第一章
第1話
本当に死ぬはずだったのは自分の方だったのに、気がつけばとっさに死のうとしている先人に向かって「止めて」と声をかけていたのは、夏休みが終わって新学期が始まり、すでに数週間が経っていた時だった。
空を飛ぼうと屋上に足を運んだ
彼だと気が付いた時には、美空の方の心臓が止まりかけた。生徒会長はすでに屋上の柵の外に乗り越え、一歩踏み間違えればその身が空へと消える。
その狭間――。
「……止めてください、
自分が飛ぼうとしていたことは棚に上げた。自分は死んでもいいけれど、世の中には死んでは行けない人がいる。それが、今目の前で儚く命を散らそうとしている人物だった。
日に焼けていない白い肌がまるで陶器のようで、生きているのかさえ怪しく思える青年が、人形のガラス玉のような瞳で美空を見つめる。
そのあまりにも美しい瞳に射抜かれて、美空の方が涙が出そうになる。必死で次の言葉を探したが、出てきたのは何の面白味もない台詞だった。
「危ないです、そこから降りて」
「――君も一緒に死ぬ?」
生徒会長は、風に乗る軽やかな口調で、被せ気味にそう言ってきた。まるで、怖くないよと言わんばかりの柔らかい笑みに、美空は思わず天使かと思ってしまう。背中に巨大な白い羽が生えているのを探してしまったほどに、切り取られた絵画のような一瞬の笑み。
夏の終わりでセミがじりじりと鳴いているはずなのに、屋上にはその声が届かないのか、幻聴のように夏の終わりにしがみつくその声たちは朧気だった。しかし、目の前の人物だけは、くっきりと絵画のように浮かび上がる。壮大な存在感に、美空は今にも押しつぶされそうになった。
「おいでよ。こっちに来てごらん」
腕を伸ばされ、気がつくと美空は吸い込まれるかのように屋上の硬いアスファルトを上履きで踏みしめて進んで、夕の手に触れていた。幻だと思えたのは一瞬で、手に触れた瞬間、本物の生きている人間だと分かる感触がした。
生徒会長は長くここに居たのか、冷たい指先がやけに幻想的な体温を美空に伝える。そのまま引っ張られて、美空も柵を乗り越えた。案外簡単に乗り越えられる柵に、一瞬で散らせる命。命の重さなど、どこにも見当たらなかった。
「ほら、素敵でしょう」
少しの隙間と窪みがあるものの、乗り越えた柵の先に広がるのは、遮るもののない空間。吹き上げてくる風が心地よく、夏の終わりの緑の濃い匂いを鼻に運んできた。それは、むわりとした生命の匂いだ。感傷的な気持ちを引き起こさせる、夏の匂い。
ミーンミーンと、セミがどこか遠くで幻のように鳴いている。そろそろ彼らも、夏とともに短い命を終える。最期に夏を呼び戻そうとするかのように、必死に鳴いていた。
遠くに残されたもこもことした巨大な雲と、青い空だけが映画の背景のようで、そこに切り取られた自分たちの方が、まるで偽物のような感覚だった。
「鳥になりたい」
ぽつりと隣から、風のため息のような声が聞こえた。見れば、空へと視線を泳がせて、葵田夕はその先のもっと先の、どこでもない世界を見つめているような顔をしていた。
高校生には似つかわしくない、達観した雰囲気が、逆に彼の存在を際立たせている。風の匂いをかいで、目をゆっくりとつぶっている姿は、一瞬魅入ってしまうほどに美しかった。彼からは、不思議なものを感じる。まるで、時間がそこだけ止まってしまったかのような、既視感を覚えた。
「鳥になれたら、飛べるのに。この青い空を軽やかに飛んだら、どれだけ気持ちがいいだろうね」
夕がつぶやくと、思わず詩的な何かに聞こえてしまうほどに、言葉がきらめいて美空の耳をかすめた。まだじりじりと暑い太陽の鮮やかな光が届いて、二人の影を色濃く外壁に刻み付けている。
美空は、太陽に近づきすぎたイカロスが、蝋でできた翼が溶けた話を思い出す。悲劇的な話だが、この生徒会長が翼を持って飛んだら、それはそれは幻想的だろうなと、ふとそんなことを考えていた。
墜落したとしても、誰もが悲しんでくれるだろう。美空と違って。自虐的にそう思いつつ、ぼんやりと隣にいる人物を眺めた。すると、夕の首が動いて、美空を真っ黒な瞳に映し出す。
「おいで。一緒に死のうよ、
夕に言われて、美空は文字通り仰天した。びっくりしすぎて、息をのみ込んでしまうほどだった。
「なんで、私の名前……?」
「さあ、なんでかな」
夕の幻想的な光の灯る瞳が、美空を射る。そこにはいたずら心がくすぶっていた。にこりとほほ笑まれて、そして吹き渡る風が揺らした彼の髪の毛の先に視線を伸ばし、美空はハッと息を止めた。
灰に、空気が一瞬にして入らなくなる。心臓が逆流して血液を流し始めたかのような、吐き気が込み上げてきた。
ここは、こんな幻想的な会話を繰り返しているが、学校の屋上だった。フェンスを乗り越えた先の、何も防御がない場所。一歩、足を踏み出せば簡単に命など消え去る場所。人の命など、自然の前では塵のように軽い。
「美空。きれいな名前だね」
言われてやっと美空は、空間とその下の遠い地面から目が離せなくなっていた視線を、夕の方へと向けた。心臓は壊れたかのようにバクバクと脈打っている。息ができずに、喉がからからに乾いてきた。
さっきまで夕に握られていたと思っていた自分の手は、いつの間にか自分自身の方が強く握りしめていた。恐怖にすくんだ美空の手の色が、血の気が引いて真っ白になっている。
暑いのに、背中を流れる汗は溶けだした氷河の一部のように冷たい。焼け焦がすような太陽とは正反対の、夕の涼しげな目元から送られてくる視線に、思わず張り裂けそうな気持が美空に押し寄せた。
「僕は君のことを知っているよ、
なんて馬鹿みたいな台詞なのだろうと、普通なら思うはずだった。しかし、柵の外の屋上で、二人きりで手を握りしめ合いながら、天使のように穏やかな笑みで紡がれたその言霊は、一瞬にして真実となった。
この瞬間、葵田夕は間違いなくこの先ずっと、美空の中でゆるぎない神様となった――。
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