白々と明ける夜

不可逆性FIG

A Beautiful White Dawn.


 静寂。

 日本有数の都市部でも夜はちゃんと眠っているんだな……と、私は星さえも見えない夜空を仰いだ。

 ゆっくりと夜が明け始めた街は、まだ暗闇がほとんど全てを覆っている。しかし、道路に沿って白色灯が隙間なく照らしているので暗さはない。巨大なターミナル駅からほど近い横断歩道で、栞里しおりと私は車一台も通らないのにも関わらず対岸の赤信号が切り替わるのをあくび混じりに待っていた。

「ねえ、咲希さき。結局、泊まっちゃったねー。始発あるかなあ」

「この時間なら少し待っていればすぐに電車来るよ」

「そっかー、良かった!」

 栞里は、えへへと微笑む。

 一輪の花のように柔らかく可憐な笑顔は私だけが知っている彼女の本当の笑顔だった。他の人には決して見せることのない、私にとって大切なかけがえの無いもの。それは栞里が私にだけ見せる、恋をしている乙女の笑顔だからだ。


 やがてぼんやりと照らしていた赤信号は青へと変わり、私たちは駅に向かって再び歩き出す。

「あー眠い。楽しかったけど、遅くまで起きてたから二時間しか眠れなかったよお」

「私だって似たようなもんだって。栞里は今日、何もないんだからずっと寝ててもよかったのに」

 七割が本音、三割は嫌味だった。

「えーやだやだ。だって、咲希と一緒にいたいんだもん! 早く帰るなら、あたしもその時間に帰るってば」

 そう言って、私の腕に栞里の両腕が絡みつく。

「ふふ、ありがと。実は私も明け方とはいえ、一人で帰るのは心細かったの。栞里が居てくれて嬉しかった、かな」

 栞里に犬の尻尾があれば、その心情は一目瞭然だっただろう。その証拠として彼女は途端に瞳を輝かせ、背中がむず痒いといったようなくすぐったい表情になった。

「もおー! だったら、最初から一緒に帰ろうって言ってくれればよかったのに、咲希の意地っ張り! でもね……あたし、咲希のそういうところも大好き」

「私も栞里が好きだよ」

 私たちは互いの意思を確かめ合い、いつもの答えにいつもの安心感を得るのだ。そして栞里は頬を赤らめ、私に顔を寄せながら目を閉じる。この一連の行動が意味するものはひとつ。彼女の、栞里の待ち望んでいる切ない表情に私がしてあげられる唯一のこと、それは──

「ん……」

 そっと触れるだけのキス。

 栞里の小ぶりで優しい感触が体温と共に伝わってくる。幸せなひととき。

 誰と何度同じことをしても、これ以上の暖かな感情が溢れだすことはない。栞里の支えになっているという確かな充足感。必要としてくれる栞里のために今の私がいるという大きな愛。そして、数時間前まで行きずりの男に汚されていた栞里の唇を私との愛情で真っ白に隙間無く塗り潰していく喪失にも似た幸福。

 ──栞里は変わってしまった。

 今日も知らない男たちとホテルに泊まった帰りだった。初めは「咲希と同じ部屋でもいいのに」と誘われたが、栞里が良くても私が耐えられないので、それをやんわり拒否をする。それぞれが別の部屋を取って、それぞれの男と同じことをした。隣の部屋に栞里の存在を感じることで、私は男が喜ぶ演技をしながら不快感で底無しの闇に飲み込まれそうなこの状況に耐えることが出来るのだ。

 でも、こんな愚かな私とは違い、栞里は心から行為を楽しんでいるのだろう。だけども、私にはそれを咎めることはできない。なぜなら、どんな歪なカタチであれ栞里をもう壊してしまいたくはないのだから。


****


 よくある話である。

 高校生だった頃のことである。当時、私はいわゆるマセたガキで高二の頃にはもう彼氏が出来ていた。対照的に栞里は、家庭でもそういう話はしないのか、照れ屋で浮いた話題のひとつもない普通の少女だった。いわゆる幼馴染みだった栞里と私は互いに片親という家庭事情もあり、まるで神様が巡り合わせてくれたように自然と仲が良くなっていったのだ。

 ある日、隣りのクラスの男女数人がまとめて停学となっていた。それだけなら私には無関係だったのだが、隣りは栞里が在籍するクラス。そして、その停学の中にどうしてか栞里も含まれていたのである。胸騒ぎがして、その日のうちに私は彼女の家まで押しかけてしまう。栞里の母に泣き腫らしたような真っ赤な目で出迎えられ、ようやく栞里に会うことができた。部屋の隅で縮こまった布団の中から弱々しい嗚咽が響いていた。重い空気が部屋中に沈殿していた。

 そこからは頭が真っ白になって、よく覚えていない。ただ栞里の口から告げられた事実だけが今も耳の奥に強烈にこびり付いて離れないのだ。

「あたし、汚れちゃった……でも、嫌いじゃなかった」

 栞里は強姦されていた。

 停学を喰らった男女数人──正確には女は栞里だけ、他は全部男だ。手口や経緯は知らない、知りたくもない。事実として、彼女は酒で酩酊状態にさせられて、逃げ出すことも叫ぶこともできなかった。今でも忘れることはない、栞里の華奢な手首に馬鹿力で抑えつけたと思われる男たちの指の痛々しい痕がくっきりと残っていたのだから。

 不運な出来事と言われればそれまでで、不幸で救いのない少女が一人壊れただけの、よくある話である。


 きっかけはそこからだろう。正常な貞操観に綻びが生まれ、栞里は誰とでも簡単に寝る女になってしまった。以前に「もうこんなことは止めたほうがいい」と忠告したことがある。彼女は子供のように純真な言葉で容赦なくそんな私を打ちのめし、崖から突き落としたのだった。

「どうして? セックスは咲希もカレシとシてるんでしょ? 咲希はしても良くて、私はしちゃダメなの?」

 狂ってる。

 背筋がぞわりと冷たくなる嫌悪感がこみ上げるが、その言葉に私は否定を示すことができなかった。聖書の一節みたいに『罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げよ。』と、問われているような気がしたからだ。

「……ううん、ダメじゃない。ごめん、ちょっと言い過ぎた」

 ここで私が栞里を強く否定してしまえば、栞里は今度こそ独りになってしまう。いびつなままでいい、跡形もなく壊れてしまうよりは。その代わり、私が栞里の心の拠り所になろう。私だけは決して栞里を傷つけないと誓えるから、他の誰かに奪われる前に。

 これ以上彼女を失いたくないという強い想いが心の奥に芽吹き、私は私を少し失ってもいいと思えた瞬間だった。

 人生のうちでいくつか点在するのだろうターニングポイントを私は、栞里と二人で堕ちていくことを選択したのだ。私たちならきっと大丈夫だと信じ、零れそうな涙を彼女から見えないように素早くぬぐい、笑顔を貼り付けながら。


*****


「ねえ、聞いてるー?」

 隣で不満を漏らす栞里。

「え、ああ、ごめんね! 考え事してた」

「もー! 咲希、趣味でカメラやってたでしょ? 誰もいない夜明けの駅ビルって綺麗だよね、って話をしたのに聞いてないなんてさあ」

 私に両腕を絡めたまま、駄々っ子のように腕を繰り返し引っ張る彼女の行動に自然と笑みが零れた。

「そうだね。じゃあ、撮っておこうかな! ちょうど朝日も昇ってきたし、綺麗で良い構図かも」

「本当っ!? やったね、あたしお手柄じゃん」

 腕の拘束が解かれ、私はバッグからデジカメを取り出した。ファインダーを覗き、暁に照らされて淡い蒼色に染まっていく有名な大都市の駅ビルを睨む。白々と輪郭を見せながら、じわりじわりと朝日が昇ってくる瞬間を切り取るためにシャッターを押した。ファインダー越しに見つめた夜明けの空と生まれたての太陽が何故かとても眩しく感じて、思わず栞里の立っている場所を確認してしまう。どこにも行かないのに。行くはずがないのに。


 ほんの数時間前まで、汚らしい欲望をその身に甘受していた栞里と私。最初は栞里の受けた屈辱を少しでも理解できたら、という私なりの贖罪だった。今はそんなことはどうでもよくなっていて、ただ栞里と同じことをして同じ気持ちを同じ時間に共有しているという実感が嬉しいのだ。きっと私も壊れているのだろう。だけど、お互いを想う気持ちだけは紛れもない本物である。

「──せっかくだからさ、夜明けの栞里も撮らせてよ」

「えーいいって、そんなの。寝起きだし、あんまり綺麗にしてないもん」

「いいからいいから! はい、撮るよー!」

 またしても世界は今日を始めてしまう。そこかしこに沈殿している薄暗い夜の気配を無理やりに漂白しながら。

 駅ビルと青信号と人もまばらな横断歩道を背景に、栞里は小さくピースをする。私はその光景を撮影した。

 デジカメのアルバムに増えた真新しい一枚を私は確認する。そこに写っているのは、他の誰にも決して見せることのない、大切でかけがえの無いもの。まだ幼い朝の日差しを浴びながら栞里が私にだけ見せる、恋をしている乙女の笑顔だった。



〈了〉

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