壱 絶たれた未来

 大好きな野球では天才ピッチャーとして持て囃され、勉学においても呑み込みの早さで要領よく好成績を残し続ける。

 顔立ちにも平均以上には恵まれており、体つきもいいほうだ。場の空気も読めることもあって人あたりも悪くなく、友人たちにも恵まれ、家族にもそれなりに愛される。


 という自画自賛ができる程度に順風満帆な人生は、高校二年生の夏――肝試しの夜を境に終わった。


(くそあつ……)


 季節はあっという間に一周した。

 カンカン照りの真っ白な陽光が、窓の外の景色を白ませ、ゆるりと熱を孕んだ風が頬を撫でる。

 教室の中の小さな扇風機では払拭できない暑さが、教室の中にいる俺たちをひたすら蒸し焼きにしていた。


 教壇に立つ担任の、無駄に脂肪がついた顔や腹部に滲ませる汗が余計に暑苦しい。その横にいる別の教師だけは、涼しそうな顔をしているのが羨ましくさえ思う。

 うだうだと長ったらしい長期休暇前の注意事項が、暑さでまいっている俺の耳に入って脳にとどまることなく素通りしていった。


「これで今日のHRだが、進路担当の八神先生から話があるぞ」

「明日から夏休みだが、進路希望調査の用紙を出していない奴は、夏休みの呼び出しを覚悟しておけ。嫌なら今日は提出してから帰ること、以上だ。確定でなくてもいいからなんとかして埋めておけ」

「ということだ。全員書いてから帰れよー」


 八神先生はなぜか汗一つ掻かずに淡々と用件だけを手短に話し、HRを終えた。

 汗だくの担任と八神が教壇から離れて教室を出ると、わっと教室内が盛り上がる。明日からの夏休みへの期待はほんの少し。ほとんどは受験勉強での絶望からだ。


「ねね、夏休みいつあいてる!?」

「夏期講習ばっかでぜんぜん!」

「行きたい大学って言われても、いまいちピンとこないんだよなぁ」

「それな。進路用紙も全然かけねぇ」


 わいのわいのと騒ぐ声を聞きながら、俺も机に置いたままの用紙に視線を落とした。

 クラスと名前、出席番号だけ記載されただけのそれ。真っ白な四角い記載枠が口を開けているようにも見える。

 去年の俺だったら躊躇いもなく大学名を記載できた。できたはずなのだ。


 ため息を吐いて、肩を落とす。上腕から下が動かなくなってしまった左腕は、体の動きに合わせてわずかに揺れた。


「希望進路、な……」


 そんなもの、一年ほど前に夢とともに潰えたのだ。

 ぽつりとつぶやくと、体が右に傾いた。左腕が持ち上げられたのだと気付いて、舌打ちする。

 気付けば、クラスメートの野島が感覚のない左腕を掴んでニヤニヤと笑っている。


「なあなあ、里中ぁ!」

「なんだよ、山田。あと離せ」

「冷たいな! せっかく部活もない暇なお前を肝試しに誘おうと思ったのによ!」


 山田たち以外の、教室の空気が少し冷えた気さえした。

 取り巻きたちの押し込めた笑い声がする。他のクラスメートは、固まった空気に声を潜めるかそそくさと教室から抜け出していくのが見えた。


「里中くんはだめでしょ。ほら」

「あぁ、腕のことがあるもんな」

「もう一年前だっけ、野球部が。腕はまだ動かないんですかー?」


 にやにやと意地の悪い言葉に、ため息が出る。


 忘れもしない一年前の夏。

 野球部で秘密裏に行われたダム跡地での肝試し。その最中、全員そろって泉に落ちるという水難水難事故があった。他は死んで、俺だけ生き残って、その代償に左腕を失い野球ができない体になってしまった。


 道中はともかく、ダムで何があったかは俺自身まるで覚えていない。けど、恐ろしい目に合ったという自覚はある。

 そして生き残ったという事実を元に、さまざまな誹謗中傷を受けた。当然、スポーツ推薦は取り消し。この古臭い街を出て楽しい人生を送るのだという夢は潰された。挙句、今まで見下していた弱小サッカー部の低能に絡まれる。


「お前らが自殺志望者なら、一緒に行ってやるよ」


 くだらねぇんだよ、仕返しのやり方が。

 あえて笑って挑発してやれば、すぐに山田は言葉を詰まらせて俺から距離を取る。今の俺の言葉は暗に「殺してやろうか」という意味に受け取られることをわかっている。当然クラスメート全員ドン引きだ。

 山田にいたっては言葉を失った。自分から仕掛けてきたくせに肝はちいせぇヤツ。


「――なんだか、面白そうな話をしているね?」


 ちりーーーん……。

 と、固まった空気に鈴の音が響いた。そして聞きたくない声が、割り込んでくる。


 いつからいたんだろうか。気が付いたら、山田の後ろにヤツが立っていた。

 真っ黒な髪に反した真っ白な肌。モノクロの男。間宮亮は、完璧すぎて逆に気味悪く感じる微笑みを浮かべて、俺たちを見ていた。


「ま、間宮……」

「やぁ。肝試し、だったかな? どこへ?」

「い、いや、ダムの跡地とかさ」

「死人が出た場所にわざわざ行こうとするなんて、君たちも物好きだね。人はそれを自殺志願者というのだけれど……」


 変わらない声音、変わらない表情。

 きっと目の前に幽霊が出てきたとしても崩れないだろう完璧な顔から紡がれた言葉に、山田は一瞬たじろいだ。


「あれはこいつが他の連中を殺したからだろ!」

「おや。体力自慢だった野球部の面々九人を、里中君一人で殺せるなんて本気で思っているのかな? なら僕は知りたいな。いったいどんなトリックを使ったのか――君の考えを聞かせてくれないかい?」


 怒鳴れば相手が怯むと思っているあたり、救いようがない。しかし、怒鳴られても間宮は微笑んでいる。

 そして間宮はずいっと山田に顔を寄せて切り返せば、ヤツはまた言葉に詰まる。


 たっぷり一分ほどの沈黙があった。

 誰も、何も言わない空白の間も、誰一人として間宮から視線を外せずにいる。


「なんだ。結局君も嘘だと分かっているんじゃないか。つまらないね」


 鈴が、鳴った。

 間宮はすっと身を引くと、微笑みを消してそう言った。たぶん、山田に対する煽りでも何でもなく、本当にヤツの考えを聞きたくてした質問なんだろう。

 いうならただの興味本位。けど、山田はたぶん挑発と取る。


「うぜぇな、こいつ」


 予想通り、ヤツはそんな捨て台詞を吐いて、取り巻きに声を掛けると教室を出て行った。

 間宮は山田の言葉を気にするでもなく、固まったままのクラスを見回して首を傾げる。


「お邪魔だったかな?」


 残った面々からしたら、あの空気が嫌なものではあったんだろう。目を合わせた何人かが揃って首を振った。


「そう、ならよかった。里中くんは……機嫌はわるそうだね」


 助けられたのかと解釈しかけたが、この男にかぎってそれはないと思いなおす。

 この男は思ったまま、気の向くまま、マイペースに生きているだけだ。


「それで、どうして違うクラスのお前がここにいるんだよ」

「ん? あぁ、そうだ。大丈夫かなって思って様子を見に来たんだ」

「なんの話だよ、相変わらず気味悪い……」


 間宮は、俺の左腕を見ている。


 一年前の夏、肝試しの前に出会ってからというもの、間宮はこうしてたまーーにだが、絡んでくるようになった。その度に思う。こいつの無機質な緑色の目に自分の姿が映るこの瞬間が、苦手だと。


「それで、?」


 何も感じないはずの左腕が疼いた錯覚を覚える。

 間宮の視線は相変わらず左腕ばかりに向かっていて、俺の目を見ない。それもこいつの気味悪さに拍車をかけていた。


「相変わらず動かねぇよ」


 苛立ち混じりに返す。


「やっぱりそうだよね」

「わかってるなら聞くなよ。嫌味か?」


 間宮の視線は相変わらずだ。本当に俺と会話をしているのか変わらなくなる。

 だが、ここでこいつを無視するとクラスでの居心地もさらに悪くなるため、毎度しぶしぶ会話をしている状況だ。


「そうはいかないよ。こうなってしまった責任の一端は僕にもある」


 あの夜に止めなかったことを言っているのなら、それを責任というには何かが違う気もする。

 もし自分があの夜に曽野たちを置いて帰って、結果あいつらが死んだとして、同じように責任を問われると思うと嫌気が先にくる。忠告そのものはしたのだから、そこに責任を感じられると居心地が悪い。


 一つ溜息をついて立ち上がる。そうするとやっと間宮は俺を見た。さも、今俺に意識を映したように。この男との会話は、とにかく気味が悪いのだ。


「どこに行くの?」

「職員室だ」

「そう。またね」


 俺は返事をせず、夏休み中は絶対にこいつに鉢合わせるまいと誓う。

 そのためにも進路希望の紙をどうするか相談しに行かなくちゃならない。


 荷物を肩にかけ、扉を閉めるため教室を一度ふりかえる。

 俺が教室を出た瞬間に、クラスの一部女子がアイツに群がっていく。


(趣味わりぃ)


 あいつがモテる理由が、本気でわからない。

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