第2話

 深窓の生徒会長。そう呼ばれている生徒会長が美空の通うこの学校には居た。


 葵田夕あおいだゆう、という生徒会長は、その儚げな印象の名前から想像する人間像を、見事なくらいに裏切らない。


 あっさりとした顔立ちに、さらさらの黒髪が美しい。肌は抜けるように白くて、瞳孔と同じ黒い瞳が人形のような印象を与える。男性にしては線が細く、格好良さとかたくましさ、男らしさというのを全く持って生まれなかったようで、一番似合う形容詞は〈美しい〉だった。


 おそらく、息をしないで止まっていたら人形に見えるだろう。容姿が整っているからとか、作り物のような肌をしているのが要因ではない。葵田夕というその人間の待とう雰囲気が、幻想的で思わず人を惹きつけている。


 銀幕スターのように華やいでいるわけではないのに、なぜか目で追ってしまう。同じ制服を着ているのに、目立つ生徒とそうでない生徒がいるのと同じで、際立って目立つような派手な容姿ではないのに、夕は纏っている雰囲気が他の高校生とは違っていた。


 そんな人形じみた容姿に、頭脳の明晰さはもちろん、穏やかな性格で人当たりも良い。裕福な家庭らしいが、そういうそぶりを一切見せないところが人気の秘密のようだった。


 老若男女問わず、なぜかみんな葵田夕には惹かれてしまう。容姿の美しさだけではなく、その内側からにじみ出る品の良さや、すれていない性格。完璧すぎる人物は嫌われるのがセオリーだが、葵田夕に関しては、逆に誰からも反感を買わない。彼は、そんな不思議な人物だ。


 ただ、完全無欠の生徒会長にも、弱点はある。線の細さから想像できるように、よく貧血で倒れるらしく、保健室や生徒会室でたまに休んでいるという。成績が優秀なので、先生たちも休むことに関しては何も言わない。


 親が金持ちだから裏で何かしているのだ、という根も葉もないうわさを囁く人もいるが、それはごく少数だ。なぜなら、それを裏付けるような肌の白さが目立つからだった。


 白すぎる肌のせいで、吸血鬼なのではと秘かに疑っている女子生徒もいる。もちろんそんなものはオカルトだが、現実にそうだと言われれば、そうかと納得してしまいかねない。


 完全無欠の人物はこの世にいないのだと分からせると同時に、逆にそれが謎めいた雰囲気を加速させている。


 そうしてついた葵田夕の通り名が〈深窓の生徒会長〉。


 美しく儚く、それでいて圧倒的な存在感を放つその生徒会長に、生徒の多くが憧れ、教師たちは信頼を置いていた。


 美空も、入学してすぐに夕の存在を知り、そして自分とは違う生き物だと考えていた。地味でクラスからも空気と思われている自分とは、生物学的に同じ分類だとしても、決定的に何かが違っていると感じていた。



 *



 生徒会長とは一生話すことなどないと思っていた美空は、自分の名前だけでなく、自身の存在を彼が認識していたことに驚き、そして胸が苦しくなった。いうなれば、テレビの向こう側の芸能人に、とつじょ名前を呼ばれたのと同じ感覚だ。


 苦しい気持ちが込み上げてくるのに、恐怖で歯の根が合わないのは、ここが屋上の上で、柵の外側で、すぐそばに死があるからだった。


 認識してもらっていて嬉しい気持ちと同時に、どうして自分の名前を知っているのかという疑問、さらには、なぜか悲しさが込み上げてきていた。ガチガチと合わない歯の根を黙らせるように、美空はぎゅっと奥歯を噛みしめる。足も震えて、心臓がおかしな音を出して耳の内側から爆音で鳴り響いていた。


 美空は地味な生徒だ。自他ともに認めるほど、クラスでも美空のことを知っている生徒がどれだけいるか分からないほど、透明人間だった。


 彼らの視線、話し声、そして家族の事を思い出した瞬間に、美空の恐怖は遠のく。逆に、あの恐ろしく暗い気持ちがずるりと這い寄ってきた。暗く悲しく、そして名前のつけようのない、真っ黒で透明な感情。死んでもいいやと、ふと命の重さを気軽に考えてしまうような、複雑な魔物のような気持ち。


 それに敵対する術を美空は持たない。そして、この世の中に、それと戦うことのできる剣を持つ者なんて、少ないのだ。


 急激に冷めてきた感情と共に、美空は息を吐いた。すんなりと、喉元で絡まっていた声が出てくる。


「……葵田先輩と話すのが、こんな所でだなんて、悲しい」


 素直にそう言葉が出てきた理由が分からなかったが、絞り出した声は風に散らされるほどに震えていた。苦虫をつぶしたとはこういうことを言うのだろう。口の中に苦いものが広がり、ひりひりと喉を焦がして通過する。嗚咽は干乾びた喉で詰まって出て来なかった。


 握りしめた手のひらの冷たさだけが妙に脳裏にこびりつくようで、それ以外は全部作り物に思える。そんな中、覗き込まれた光さえ吸収する色の瞳を見た瞬間に、涙がこぼれた。


 夕の向けた視線は、死を想う人の目ではなかった。圧倒的でみずみずしい〈生命力〉をそこに感じ取ってしまった美空の絶望が浮き彫りになる。そのタイミングで、夕の手が離れて行った。


「待って……!」


 声になっていたかは分からないが、そう伝えて引き留めようとした美空の手をするりと抜けて、夕は柵を乗り越えて、屋上の安全地帯へと戻ってしまう。


 途端に、恐怖が美空の中に舞い戻った。呼吸が上手くできず、ひゅ、と喉が鳴る。そんな美空を、柵の内側から夕が真剣な瞳で覗き込んできた。


「落ちたらだめだよ、美空くん」


 いつの間にか美空は、誰が見ても分かるくらいに足が震えて動かず、柵にしがみついたまま、そこから一歩も動くことができない。さらに言えば、しゃがむことも声を出すことも不可能だった。


「美空くん、僕の手に掴まって」


 その美空の手を再度柵の内側から握りしめ、そして夕は引っ張り上げて生きる者たちの世界へと連れ戻す。


 美空を抱き留めた腕は、彼の細い線からは想像するよりもたくましく、抱きしめられた胸から伝う心臓の鼓動が、やんわりと美空を包み込んでいく。ドクンドクンと流れる血液の音が、これほどまでに切ない響きだとは分からなかった。


 そして、人の温もりの心地良さが、美空をやんわりと包み込んでいく。夕はよしよしと引っ張り上げた美空の頭を撫でた。


「怖かったね、美空くん」


 怖さと愚かさと自分への嫌悪感、そして夕への嫉妬心と悔しさ。一気に押し寄せてきたものをせき止めることができずに、彼にしがみつきながら美空はやっと泣いた。あんまりにもお粗末な涙だったが、生を手放すことがどれほどまでに罪深くて愚かなことかを、今やっと理解した。


「ごめ、なさいっ――」


 夕が美空を引きとめるために、わざわざそこにいてくれたのを、どことなく直感で感じ取っていた。あんまりにも愚かな自分の行動を諫めるために、自分の命まで危険にさらしながら、美空と同じ視線で立ってくれた。


「ごめんなさい」


 縋りつくようにして、溢れてくる涙を夕のシャツにしみこませた。夕はよしよしと美空の頭を撫でながら、いいんだよ、と優しくつぶやく。


「でも、きれいだったね、空は」


 夕のぽつりと落とした言葉に、美空は嗚咽を漏らしながらうなずく。圧倒的な美しさと雄大さ。それは、自分がちっぽけで何もできない事を知らしめるには十分すぎた。


 そして、自分が消えたところで、あの空が何も変わらないこと、世界が一秒たりとも止まってくれない事に気がついた。


 人は空を飛べない。落ちるだけだ。そしてそうやって命を落とすのは一瞬で簡単だが、生きて行くとは何と辛い事か。苦しいと分かったのに、それでもこうやって引きとめられて、生にしがみつきたくなった。


 命が、自分一人のものだと思っていたら大間違いなのだ。生かされているんだと美空はこの時痛感した。そして、あさましい死にたくないという執着心を、まだ自分が持っていたことにも驚く。


「君が、生きてくれて嬉しい」


 そう言って美空の背中を撫でる夕の手は冷たくて、それはそれは心地よかった。

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