水底の腕

柊木紫織

零 戻らない夜

 俺の故郷である不羽ふわの土地には、いわゆるお化けがたくさん根付いている……と言われている。


 夜遅くに人気のない場所に行かないように。

 とくに人が住んでいない山や廃墟、打ち捨てられた祠には、絶対に近寄ったらいけないよ。


 ――というのは、俺ら子供が、ご老人方の忠告年寄りの戯言として、耳にタコができるほどに言い聞かせられていたことだ。


 当然、二十世紀となったばかりのこの時にそのような世迷いごとを信じるなんて、気でも狂ったかと遠巻きにされるだけ。

 むしろ、部活と来年の大学受験を控えた勉強で蓄積された、ちょうどいいストレス発散の機会として利用されるのが関の山だ。子供なんてそんなものだろ、たぶん。


「おーし! 全員集まったな!」


 稲が緑色の絨毯を作る、田んぼのあぜ道。進む先には真っ黒な山々が空に影として浮かび上がる。街灯なんてないド田舎の道で、懐中電灯で自分の顔を照らす曽野に、俺はため息を吐いた。

 他に集まった何人かも、なにがおもしろいのかゲラゲラと笑っている。


(くだらねぇ……)


 俺は内心で呆れ返りつつ、むりやり笑ってノリを周囲に合わせた。


 高校二年の野球部、総勢八名。

 なにが悲しくてむさくるしいだけの男らだけで、このような田んぼしかない道にいるのか。答えは簡単。夏の世のちょっとした冒険だ。ならせめて女子を呼んで来い、女子を。ときめきなんぞ欠片もない。

 けど――。


「雰囲気だけは完璧なんだよな……」


 ジワジワと何重ものセミの大合唱に、しけった熱気が生ぬるい風とともに抜けていく。

 それぞれが持った懐中電灯と、雲間から差す微かな月明かりしか頼れるものがない夜の世界。


 さすが、東京都と言いながら端に位置するベッドタウン。再開発中の駅から歩いて三十分もすれば、夜に一人で歩こうと思えない世界になる。


「だろ! 今年の夏は結構暑いし、こういう涼みが必要ってな」

「ただ真夜中に汗かきに来たの間違いだろ」

「ちげぇねぇ!」


 首謀者、もとい企画者である曽野は、俺の言葉にまたゲラゲラと下品な笑い声をあげた。これは嫌味だっての……。

 冷めた気分とは裏腹に、勝手に盛り上がる仲間内の退屈さに欠伸を噛み殺した。

 時刻はたぶん夜の十一時ぐらいだ。甲子園も終わったばかりで、受験勉強もはじまり忙しくなりつつあるこの時期に、好きこのんでなんて馬鹿げたことをしたくはない。


「で、山奥のどこに行くんだったか?」

「お前まーじで説明聞いてないな」

「受験勉強してたんだからしゃーねーだろ」

「希はスポーツ推薦もらってるだろうが! くそー!」

「まだ正式に決まってねぇよ」


 うちの母校は野球部ではそこそこの強豪校だ。甲子園もいい順位まで駒を進めている。俺は一年からピッチャーで出場しているレギュラー。来年はほぼスタメンだろうし、受験もスポーツ推薦は貰える範囲にはいる。つまり、それなりに勝ち組の立場だ。


 卒業して、この街を離れることが目標。そのためなら、来年まで人間関係は平穏でいたい。変に嫉妬されて問題に巻き込まれないよう、猫を被っておけばいい。でなければ、夏の貴重な一日をこんなくだらないことに使いやしないっての。


「で、山のどこにいくんだっけ?」

「ダムの跡地だって」


 よりにもよって、山を登った先の廃村まで行くのか。

 近所に住む年寄りたちから、絶対に入るなと言われている山を通らなくちゃならない。

 こんな真夏の夜に山を登るとか正気の沙汰じゃない。胸を張ってプランを説明する曽野に、笑って見せるけど、内心はすでに帰りたい気持ちでいっぱいだった。


「げぇ、マジのいわくつきスポットかよ。ジジババに知られたらげんこつじゃすまなそうだけどさ」

「だから行くんだろ! 禁止されるならそれを破るのが、ひと夏の冒険ってやつじゃないか!」

「なんだよ、希はびびってんのかー? 霊が出るとか言われてるもんな!」

「今の時代で幽霊とか信じてるわけねぇだろ。こういうのは夜の山は危ないから立ち入んなって言い聞かせるための方便だ」

「なら問題ねぇな!」


 蝉の声が満ちる空気は、どうでもいいこいつらの話し声に一枚幕を張るかのよう。


 遠回しに「帰ったほうがいい」と言ってみるが、譲る気はないようだ。幽霊にビビッて逃げ帰ったと思われるのも癪なため、直接帰る提案をしなかったのが裏目に出ている気がする。自分から言うのも負けた気がするので嫌だ。それに、この空気を壊したら後々いろいろ言われることは想像がつくのだ。

 あきらめて、汗で肌に張り付くシャツを引っ張りつつ、山までの道を進む。羽虫の音が混ざってくるのが非常に腹立たしい。


 山の前まで来ると、木々が風に揺られてざわざわと空気を震わせている。それはまるで「入るな」と警告しているように思えた。

 月明かりさえ照らさない、木材を適当に並べただけの階段もどきが奥に伸びている。少し上った先は、ぽっかりと穴が開いているように真っ暗で、少しぞっとした。


「懐中電灯、もってきてよかったな……」

「なんか、さすがにこの先はやばくね? 登ったことないんだろ?」

「ここまで来て何言ってんだよ! 足場があるってことは人が登れるってことだ!」


 曽野以外の面々が及び腰になる。このまま引き返す空気になれと心から願った。やいのやいのと言い争う中、ふと――。



 ちりーーーん……。

 と、かすれたような細い、鈴の音が蝉や木々のざわめきをかき消して耳に届いた。


 ちりーーーん……。

 他の連中にも聞こえたのだろう。みんなが言葉を止めて、耳を澄ませた。


 ちりーーーん……。

 それは一定の間隔で響いて、だんだんと近づいてくる。



 幾度か繰り返した後、山の奥から……と、灯が現れた。

 カコン、カコンと、ゆったりとした足音も鈴に合わせて

 それが人だとわかったのは、だいぶ近づいたときだ。


 光の正体は鬼灯のような形の提灯。

 その淡い光に照らされているのは、闇に溶け込む真っ黒な着流しをまとった俺たちと同じぐらいの子供だった。


 着流しからのぞく真っ白な肌に、肩まで伸びている黒髪。手にしているのは提灯と番傘。

 モノクロのテレビから出てきたかのごとく、闇色を身に纏うその子供。唯一翡翠の瞳だけに色を確認できた。

 綺麗な顔立ちとその格好が合わさって、現実味のない存在だ。

 一瞬、本物の幽霊が出てきたかのような錯覚。何人かが、悲鳴を押し殺すように息をひきつらせている。


 それは階段を降りきると、ゆるりとここにいる面々を見回した。


「こんばんは。こんなところで……いったいどうしたのかな?」


 完璧すぎて能面かと思わせるような微笑みから飛び出たのは、男の声だった。

 先ほどの鈴の音と同じように、するりと耳に届く。けれど少し重さもある澄んだ声。似たような音を当てはめるとしたら、川のせせらぎ……水の音だろうか。そう感じさせるかのような異質な声に、みなしばし言葉を失った。


「な、なんだよ、間宮じゃないか」

「やぁ、曽野くん」


 一番先に我に返ったのは、曽野だった。奴の言葉に肯定するように、その男はゆるりと返事をする。

 名前を聞いて、それぞれの緊張がほどけたかのように、空気が緩んで……蝉の合唱が戻って来た。


「間宮って、同級生の、か?」


 奴は同意するように頷いた。

 間宮亮まみやりょう。同じ高校の……たしか別のクラスである意味での有名人。そして、不羽で一番有名な、安賢寺という寺の住職の跡取り息子だ。

 特に会話もしたことがなければ、校内では制服姿しか見たことがなかったため、すぐには分からなかった。


「びっくりした」

「な、なんだよ、驚かすなよ」

「ごめんね。そんなつもりはなかったんだ」


 それぞれの文句に気を悪くするでもなく、ゆったりと返事をする姿は大人びている。


「それで、ここの一帯……夜は立ち入り禁止のはずだけど、どうかしたのかな?」


 ちりんと、番傘の鈴が鳴った。なぜ夜に雨も降ってないのに番傘をさしているのだろうか。

 浮かんだ疑問は曽根の拗ねたような言葉に消される。


「禁止って、お前もここにいるじゃん」

「僕は実家の仕事の一環だからね」

「仕事? 子供がか?」

「あぁ、こいつ安賢寺あのでかい寺の住職の息子だ」

「そういえばそうだ! じゃあ幽霊とか見えるのか!?」


 幽霊ってガキか。寺の息子だから霊感もちなんて、漫画の設定じゃあるまいし。


「視える……と言ったほうが、君たちの納涼のご期待には沿えるのかな?」


 間宮は困った様子もなく、変わらずに微笑んだまま予想外の返しをしてくる。

 案外ノリがいいタイプなのか。周囲の望む答えを用意しようか考えてただろう返答に、周囲が笑う。馬鹿馬鹿しい。


「なんだよソレ! あ、俺たちはあのダムの跡地に肝試しに行くんだけどさ、どうせならお前も来ない?」


 できるなら、上手いことこいつらをたしなめて家に帰してほしい。

 そんな願いが届いたのか、間宮はゆるりと首をかしげて微笑みを一度消した。


「あの場所に? それは了承しかねるなぁ。危ないし」

「なんだよ、ノリがわりぃな」

「君たちみたいに肝試しに来ちゃう子達を止めるのも、お役目の一つだからね。それに、大人に見つかったら大事だよ?」

「間宮が黙っててくれるなら問題ねぇって!」


 いいぞ、押せ、間宮。と心の内で声援を送る。

 こいつは女子や教員受けのいい優等生だ。きっと馬鹿を止めてくれるに違いない。そのような期待をこめて見ていると、奴はちらりと俺に視線を向けてきた。

 あまりにも無機質で光のない目に、ちょっとぞっとしてしまった。


「君たちがそれを望むなら、阻む意思は僕にはないよ」


 間宮の返答に、俺はがっくりと肩を落とす。それは曽野にも予想外だったのか、眼を瞬かせた。


「え、いいのか? 仕事だろ?」

「おかしなことを言うね。そう望んだのは君なのに。僕は仕事としてやめるよう声をかけた。でも、それを強制するような力は持っていないのだから、どうしても行くというのなら止める義理はない。人間なんてそんなものだよ」


 そこは止めろよ。ふざけんな。仕事しろ。

 と言いたい気持ちを言葉ごと飲み込んで、小さくため息を吐いた。まぁ、確かに止める義理もねぇよなと、納得する自分もいた。


「あぁ……でも」


 ほっとしている曽野に、間宮はそっと提灯を曽野の前に突き付けるようにした。

 なぜか、また空気が張り詰める。しん……と皆言葉をひっこめた。


「水辺には、近づかないようにね?」

「……水辺って、ダム跡地の泉か?」


 こくりと頷いて、間宮はまた微笑んだ。


「そう。あの子はさがしてる。ずっとずっと、助けてくれる誰かを。自分を引き上げてくれる誰かを――でも人の子があの子を引き上げるには、大きな対価が要る。だから、間違っても水面を覗き込まないようにね?」


 怪談を語るかのような、静かな声。

 あの子とはだれか、引き上げるとは何か。

 ただの語りのはずなのに、どうしてこうも臓器が冷えるような怖気を感じるのだろう。

 怖がらせようとしているわけではない、ただ見たまま、聞いたままを言っているかのような声音が、より恐ろしいと感じてしまった。


「び、びびらせるなよ! 行こうぜ!」


 空気に耐えられなくなったのだろう。曽野は吹っ切るように間宮の横を通って山の中に踏み出してしまった。他の面々も、慌てて追いかける。


「どうか、気を付けて」


 それを止めるでもなく見送って、間宮は俺に視線を向けて歩み寄ってくる。

 するりと身を寄せて来る動作はあまりに自然で、反応が遅れる。耳元で、水が流れた。


「――引き返すなら、今だよ」


 無機質な翡翠の瞳が、俺の心中を見透かすかのようだった。そして冷たい気配はすれ違うかのように通り過ぎていく。

 ばっと耳を押さえて振り向くと、彼はもう何歩も離れていた。


「希ー! 早く来いよー!」

「あぁ……今行く」


 後ろ髪を引かれながら俺はあいつらの後を追うように山へ足を踏み入れた。奴から逃げるように。


 提灯の光と鈴の音が遠ざかっていく。

 蝉の音と森のざわめきがぐわんぐわんと鼓膜を震わせる。階段を数歩上がる頃には、間宮の姿は見えなくなっていた。



 もし、もしもこの時に、あいつの忠告を素直に聞いておけば。

 今ここであいつについて引き返しておけば。

 疎まれる覚悟で肝試しそのものを諫めておけば。

 あるいは、もっと早く大人に止めてもらえるよう根回しできれば――。


 今あるモノを、すべて失わずに済んだのかもしれない。

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