が止まった。その瞳は底が知れない。キラキラと輝いていて、朝日を映し出した海面のようだった。


「いえ……でもちょっと混乱していて。何が何だかさっぱり」


 死のうと思ったのを止められて、しかもその人物は生徒会長で神様だという。しかも、美空だけの神様。そして、渡されたお願いを叶えることができる魔法のノート。ここまでファンタジーが過ぎると、逆ににわかには嘘とは思えなくなっていた。


「ゆっくりでいいんだ。僕の願いは、君の願いが叶うこと。そして、この三カ月間の僕の使命は、君の願いを叶えること」


 神様はニコニコと嬉しそうにしている。その笑顔はまるで、こっちにまでその喜びが伝わってくるかのようだった。


「小さいことでもいいんだよ、たくさんの〈したい〉を叶えて行こうよ、美空くん」


「はあ……」


 気が進まないというよりも、本当に訳が分かっていない美空を置いて、夕はにこにこと笑いながら大きく伸びをした。うんと大きく伸びをしてから、夕は遠いところを見たままに、美空に急に問いかける。


「美空くん、人が死んだときに持って行けるものって何だと思う?」


 夕は空をぼうっと見上げながら、穏やかな笑顔のままだった。美空はその横顔をじっと見ながら、何だろうと考えこむ。三途の川の渡し賃だなんて答えたら、ずいぶん古めかしいと言われるだろうか。


「……何でしょう。肉体が滅んで、魂だけになって……分かりません。そもそも、何か持っていけるんでしょうか?」


 真面目に考えて答える美空を、目を細めて眩しそうに夕が見つめた。


「人はね、死んだら地位も名誉もお金も持って行けない。そんなの分かりきっていることなのに、僕たちはすっかり忘れてしまう」


 お金や権力や地位や名誉。確かに今生きているうえでは大事かもしれないが、死んでもそれらが役に立つとは、到底思えない。結局は、死んでしまったら、肉体だって灰になる。灰になったら、お金なんて使えっこない。


「でもね、そんな人間でも、持っていけるものがあるんだ。人が死んだときに持って行けるのは、自分自身の経験と、思い出だけなんだよ」


 夕は確信的に伝えた。


「楽しかった経験と、思い出……」


「そうだよ。三か月後に訪れる死の際に、君はこの世で経験した物事と思い出だけを持って天国へと行ける。その時に、やりたかったことをしたという思い出や楽しい経験を持って行くのか、そうじゃないものしか持って行けないのか――」


 美空をまるで言いくるめるかのように、小さい子にも分かりやすく伝えているかのように、夕は目をキラキラとさせた。


 だからね、と夕はさらに言葉を紡ぐ。


「楽しかったと思える人生にするための、叶えたいお願いを、このノートに書くの。楽しかった経験と思い出になるような。それを僕と一緒に叶えて行くんだ――分かった?」


 美空は大きくうなずいた。夕には不思議な力がある。一言一言を噛み砕くように言われて、美空はなぜか、胸のつかえが取れていた。


「苦しくて苦い経験と思い出だけを餞にするより、楽しい思い出を天国に持っていきたいでしょう?」


「はい」


「だからね、僕がお手伝いするんだ。美空くんは、天国に行くまでに、もうちょっと楽しい思い出を増やさないといけない」


 夕がにこりと笑うと、つられて美空もほほ笑みたくなる。心がなぜだか穏やかに凪いでいくのが分かった。


「僕は、そのために君の前に現れたんだよ」


 そう言って嬉しそうにしている夕ともう一度、約束の指切りをした。美空は、もらったまっさらなノートを握りしめて帰宅をする。


 やりたかったのにできなかったこと。それを叶える魔法のノート。自宅の扉を開くころには、美空はドキドキが止まらなくなっていた。


 誰にも見つからないようにねと念を押されたのは、ノートの存在が知られると、美空の寿命の残りも知られてしまうからだ。だから美空は、ノートをしっかりと隠したし、家に帰ってもこっそりと開いた。


 いつもよりも浮ついた気持ちになりながら、食事と風呂を済ませ、自室へとこもる。誰も来ないことを願いながら、夜、美空はワクワクしながらそのノートを開いてみた。


 こんなに楽しいと感じたのはいつぶりだろうか。美空は希望を持って、そのノートと向き合う。日中、死のうとしていたのに、なぜか今はそんなことを思っていたのが嘘のようでならない。


 胸の中にはあの透明な黒い感情ではなく、キラキラとドキドキが詰まっていた。どうせ死んでしまうなら、やれなかったことをたくさんしなくてはならない。そんな風に思ったのも、夕が遠慮はしないようにと言っていたからだ。


 どんなお願いでも、受け止めるし一緒に叶えると、神様は美空に安心をくれた。約束をしてくれた。だから美空は一人じゃないと思えた。この世界で一人ぼっちのような気持ちでいたのが、今では夕という味方を得て、心がほんのりと強くなったような気がしていた。


 美空は夕に魔法にかけられたのだ。そんな風に思った。


 残り三カ月。うら若き高校二年生が死んでしまうには、若すぎる。だったら、その間に楽しいと思える事だらけにしたところで、ばちは当たらないはずだ。


『――大丈夫、美空くん。僕がついているから』


 夕は美しい瞳でそう告げた。あのキラキラと輝く、子どものような顔を思い出せば、不思議と腹の底から、力が湧いてくるのだった。


(私が死ぬまであと九十日……)


 美空は、たくさん考えを巡らして、時計の針が今日という日を一瞬にして昨日に押しやるころに、やっと魔法のノートにシャープペンの先を走らせた。

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