『知人』 作 川澄 寝留
数学の積分でやらかした計算ミスを修正し終えてノートから顔を上げる。大きな窓から見える外はもう、紫と橙の光でグラデーションを作っていた。そろそろ帰らなければとテーブルに広げた物を鞄へとしまっていく。
彼に挨拶をしてから帰った方がいいだろうと思うが、このフロアに彼の姿はない。また別のところにいるのだろうか。
先程までいたフロアを出て階段から一階入口ホールを見下ろす。やはりいない。とりあえずうろうろしてみれば会えるかと、二階の他のフロアを覗きに行くことにした。
日本画、抽象画、風景画。フロアごとにさまざまな絵が行儀良く飾られている。しかしどのフロアにも彼の姿はない。本当にどこへ行ったのだろうか。
二階を歩き回るうちにだいぶ奥まったところまで来てしまった。そこで一際大きく重厚な扉を見つけ、思わず近寄ってみてしまう。ここも何かの展示場所だろうか。いろいろ歩き回ったが彼はいない。もしかしたらここにいるのかもと思い、ドアノブに手をかける。捻る前に思い直しまずノックをしてみる。他のフロアの扉は開け放たれていたが、ここは閉まっていた。作業中だろうか。
コンコンと軽くノックをしてしばらく待ってみたが応答はない。彼はここにはいないのだろうかとも思ったが、一応見てみようと再びドアノブに手をかけた。
「いけない子だね」
耳元のすぐそばで声がしたかと思ったら、いつのまにかドアノブにかけていた少女の手の上から、別の手が後ろから伸びてきて少女の手首を軽く掴んだ。
視線だけ動かして自分の左のほうを見てみると、淡いアイボリーの髪が垂れ込めている。
瞬間的に状況を把握したが頭が真っ白になって何も出来ずにそのまま体を硬直させ、思わず息まで止めてしまう。
「ごめんね、ここはダメだよ」
そう言って、先程から少女が探していた彼はそのまま少女の手をドアノブから離させた後、自身も少女から離れた。
すぐ近くにあった気配が離れたことを確認した少女は、彼に気づかれないよう静かに深呼吸した。まずとにかく自分の精神状態を元に戻さなければ。
「こんな奥までどうしたの?迷子?」
驚いて呼吸を整えてる少女のことなどお構いなしに彼は飄々と尋ねる。
「すみません……帰る前に挨拶をしようと思って」
ああ、僕を探してたのかと納得したように少女を見る。少女はというとさっきやらかして大人に咎められたのが地味にダメージになっているらしく、視線が合わない。
その様子を観察して彼はくすりと笑い、画廊の出入口の方へと歩き出す。
「おいで、もう君は帰らないとね」
ハッとこちらを見た少女に怒ってないから、と付け足して、もう一度少女を促した。
♦
少女はそこまで反抗的ではなく、普通に真面目で、わりと素直な性格なのではないかと自分では思っている。そのため大人から注意されることや、怒られることが苦手だった。
いや、逆かもしれない。怒られたくないから、真面目に反抗せずにここまできたのかもしれない。
そのため、家に帰ってベッドに仰向けに寝転がり一息ついたときに、ふと先程の彼が思い浮かぶ。激しく怒られたわけではないし、あれは注意の範囲なのだろうか。いや普通に考えたら博物館の中のスタッフルーム的なものだから入るなと言われただけなのかもしれない。staff onlyというやつか。
そこまで引きずるかと思うほど引きずってしまうのは、やはり自分が何かをやらかすことを酷く恐れているからなのだろう。失敗を恐れるというよりかは、失敗した時の恥を人に見られることが少女にとって真に嫌なことなのだろう。
ああ、と頭を抱えてベッドの上でゴロゴロする。もうあそこには行けないかもしれないと、考えすぎというより過剰に気にしすぎな思考になっていく。もっとサッパリとした性格になりたかったといつも思う。
もう寝てしまおうと電気を消した時、スマホに連絡が入った。
相手は姉だった。昨日電話した時に、夏休み中のどこかでこちらに戻ってくると言っていたが、その日取りが決まったらしい。さすが仕事が早い。
どうやら2日後の週末に帰ってくるようだ。先程より幾分か気分が楽になったところで、少女は眠りについた。
♦
昨夜の姉の帰省の知らせのおかげか、エアコンの効いた部屋での心地よい睡眠のおかげか、昨日の抑鬱とした気分はすっかりどこかへ行ってしまった。
寝るとリセットできるとは単純にもほどがあると思ったが、今は気分がいいのでそれも置いておく。
しかし朝のましな機嫌も直射日光激しい通学で台無しになったが。いい加減この暑さはなんとかならないものか。あの主張の激しい光源が酷く憎らしく感じる。
教室に入ると昨日はいなかった友人が、こちらを見つけて手を振っている。ぎこちない笑顔とともに軽く手を振り返し席に着く。
エアコンがちゃんと効いてるなら機嫌を直してやらんこともない、と我ながら偉そうなことを考える。
「蓮、おはよー」
相変わらずこの友人は前の席を我が物顔で使う。まあ、本当の持ち主は夏期講習には参加していないので支障はない。
「おはよう。昨日来なかったね」
差し障りのないどうでもいい話は得意だった。というか、そういう話しか少女にはできない。
「そーなんだよね。昨日両親仕事なのに弟が夏風邪ひいてさー、私が一緒に留守番することになったの」
「弟くん、今日は平気なの」
「今日は母親が休暇取ったから大丈夫」
そうお大事に、と話を区切り別のどうでもいい話を振ろうとした時、授業担当の教師が入ってきた。
友人も黒板の方へ向き直り授業が始まる。誰とも話さず、ただ一方的に受ける授業の方が、少女にとっては休み時間よりも気が楽だった。
人と会話をするのが苦手だった。できてもテレビの話や課題の話、どうでもいい会話しかできない。家族構成のような個人情報も話すのは少々憚られる。ましてや自分の悩みや内面に関わる話はするとしてもどう切り出して話せばいいのかわからないし、話してどうするんだという気もする。
聞く場合もそうだ。内面に踏み込むような質問も怖くてできなかった。自分なんかが聞いてもいいのか、聞いてどうするんだ。そんなことを考えていたら、淡々と窓口の対応のように会話をしていくしかなかった。
どうせ一年経ったらこの人とはもう会わない。クラスが変わったらもう話さない。そんな風にいつも耐えてしのいでいた。
出来るだけ自分を出さず、相手からも一定の距離を保って踏み込まず。
もし相手との関係で失敗したり、自分の失敗を相手に見られたら、その記憶と共に相手ごと切り離していた。人に興味がなく無関心なわけではなかった。ただ、相手のことを知るとともに自分のことも相手に知られることが怖くて。
自分を守るために少女にはそうすることしかできなかった。
♦
彼の名前はそういえばなんというのだろう。学校帰りの神社への道を自転車で漕ぎながら、ふとそう思った。
よくよく考えれば彼のことは何も知らない。まあ、会って3日だから仕方ないとも言えるが、初対面の時点で当然知ってていい情報も何も知らない。
あの画廊の名前もわからない。彼は館長のような立場なのだろうか。でも営業はしてないと言っていたがどうなんだ。
そんなことを考えている間にいつもの神社へと着く。涼しい境内で汗が引くのを待つのもいつも通り。画廊へ行くにしても汗をかいたままの状態では行きたくない。ましてやあんな綺麗な人がいるのだから。
涼みながら昨夜から若干引きずっていたことにいい加減決着をつけようと再び考える。
彼から注意を受けたのはあくまで従業員的な観点からのもので、怒られてはいないし、彼も怒ってはいないと言っていた。それ以上でもそれ以下でもない。あそこは彼以外誰も来ず、勉強するには理想的な環境なのだから今あそこまで切り離すわけにはいかない。
これでおしまい、と自分の思考に区切りをつける。だから今日もあそこに言っても大丈夫、もう迷惑をかけなければいい、そう締めて少女は画廊へと歩き出した。
♦
洋館に入っても彼はまた見当たらなかった。まあ、こんなに広い洋館で毎回毎回見える場所に彼がいる方がおかしいかと、とりあえず中央階段を上る。勝手にお邪魔するのも悪いだろうし、どこで勉強していいのかもいまいちわからない。
昨日彼を探したルートで二階から歩いてみようと館内を巡る。
しかし彼はいなかった。一階か、他の階だろうか。というか、昨日彼はどこにいたんだ。突然現れて肝を冷やした。神出鬼没にもほどがある。
考え事をしながら歩いていたせいか、昨日の大きな扉の前に来ていた。昨日の今日でここに近づくのは良くないなと、とっさにくるりと方向転換してきた道を戻ろうとした。
すると背後からガチャリと扉が開く音がする。少女が振り向くと同時に出てきた人物と目があった。
当然それは彼で、
「なあに、また僕を探してたの?」
目を細めて笑った彼は、後ろ手にガチャンと扉を閉めた。
「……どこでやればいいのかなって」
不可抗力ながらまたあの扉の近くにいるところを見られてしまった少女が、さらにダメージを受けながら口を開く。
「そうだね、じゃあ今日はこっちにおいで」
それ以上何も言わずに彼は歩き出す。今日のはセーフなのかと、少女は密かに息を吐いた。彼の後ろ姿を追いながら、彼が右手に何か持ってることに気づく。またなんだか四角くて薄い箱だ。あれも絵画だろうか。
そういえば彼はあの部屋から出てきた。あの部屋は絵画の保管庫から何かなのだろうか。それならば自分が入ってはいけないのと当たり前かと納得し、先程受けたダメージが幾分か和らぐ。
着いた部屋は人物画がたくさん飾られていた。しかも1人に注目を置かれて描かれたものが多く、これは肖像画なのだろうか。部屋の中央に真っ白で細かな飾りが施されたテーブルと椅子があり、彼がそれにこんこんと軽く触れながら、ここだよ、と少女を促す。
テーブルに勉強道具を広げていると、彼が持っていた箱からやはり絵画を取り出し、壁の空いているスペースに飾っていた。やはりあれも人物画が描かれたものだろうか。
そういえばとここに来る前のことを思い出し、彼の背中に声をかけた。
「お兄さんはここの館長さんですか」
彼は少女に背中を向けたまま、絵画の位置を修正しながら答えた。
「半分はそうかな」
半分とはなんだ、と別の質問を口にする。
「別のお仕事をしてるんですか」
絵画は飾り終えたらしく彼がこちらへ顔を向ける。
「内緒」
だんだんとこの人は大丈夫ではないタイプの大人だろうかという疑問が出てくる。
「お兄さん名前はなんていうんですか」
「なんだろうね」
あ、この人は大丈夫じゃないタイプの大人かもしれない、と警戒心を引き上げる。
それを知ってか知らずか、彼はくすくすと笑ってテーブルを挟んで少女の目の前の椅子に座る。
頬杖をついて綺麗な笑みを浮かべたまま彼は言った。
「僕が同じことを君に聞いたら教えてくれるの?」
ぐっと思わず息が詰まってしまう。彼が不審者か否かの問題ではなく、他人に自分の情報を出すときは友人だろうが教師だろうが酷く躊躇ってしまう。
言葉に詰まってしまった少女を、彼は相変わらず目を細めて観察している。
ぐるぐると考えていた少女だったが、いつも初対面で出していた最低限の情報は提示しようと口を開く。
「高3です」
「うん」
「氷室、蓮です」
「そう」
身分と名前くらいはとこちらから提示しては見たが、彼はにこにこと笑っているだけでそれ以上何も聞こうとはしなかった。
それはいいのだが、彼自身のことは話すつもりは無いようで、少女になんとも言えぬ不満が残る。
「ここは何というところなんですか」
どうせ答えてくれないとやけくそにはなったが質問を投げてみる。すると思いのほか、彼からちゃんと返答が返ってきた。
「ここは『逢間の絵画廊』というところだよ。この館の名前だね」
それは確か最初に会ったときにも言っていたような。
「僕の祖父は名を逢間と言って、ここの画廊を作った人なんだよ。だから自分の名前をつけたらしい」
そうなのか、と思うと同時に何でおじいさんのことは教えるのに彼自身のことは全て煙に巻こうとするのか。しかし少女こそ彼にそんなことを言えたものではないが。
それにしても彼のおじいさんはとんでもない収集家だったようだ。この広い洋館中に飾られたもの全ておじいさんのコレクションならば相当だ。今いるこのフロアだけでもかなりの数の絵画が飾られている、と軽く見渡してみるとその中に明らかに違和感のあるものがあった。
その絵画は確か彼がさっき飾っていたものではなかったか。
少女が注視していることに気づいたのか、彼は立ち上がってその絵の方へ少女を手招きした。
近くに立ちその絵画をよく見てみる。が、見れば見るほど奇怪なものだった。人物画、なのだろうが顔がない。このフロアにある絵は全て1人の人物の顔をメインに描いてあるように見受けられる。それが肖像画というものだろう。
しかしこの絵はその顔がないのだ。いや、あることにはある。あるが、それはもはや顔ではない。首から下は華奢な女性のものだろうかと思えるが、その顔が奇怪で複雑な図形がみっしりとパズルのように置いてある。顔の輪郭に沿ってパズルのピースをはめ込んだかのようだ。濃い紫、群青、深緑。暗く重たい色のピースが顔一面を覆いつくし、表情ところが目も鼻も何もない。のっぺらぼうのお面のような恐ろしさがそこにはあった。一体何を思ってこんなものを描いたのか。そしてなにより、誰を見て描いたのか。モデルの人はこの絵を見て思うところはなかったのだろうか。
「これは『知人』という作品だよ。作者は川澄寝留という日本の人」
知人、親兄弟や友人でもなく知人。作者はモデルの人物を苦手としていたのだろうか。
「モデルの人と仲悪かったんですか」
そう隣の彼に聞くと、至極楽しそうな声が聞こえてきた。
「そんなことないと思うよ。だって、この絵のモデルは作者自身なんだから」
自画像ってやつだねと彼は言ったが、それはタイトルと矛盾しないか。
「この作者の人は随分な美人だったみたいで、友人から自分をモデルに絵を描いたらどうかと言われたそうだ。で、毎日毎日、鏡の自分とにらめっこをしながら描いたようなんだけど、出来てみたらとてつもなくいい出来上がりになったらしい。絵の中の自分の出来が良すぎて、このまま世に出すのが恥ずかしくなったみたいで、慌てて上からこんな細工をしたみたいだよ。そして、タイトルも架空の知人ということにしたんだって」
「え、それは」
「ね、なにしてるんだろうね」
彼はくすくすと楽しそうに笑った後、まあわからなくもないけど、と呟いた。
「もしかしたら、彼女は出来がどうとかやりも自分の顔を晒すことが耐えられなかったのかもね。顔は内面を表すというし。ここまで別のものを上から描かれてしまったらそんなもの全くわからないよね」
そうか、それならば自分だってそうだった。人から中身を見られたくない、という気持ちはよく分かる。この作者はその気持ちがだいぶアグレッシブな方向に向いた気もするが。
「このことを友人に話したら、彼女笑い飛ばされたらしいね」
この作者はなんとも仲の良い友人を持ったものだ。笑い飛ばしてくれる友人がいるだけでも羨ましい。自分が同じことをしたら、姉は笑ってくれるだろうか。
友人、律は、あの友人はどうだろうか。いやまず、友人にはそんな話すらしないかもしれない。だって律にはなにも話していないのだから。自分はなにが好きで、なにが嫌いか、将来は何になりたいか。何も話していない。
そこでふと気づく。律はどうなんだ。高校2年の時から同じクラスだが、少女はあの友人について何も知らない。何もわからない。何が好きなのだろう、何が嫌いなのだろう。あの子のことをどれだけ知っているだろう。
お互いに何も知らない。
しかし、そんなことは当たり前なのかもしれない。自分自身のことだってよくわからないのだから。
彼が退席した後も、ずっとそんなことを考えていた。だからだろう、今日は勉強に全く身が入らなかった。そのくせに考え事に没頭して、彼に声をかけてもらうまで日がとっくに落ちていることにも気づかなかった。
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