理論を通した彼と剣を通す彼女の旅
雨天紅雨
第1話 彼は理屈を通す
国家に抱えられた宮廷魔術師であるエリーサは、三十の半ばにて隠居生活を初めていた。
充分に給料は貰っていたし、それに見合う――いや、それ以上の成果を国に対して与えた自負もある。
魔術とは、理屈を通すことだ。
対象はそれぞれ、通す式によって違う。肉体強化なら自分、攻撃術式ならば世界、そうしたものに理屈を通すための構造式を作り出す。
もちろん、発動には魔力が必要で、魔力の大小には個人差もあるが、エリーサに言わせれば、そこまで重要な部分ではない。
重要なのは、どう理屈を通すか、である。
理屈は、個人によって違うものになる。
攻撃術式を一つとっても、その理屈は山ほど存在し、逆に言えばその山の中から自分に合ったものを探し当てれば、それですぐ扱うこともできてしまう。今はそちらが主流であり、自分で理屈を通し、構造式を作る人は極端に少ない。
そして、理屈とは正解ではないのだ。
最終的にそれが式として完成しているのならば、たとえ屁理屈だろうが誤魔化しだろうが、通っていると表現される。
理屈を通す、そのための構造式。
式を通す、ならばそれは術式。
その両方を扱ってこその魔術師だと、エリーサは考えている。
どちらか片方でも問題ないし、いちいち訂正するのも面倒だからしないが、どちらかを忘れて、どちらかに傾倒してしまうのならば、それはきっと、単なる魔術使いでしかない。
それが悪いとは言わない。
ただ、受け入れられないだけだ。
そんなわけで見事、エリーサはこうして隠居暮らしである。2キロほど歩いて街に下りるのは、月に二度ほどで、どれも食料の確保がメインだ。
まだ三年くらいしか経過していないからか、それとも別の理由かはわからないが、寂しいと思うことはなかった。思う存分、好き勝手に魔術の実践も研究もできる。
――だから。
玄関のノッカーが鳴らされた時、少し反応が遅れた。
一年くらい前までは、たまに国の使者が顔を見せたり、弟子にしてくれと頼みに来たり、面倒な来客もあったが――いや。
来客なんて、面倒なことしか持ってこない。
そう思えば、立ち上がる躰も重く感じる。いっそ無視しようかとも考えたが、立ち上がったことを無駄にしたくないなと、玄関を開く。
――そこにいたのは、少年だった。
「邪魔をするぜ」
いや、少女だ。
やや無表情にも見えるが、しかし、その言葉は男のもので、少女の口から放たれたものではない。
「国であんたの資料を見たよ。――腹が立つくらい手抜きで、一割の丁寧な説明だけ記されているだけの、クソみてえな式だ。あんなものを覚えられねえヤツが山ほどいるってんなら、お前がこうして隠居してんのも納得だ」
「……入りな」
書斎まで連れて行く気にはならないので、居間に移動し、お茶の準備をする。
「灰皿もくれよ」
「――あんた吸うのかい?」
「おう、俺の楽しみの一つだ。お前も座れよ、シロ」
「はい」
「悪いな、こいつはまだ感情が希薄なんだ」
「人様の事情に首を突っ込みたくはないねえ。ほら、大したものじゃないが、お茶だ」
「おう。飲みたいなら飲めよ、シロ」
「わかりました」
まったく、反応が詰まらんなと彼は苦笑し、灰皿が出されてから煙草に火を点けた。
「私の式を見たって?」
「あんなのは、お前のじゃねえだろ。あんなのは算数と同じだ」
「算数?」
「1足す1は2だろ? これが算数だ。術式ってのは、1足す1は0だ――この条件を証明するための理屈を構築するものじゃないか」
「なるほどね、あんたは魔術師として話ができそうだ」
「俺なんてまだまだ、駆け出しだ」
エリーサが座ったのを確認して、彼は言う。
「とりあえず、話をしに来ただけだ」
「なんの話さね」
「そりゃお前、魔術の話に決まってんじゃねえか」
「ふん……」
魔術というのは、理屈だ。
その理屈に個人差がある以上、ある一定ラインからは必ず平行線になるものだ。つまり、お互いに深い話ができるはずもなく、あくまでも複雑な理屈の前にある理論の話で終わる。
それがわかっているから、魔術師とは、あまりお互いに会話をしない。軽い質問を二度か三度交わすくらいで、充分だからだ。
「ま、気持ちはわかるが、十五分やそこらで終わる話じゃねえよ」
「何故だい」
「知りたいだろう? ――俺は、世界の理屈を通したぜ」
「――」
嘘だ、と否定する言葉をまず飲み込んだ。
「……正気かい?」
「ほら、気になった。まずお前は何の質問をする?」
「時間だ」
「ありゃ不可逆だ。特定の条件下で穴を通すことはできるが、まあ例外にしといていい。イメージとしては、水に浮かべたボールに対して、蛇口から一滴ずつ、定期的に水を落とすんだ。中央じゃない、少しだけずらす。すると、水滴に威力で、ボールは小さく回転する――それが時間と呼ばれるものだ」
「蛇口なら、閉めることだってできる」
「おいおい、そこからかよ。いいか、ええと、エリーサだったか。何を勘違いしているかは知らないが、お前、世界が自分で終わりを迎えようって、その決断を絶対に下さないと、そんなことを
「だが、世界の仕組みとしてそれが可能なら、魔術で可能なはずだろう?」
「魔術でなくたって可能さ」
「……何を言っている」
「ナイフを首に差し込めばいい。蛇口を閉めるのと同じく、相手を殺せば、――その時間は停止する」
「――」
「死んだヤツは生き返らない。だから時間ってやつは不可逆なんだ。逆に言えば、死ななければ殺せないって状況もあるにはあるが、そこからは魔術の領分だな」
「……例外というのは?」
エリーサは口元に手を当て、テーブルに視線を落としたまま問いかける。
いいことだ。
今の会話で、考えることを優先せず、呆れたり驚いたりするだけでは、一般人の反応と変わらない。
「特定条件下で、未来への跳躍が発生する」
「条件は」
「大前提として、三百年以上の経過と、その三百年の経過を観測可能な人間の存在が必要だ。だからまあ、ほぼ不可能と見ていい。それを術式として完成させた場合、対象は自身ではなく他者へ向かう。成功率は1%以下」
「本当の意味での例外かい」
「そりゃそうだろ、時間への干渉なんてそういうもんだ」
「だったら転移系の術式も、構造式には時間への操作は組み込まれていない……?」
「そう見える、っていう事象に関しては疑った方がいいぜ。結果そうなることはあっても、過程において時間軸の操作は
「転移式の理論式は、その多くが空間作用だ」
「空間式を利用するのは事実だろうな。ただ、その論理式は一通りじゃないし、俺に言わせれば表面をすくってるだけ。論理式なんてのはな、もっと現実に即した方が良い。魔術的な思考なんて、構造式に当てはめるものだ」
「……たとえば」
「ふん」
彼は笑って、片手を出し、その上に
彼の陣は、円形が五つ繋がって丸くなっており、一つの円の中心点を繋げば五角形。その外側に十個の丸が並んだ、ほぼ平面図形である。色は黒と白、それが消えたのが術式発動の合図。
「――っ」
エリーサと、黙って聞いていたシロの位置が変わっていた。
「
「一体どんな理屈を通したんだい? いくら座標指定をしたところで、移動という点の理論式が成立したって話は聞いたことがないね」
「現実的には、理論式の成立よりむしろ、実際に構造式を作る方が大変だけどな。理屈は簡単だ、お前とシロを同じにしちまえばいい」
「同じ……
「移動に執着しちまうから、思考が固まるんだよ。お前だって学生を相手にするなら、柔軟な発想が必要だと、そう言うだろ。まあ、年齢とともに頭は固くなるんだろうけど」
「…………」
「睨むなよ、俺だって同じだと言ってるんだ。ここに同じ人間が二人いる――これは、理屈の通し方としては不可能だ」
「そうだね、同一人物は複数存在しないと、世界が定義してる」
「だが、二人は同じ椅子に座っていて、同じ世界の中、人間として、存在しているわけだ。結論から言えば、この論理式は、――入れ換えるまでもなく同じである」
「入れ替わる現象そのものが付属品だと?」
「あくまでも、論理式はな。ついでに、場所も同じである、と付け加えれば転移式の完成だ」
「だったら構造式は、自分と同じ存在を魔力形成してから、同一場所として定義し、そこから入れ替えを?」
「本筋はそれで合ってる。どうだ? 時間も移動も対して重要じゃねえだろ。唯一関連する距離だって、魔力が届くかどうかって話でしかない」
「なるほどね。それにあんたは、面白い術陣の使い方をするんだね」
「詠唱するほど構成は甘くねえし、補強も必要ない。術式の発動には構造式が浮かび上がるもんだが、それを先に自分から出してる。俺なんてまだまだ、ワンアクションだからって速いと思っちゃいねえよ」
「短縮化に効率化かい。あんたは戦闘を重視してるんだね」
「そりゃするだろ。いずれ必要になるだろうしな」
「へえ?」
「んなことよりも、次の質問は?」
「あ、ああ……だったら」
サラーサが問いかける。
彼が笑いながら、さも当然のよう返答をする。
――そこから二時間、会話は続いた。
結果として、サラーサは額に手を当ててうつむいていた。
「なんてことだ……」
「難しく考えすぎてた自分が馬鹿らしくなるだろ? 世界ってのは、単純にできてるもんだ。その単純を、成立させるのが難しいだけでな」
「可能と不可能を、あんたはどうやって判断してる?」
「俺らは
「なるほどね……確かに、あんたは世界を通した」
「認めたんなら、次の話だ」
「――なんだい?」
「腕が立つ相手を紹介してくれ」
「戦闘訓練かい? あんたが?」
「まさか、俺じゃなくてこいつさ」
言って、隣のシロを顎で示す。
「残念ながら、俺の戦闘の仕方は特化しちまってて、誰かが真似するようなもんじゃない。かといって、俺自身が矢面に立つのは面倒だ」
「腕が立つ、か」
「できれば俺とも戦えるくらいな相手が理想的だ。多少の基礎は教えたが、ろくに得物すら持てないような状況じゃ、どうしようもねえ。心当たりは?」
「腕は立つんだが、クソジジイでもいいかい」
「現役ならな。ただ――」
「ただ?」
「三年から五年を見てる。つまりその間、俺も一ヶ所に腰を据えるわけだが――」
言って、彼はサラーサを見て。
「なんなら、近場にしてやってもいい」
「そりゃ私次第ってことだね? ――三日待ってな」
「じゃ、その間に俺は下の街で宿を取っておく。面白そうな本を二冊くらい貸してくれ。いくら世界に理屈を通したからって、魔術のすべてを知ったわけじゃないからな」
「はいよ」
五年間だ。
隠居暮らしをしていたサラーサは、その五年で現役に復帰した。
そのくらい彼との会話は刺激的だったし、隠居して自己満足をしていることに耐えられなくなった。
けれどそれは同時に、別れであり。
次に顔を合わせたのは、もっと先のことである。
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