これから始まる、とある二人の物語
@yasuokouji
これから始まる、とある二人の物語
青年は海を見ていた。
満月がきんきんと光って見える秋の夜。
砂浜の上で胡坐をかき、背広の襟を立て、両手を吐息で温めている。ビロード地の天幕に包まれる手触りと温もりが懐かしく思い起こされる。瞼を擦った指先は少し濡れていた。その指に風が痛いほど染みる。改めて海の奥に目をやる。
見ているとだんだんと海と夜空との境も判然としなくなる。光も音も吸い込んでしまうような、天と地が逆さまになったような足元がおぼつかない気分になる。振り返ってみると自分が着けてきた足跡は風を受け、形を変え、もう、他の砂の起伏と区別がつかない。
青年は首を巡らし周囲を見渡す。すると一つの岸壁に目を付けた。恐らく柵であろう物の影に気が付く。意を決すると砂浜と道路の間際に停めてあった車まで戻り運転席に滑り込む。
助手席に置いてある七輪と炭に手を伸ばすと抱え上げ膝の上で抱きしめる。七輪のひんやりとした感触が心もとなかった自分の存在を確かなものにし癒され落ち着きを取り戻すことができた。
七輪をゆっくりと助手席に戻すとから目を逸らし青年は助手席に放り投げてあった情報端末を手に取り地図を表示させる。すると彼の顔が情報端末が放つ青白いに光に照らされた。顔色は悪く痩せこけているのに目だけは爛々と光っている。
大地を蹴って駆け出して、柵を飛び越え風を切り、月を目指して跳んでいく。
そのような夢想を想い描くと青年は静かに車を発進させた。
目的の場所にたどり着てみるとそこは展望台を兼ねた駐車場だった。季節外れの海の展望台、時刻もそろそ真夜中であり、他に車が止められているとは全く予想することはなかった。あたりに建物はなく眺望を望むしかなく、数台しか止められない狭い駐車場。あたりに人影はなく持ち主は車の中にいると思われた。
できるだけ間隔をあけて停車する。車をよくよく見てみると若い女性が好みそうなかわいらしいものであることに気が付く。舌打ちが出た。
青年は若い女性に対して苦い思い出しかなかった。その車の持ち主であろう若い女性、しかもこんな時間にこんな辺鄙な場所に車でやってくるようなもの好きはならば、口さがなく尾ひれをつけてさぞ面白おかしく周囲の者に経験談を語るであろうと予測した。
自分が旅立つ姿を事情を知らない見知らぬ誰かに面白半分に語り継がれるなどまっぴらごめんだった。
青年はその車が移動するまで待つことにしシートを倒しフロントガラス越しに夜空を見上げた。これまでの、決して長いとは言えない人生を振り返る。つらいことばかりが思い起こされ、腹立ちまぎれのうさばらしに、かわいらしい車に向けて悪態の一つもつきたくなる。
「早く帰ってくれないか」
「そういうわけにはいかないの」
心臓が掴まれたかと思った。
声はすぐ後ろ、助手席あたりから聞こえた。若い女の声。ありえない事態に青年は瞼を閉じ、口を閉じ、顔をぶるぶると震わせる。身を固くしながら今自分がいる場所が自殺の名所と呼ばれる場所である可能性に思い至った。
自分がこの場所に引き寄せられたのなら他にも引き寄せられた者がいてもおかしくない。それが何度も繰り返されればそこはいずれ自殺の名所と呼ばれるようになるであろう。
「そう怖がることなんてないわ。ちょっと一緒に来てほしいだけ」
その柔らかい声音に余計身を固くする。罠だ。そう判断した青年は無視を決め込んだ。
「聞こえているのでしょう? だからそれほどまでに怯えているのでしょう?」
青年は答えずに陽気な音色の口笛を吹こうとした。濁った音しか出て来ない。それでも目を閉じ真っ赤な顔で懸命に口から息を噴きだす。
「なにをとぼけようとなさっているの? お話ししてくれるまでわたしは帰りませんわ。重大なお願いがあるのですもの」
青年は口笛を諦めた。鼻歌を試みる。勢い余っって洟が噴き出した。
「言うことを聞きなさい。この洟垂れ小僧」
女の低い声が聞こえなかったように青年は無視を決め込んだ。別の誰かの声を求めてカーラジオを点けようと目を閉じたまま手探りで操作する。思うようにはかどらず思わずついぞ目を開けた。
すると女の顔が目の前に。
「ひっ」
怯える青年に女は低く抑えた声で言った。
「いい? 朝になったら消える、なんて思ったら大間違いよ。おわかり?」
青年が震えながら上目遣いに頷くと女は続けた。
「ところであなたには私がどう見えているの? ちゃんと私をごらんなさい」
その言葉に青年は目を細め、ゆっくりと女の全身を見た。
驚いた。よくよく見てみると年ごろの美しい娘がそこにいる。勝手に何やら恐ろし気な異形の姿を予想していた。目の前で微笑んでいるのは垢抜けて溌剌とした若い娘であった。
だが、その姿は透き通っており助手席に置いた七輪の上に正座の姿勢で浮かんでいる。
娘は微笑むと言った。
「ねえ。この七輪、どけてくださらない?」
娘の願いに青年は真っ当と言えば真っ当であり、的外れと言えば的外れの質問で答えた。
「な、なぜでしょう? 車のドアをすり抜けられるのなら別に気にすることもないかと」
「ふふふ、変なところに気が付くのね。幽霊になっても人間だったころの考え方に縛られてしまうものなのよ。お料理に使う道具にお尻を載せるなんていけないことでしょう?」
納得すると青年は言われたとおりにした。悠然と助手席に腰を落ちける女は透き通っているいこと以外普通の人間と大差がないように思えた。会話が成り立ち悪意を感じられない。ならば幽霊といえどもおびえる必要がないように思えてきた。すると途端にどうしても聞いてみたいことがあることに気が付いた。
「あの」
「なあに」
「今、お幸せですか?」
娘は眉間にしわを寄せて首を横に振った。その様子に青年は慌てて詫びる。
「すいません。立ち入ったこと聞いてしまって」
「あら。怒ってるわけではないの。ただその質問に答える前にやってほしいことがあるの」
「どんなことでしょう? 僕は役立たずのポンコツで使い捨てられるような男です。あなたのお役にたてることがあるとは思えません」
「救急車を呼ぶくらいはできるでしょう」
「え? でも、あなたはもうすでにお亡くなりになってらっしゃるんですよね?」
「違うわ。あの車の中。女性が死にそうなの。助けてあげて。残念だけど私はものに触ることができないから無理なの」
青年は思わず答えた。
「そっとしておいた方がいいでしょう。余計なお世話と思われるだけですし、僕は僕で大事な用があるのです」
「あら冷たいのね」
「ええ。僕は冷たいのです。ですがみんなそうではありませんか。人間なんて勝手なものです。今は他人を助けるなんて真似は、お人好しを通り越して間抜けと呼ばれる時代ですよ」
「あら、じゃあ私も勝手にあなたにつきまとうことにするわ」
「どうぞご自由に」
「あら、さっきとは大違いね。あれほど怖がっていたのに」
「今の僕には何も恐れることがないことを思いだしましてね」
「ねえ、望んでも望まなくてもあと100年もしたら死ぬのよ。あなた」
「はは、当たり前でしょう。何を急に」
「この七輪、自殺に使うのでしょう?」
「いえいえ、明日は朝早くから市場によって、獲れたてのさんまを買おうと思いまいして。一度、七輪で焼いたさんまを食べたかったのですよ」
「あら、そう。それならそれでいいけれど」
「ええ、そのためにもうここで眠って体を休めたいのです」
「わかったわ。しょうがないわね」
「では消えてください」
「ええ。でもね。ここにいる幽霊が私だけだと思って?」
「え?」
「あなたがここで死ねばあなたもここの住人になるのよ。みんなの笑いものとしてつらい思いをしながらね」
「なぜ僕が笑いものなんかに」
「涙目で鼻水たらしておびえていたのはどこのどなたかしら? これから死のう、なんて考えてるくせに」
青年はほほを赤らめ俯いた。
「それにね」
「はい?」
「あの車の女性は自殺じゃないの」
「え?」
「自殺に見せかけて殺されようとしているのよ。止めようとしたのだけれど犯人がわたしに気づいてくれなくて」
「え?」
「あなただけなの。気づいてくれたの」
「それを早く言ってください」
青年は車から飛び出した。
車の女性を助けるために必要な処置をし、救急車を呼んだ。やってきた警察官にたまたま通りがかって目撃したということにして幽霊から聞いた事件の話をした。そして取りつかれることもなく無事に幽霊と別れ、自宅に帰ることにした。そのころにはすっかり日は昇っていた。
青年は疲れきり自宅の安アパートに戻ると布団に倒れこむように寝転がった。久しぶりに味わう充実感を噛みしめながら明日から人生をやり直そうと誓い、娘の顔を思い浮かべ感謝の言葉をかけながら瞼を閉じた。
そして夜中に目が覚める。最初に気が付いたのは部屋の壁を照らす赤くて丸い光だった。
「なんだ? あれは」
一気に目が覚めた。光の元をたどってみるとインターホンが鳴らされたことを知らせるランプが灯っていた。時計を見てみると蛍光塗料の塗られた針が午前三時を指し示している。ドアの向こうでなにやら人の話し声が聞こえる。
「ピンポーン」
チャイムの音が狭いアパートの部屋で鳴り響く。息が詰まる。
「ああいう場所に行くと何かを連れてきてしまうというのは聞いたことがあるが、まさか、取りつかれてしまったのだろうか。僕は人生をやり直すことに決めたというのに」
恐ろしくてたまらない。足が震えている。呼吸が乱れる。身動きできぬまま暗い部屋で立ちつくしていた。
しばらくすると隣の部屋のドアが開かれる音がした。若者の声が聞こえた。
「すいません。そちらはお隣さんですよ。こちらへどうぞ」
そして声を押し殺した女たちの嬌声が漏れ聞こえてくる。
どうやら隣の部屋の住人の客であるらしいと判断した青年は胸をなで下ろす。だが確認せずにはいられなかった。ドアののぞき穴越しに廊下を覗いてみる。昨夜の娘が微笑んでいた。思わずドアを開けてしまった。
「来ちゃった」
「ど、どうして、ここが」
「わからないわ。ただこっちの方へ呼ばれている気がしてふわふわとやってきたの」
「え、ええ。ふわふわとですか。まあ、わかりました。では近所迷惑なので中に」
畳の上に寝具しかないというような殺風景な部屋が珍しいのか娘は首を巡らしながら見ている。
「これが最近の殿方の部屋なのね。ずいぶんと殺風景ね」
「ええ、必要なものしか置きませんので」
「ふーん。ドアが開くのをずっと待っていたのよ。途方に暮れていたところに運よく隣の部屋の方のお友達が間違えてこの部屋のチャイムを押してくれたというわけ」
「成程」
「昨日は必死だったから気にしなかったけれど勝手に人さまの部屋にあがるのなんて、やはり抵抗を感じるものなのね」
昨晩の出来事の所為かの口調は心なし砕けたものなっていた。
「ええ、そういうものかもしれませんね。ところでここで合っているのですか。僕は呼んだ覚えがないのですが」
「ええ。他にわたしを呼んでくれそうな人に心当たりはないわ。それにここだって感じたもの。あなた、何か心当たりはなくて?」
「あ」
「なに?」
「眠る前にあなたことを考えました。感謝しながら眠りました」
娘は合点がいったように頷いた。
「きっとそれね。お盆ではご先祖様に感謝したりしてお迎えの準備をするものね。でも残念。わたしもあなたを思い出したのだけどわたしの想いはあなたに届かなかったのでしょう?」
「残念ながら気が付きませんでした」
「まあ、生きている人と幽霊ですものね。できることに違いがあるのでしょう。ねえ時々わたしのことを思いだしてね。いつもと同じ人たちとあそこにいるのに飽き飽きしているの。お呼ばれしたならとやかく言われずこちらに来れるわ」
「そういうものかもしれませんね。お約束しましょう。僕が生きる気力を取り戻したのもあなたのおかげですし」
二人は見つめ合い微笑みあう。顔を赤らめた娘は咳払いをすると言った。
「あ、そういえば自己紹介がまだだったわね。わたしはお気づきの通り幽霊よ。名前はちょっと差し障りがあるから好きに呼んで下さる?」
「わかりました。いい名前を考えます。ちなみに僕は人造人間です。ですから名前はありません。お好きに呼んで下さい」
「え?…… 人造人間?」
絶句する娘に青年は告げた。
「ええ、あなたが生きてらっしゃった時代はわかりませんが、今は人が人を模した生き物を作るのが当たり前の時代なのですよ?」
「そ、そうなのね。ずっとあそこにいたから、わたし……」
青年は思い返したように告げた。
「ええ、技術の進化は目まぐるしいものですよね。僕達よりも高性能な人造人間がどんどんつくられてしまうえに、僕は機能の一部が壊れてしまって人々から必要とされなくなってしまいました」
「そう……」
「はい。そのため解雇を言い渡されてしまいましたので。もうここには住めなくなりますがまた別の場所でお会いしましょう」
娘の心に青年の笑顔が強く強く胸に刻まれた。思わず手を伸ばした。その手は青年の腕をすり抜けてしまった。唇を噛み俯く娘に青年は言う。
「悲しむことはありませんよ。僕らは気持ちでつながっていることは証明されたではありませんか。技術の進化などは関係なく」
青年と娘は見つめ合った。ほのわずかに指先が重なった。触れ合うことなく重なる指先から温もりが伝わる気がした。
そして二人は頷きあった。
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