第2話 どうしてって……そんなの……わかんないよ

 それなりに雨が地面を叩く放課後。生徒玄関には傘を持ち合わせていなくどうしようか悩んでいる生徒が足を止めていた。生徒会が設置している貸し出しの傘は、もうゼロだ。

 ま、当然か。


「でも、なんでカバンの中に折り畳み入ってたの? 凌佑」

「いや……多分折り畳みは梅雨の時期毎日持ち歩いていたけど、普通に傘も持ってきた日がほとんどだったからそのうち存在を忘れて……今ですね」

 下駄箱で靴を履き替え、外へ歩き出す僕と梓。


「でも、凌佑のうっかりのおかげで今日は助かったね」

 口元を緩ませながら、梓は軽い足取りで校舎内を出た。

 屋根の残っている外玄関にも、帰るかどうか悩んでいる生徒の姿が見られた。そのなかには、友達の佑太の姿もあった。


「あれ? 凌佑は傘持ってたのか? 神かよ」

 僕が右手に折り畳み傘を持っているのを見ると同時に、彼は近づいて来ようとした。が。


「……あー、はい。そうだよねー」

 僕の後ろにひょこりと梓が顔を出したのを見て、その動きを止めた。

「あ、練馬君も帰り?」

「え? あー……そうだなぁ、帰ろうと思ったけど、傘ないから少し雨宿りしてくわ。二人は帰るんだろ? 相合傘で。じゃあなー」


 それだけ言い残し、佑太は校舎内へと引き返していった。僕の横を通り過ぎる際、耳元でボソッと「……やるじゃん、モテる男は違うねぇ」とささやかれた。

「……なんか、悪いことしちゃったね。練馬君に」

 そんな友人の後ろ姿を見つつ、梓はそう呟く。


「大丈夫だよ。佑太はあんなんだけど、根はいい奴だから誰かの傘に入れてもらえる」

 きっと「仕方ないなー」とかなんとか言われながら。


「さ、帰ろう? 雨が強くなる前に」

「うんっ」

 小さい折り畳み傘のなかに、無理やり二人入る。すると、まあ、そこそこの密着度になるわけで。


 ……でも、まあもう学校中には「幼馴染」って知れ渡っているから噂にはなんないから大丈夫だよな。

 やはり後ろから色々な意味で羨ましがられる視線を集めた気がするけど、構わず僕等は帰り道を歩き出した。


 肩と肩とが触れ合う距離で、並んで歩く。傘を叩く雨滴は不規則に音を鳴らし、少し弱くなったと思うとすぐに強くなる。

「やっぱり折り畳みだと小さくて難しいね」

 隣を歩く梓が、坂道を下りながらそう言う。


「ま、まあそうだね」

「……でも助かった、傘あって」

「それはなによりで」


 高校の校門を出て、しばらく住宅街が続く。坂道には所狭しと家々が並んでいて、多種多様な色の屋根から、雨が地面に流れ落ちる。いつもは猫やカラスの一匹一羽いるものなのだけど、やはり雨だからかそんな彼等の姿は見られなかった。


「……あ、あのさ……凌佑は、私の水着見たい?」

 すると、昼休みの話を受けてだろうか、梓が少し声をうわずらせながらそう言いだした。


「え? ……い、いや……別に、そんなことは……」

「やっぱり、私なんかより羽季とかの水着の方が見たいよね……」

 彼女は、落ち着かないかのように、長い黒髪をさっと撫でては両手を握りしめ、また撫でては握りしめ、と繰り返す。


「……そういうわけじゃなくて」

「じゃ、じゃあ……年上の人の方が好みだとか? 実は凌佑ロリコンだったとか?」

 待て待て、人を勝手にロリコンに仕立て上げるな。


「……だから、落ち着けって……梓」

 一度咳ばらいをし、僕はゆっくりと話し始める。

「別に、僕はどういった女性がタイプか、なんてわからないし、誰かの水着を見たいなんて願望も持ち合わせていないから。佑太もそうかは知らないけど」

 隣を歩く彼女に、諭すように言う。


「……ほ、本当?」

「ああ、そうだよ」

 僕のその言葉を聞いてホッとしたのか、梓は胸に手を当てて息を一つ吐き出し、僕の体に密着した。


「おっ、おい急にどうしたんだよ……」

「ふふっ……なんか、安心して……」

 肩と肩とが触れ合って、彼女の体温を直に感じる。


 少し、脈が速くなったようにも思える。……でも、僕は意識して落ち着くよう努める。

「……だいたい、幼馴染なら、僕がロリコンじゃないくらいわかるだろ? 僕、子供苦手だし」

「そ、そうだけど……やっぱり、不安にはなるんだよ……」


 坂道を下りきり、西武新宿せいぶしんじゅく線と並走する形で並ぶ妙正寺みょうしょうじ川に出る。ここの川沿いに咲く桜は、下から、上から見ても綺麗なもので、散った桜が水面に浮かぶ景色もまた一興だ。卒業シーズンになるとある種画になる背景となる。


 まあ、今は雨が降っているから、川の色は美麗な桜色ではなく、少し濁った薄茶色ってところだけど。


「……だって、凌佑、女の子にモテるし……」

「いや、いつ僕がモテたし」

「……現在進行形で」

「は……? そんなわけ」

「……鈍感」


 いやいやいや、さっきから勝手に人をロリコンにしたり鈍感扱いしたり、僕の扱いひどくないですか高野さん。

「……で、そんな鈍感な僕の家に今日は泊まりに来るんだよね、た、か、の、さん」

「っ……そ、その呼び方、嫌いです。凌佑」


 僕が梓のことを「たかのさん」と呼ぶと、彼女は露骨に嫌な顔を浮かべた。理由はわからない。まあ、僕がそう呼ぶときは機嫌が悪いときか、梓と喧嘩しているときかの二択だからどっちにしろいい傾向じゃない、というのは確か。だから嫌いなのも頷ける、けど。


「はいはい、で、今日は僕の家に泊まるんだよね? 梓」

「……う、うん」

「何時頃来るの? 帰ったらすぐ?」


「うーん……着替えとか明日の学校の道具とか持っていくのに準備するから……家着いて一時間経ったらとかかなあ」

「ん、わかった。まあ、いつでも来ていいから」


 僕が梓呼びに戻すと、彼女はまたいつも通りの穏やかな表情になった。

 ……そんなに嫌なのか、「たかのさん」呼び。


 相変わらず弱まらない雨脚。坂の上から時折聞こえていた踏切の警報音が段々と大きくなり、やがて学校最寄りの中井なかい駅に到着した。

 僕が傘を閉じる頃には、左肩は完全にびしょびしょだった。別にいいけど。


 地下にある南北自由通路を通り、駅に一ヶ所しかない改札を抜ける。この自由通路ができる前は学校から帰るには必ず踏切を渡らないといけなかったから、この自由通路の存在はかなり大きい。特に、こういう雨の日には。


 エスカレーターを上がり、下りの各駅停車が来るのを待つ。高校最寄りの中井駅は、各駅停車しか停まらないし、僕等の家がある沼袋ぬまぶくろ駅も、各駅停車しか停まらない。七、八分に一本ってところだろうか。


 僕等が着いたタイミングは良かったようで、少しすると、駅のすぐ隣にある踏切が警報音を鳴らし始める。


「間もなく、一番ホームに、田無たなし行が、八両編成で、参ります。黄色い線の内側に下がって、お待ちください」

「……ねえ、凌佑」


 そんな、一瞬のとき。

 向こう側のホームから、急行列車が通過していく、ほんのわずかな一瞬。

 僕の隣に立つ黒髪ロングの幼馴染は、まるで、一本の細い絹糸を揺らすかのように小さな声で僕に言ったんだ。


 


「……好き、です」

 聞こえないふりをしようかどうか迷った。実際、電車の通過音でかき消されていたから、「聞こえなかった、もう一回お願い」とも言えたはずだった。


 それでも、僕がそうしなかったのは。

 これまで「何度も見てきた」真っすぐな梓の気持ち。それを精一杯僕に伝えるために、頭を下げて、言葉を紡いで。


 そんな梓の言葉を聞こえなかったことにするのはもっと申し訳なく思ったから。

 僕等の真横を黄色い電車は減速していき、やがて停車する。空気を吐き出すように音を立てつつドアは開いた。


「……とりあえず、乗ろう?」

 僕はちゃんと聞いたよ、ってことを示すため、きっちり間を持たせ、梓にそう言った。


「……うん」

 相変わらず、か細い声で、君はそう呟く。

 電車のなかはやはり静かで、そして人の数もまばらだった。


「次はぁ、新井薬師前あらいやくしまえ、新井薬師前、出口は左側です」

 朝の沈黙とはまた違ったそれが、車内に広がっていた。

 右側のドアに背中を預けつつ、目の前に広がる車窓を眺める。


 住宅街、公園、住宅街、とほとんど住宅街なんだけど。とりあえず、眺めていた。

 どうしてこのタイミングで告白したのか、想像はつかない。でも、きっと梓のなかで思うところがあったんだろう。


 僕は、無意識にポケットにしまっているスマホを右手に掴む。

「……どうして?」

 車内にも聞こえてくる雨音に負けないけど、この空気にふさわしいくらいの大きさの声で、僕は目前でつり革をつかんでいる彼女に聞き返した。


「どうしてって……そんなの……わかんないよ」

 少し苦しそうに、絞り出すように梓は答えた。


 ──何度聞いても同じだよね、理由。

 ──わかんないよ。


 ……そりゃあそうだよな……。十年以上も一緒にいれば、距離感なんてつかめなくなる。何が普通の距離で何がそうじゃないかだなんて。

 いつから、どうして、それが普通じゃないと気づいたかなんて、覚えている方がおかしいんだ。


 好きになったきっかけなんて「好きになっている今」においてはどうでもいい。だから、理由なんてわからない。

「……そっか、まあ、そうだよね」

 電車がまたゆっくりと減速し、停車する。反対側のドアが開き、車内に雨の音が響き渡る。


 少しずつ僕の胃がキリキリと痛み始めているのを感じた。

 ああ、またこの痛みか。


「次はぁ、沼袋、沼袋、出口は左側です」


 ……どうする。いや、答えなんて決まっている。答えの答えももう決まっている。


 どうせ、そうなんだろ。


 だから、僕は、君のその想いを踏みにじる。

 震えそうな、自分の声を押さえつけて。


「……いいよ」

 僕はそれだけ言い、沼袋駅に着いた電車を降りた。

 怖くて崩れそうな表情を隠すために、早足で。


「──えっ、いっ、今なんてっ」

 後ろから、そんな声が聞こえてきた。でも、振り返ることはせず、僕はただただ改札の方へ向かっていった。


 雨は、まだ止んでいない。


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