第59話 第二ボタン
心配された卒業式だったけど、式典は滞りなく執り行われている。昨日のトラブルなんてまるでなかったかのように順調だ。
ぼくは正直な所、昨日リハーサルを見ている身なんだから涙が出るわけないだろうと思っていた。だけど音楽の力なのかな。
それとも卒業を実感した卒業生たちの想いが心を打ったのかも知れない。もしくは卒業証書を受け取った中原紗奈が、こちらをじっと見ていたせいだろうか。こんなぼくでも中々に込み上げてくるものがある。
卒業ソングを歌う頃には、周囲からぐすぐすとしゃくり上げる声も聞こえはじめていた。中には泣き崩れていく女子の姿も、ちらりほらりと見受ける。
それでもなんとか卒業生を拍手で送り出し、卒業式は無事に終わりを迎えることができた。式典の後はそれぞれが別れを惜しみ合い、写真を取ったり寄せ書きしたり、思い思いに最後の時を過ごしている。
中庭にはちょっとした人だかりが出来ていた。きっと恒例の告白大会でも行われているのだろう。結果はどうあれ、きっと甘酸っぱいバラ色の思い出になる事だろう。
学園のマドンナ代表、中原紗奈の姿も人だかりの中にちらと見えた。今日の彼女はきっと忙しいはずだ。何人の猛者が彼女に挑んでいくのだろうか。健闘を祈る。
ぼくはと言えば、ひとり廊下を歩いた。とくに何かしようと思ったわけでもない。残念ながら、告白大会に参加する予定も今のところはなさそうだった。
ただそのまま帰宅しちゃうのも何か違うかなとも感じていた。きっと少々、熱にあてられてしまったのだ。すこしばかりは、おセンチな気分にもなろうというものだ。
自然に足が向いた先は音楽室だった。
誰もいない音楽室。主人を失ったピアノだけが取り残されていた。ぼくと一緒だ。まるで取り残されてしまった気分になる。
そんな風に自分の世界に浸っていたわけだけども。勢い良く開かれるドアに、そんなぼくの想いは吹き飛ばされてしまった。
バンッ。
「見つけた、君と言う奴は! こんな日にまで、どうしてこんな場所にいるんだ」
現れたのは中原紗奈、そのひとだった。
走ってきたのだろうか。頬を赤く染め、綺麗な髪がすこし乱れている。そしてまず間違いなく怒っていた。怒った顔もまた美しいとは思うけれど、妙な迫力も相まって正直ちょっぴり怖い。
「卒業式だぞ! 私は今日、この学校を卒業するんだ! 挨拶くらいはしにきたってバチも当たらないだろうに!」
先輩はそのままツカツカとぼくに歩み寄っては、スッと手を差し出した。
なるほどね、そういう事だったのか。
みなまで言わなくても分かりますよと、ぼくは学生服のボタンに手をかける。もちろん掴んだのは、第二のボタンだった。
いやあ。ぼくとしたことが気付きませんでしたよ、先輩。ぼくの学生服はまだ、もう一年使わなきゃいけないっていうのに。
「まったく、まいったね」
声に出したかどうかは定かじゃないけれど、ぼくが勢い良くブチッとボタンを引きちぎると中原先輩は言う。
「守屋君。私はボタンなぞ求めてないよ」
あれ?
よく見ると先輩の手は、『受け取る手』じゃなくて、『受け渡す手』をしている。そしてその手にはボタンを握る代わりに、黒い筒が握られていた。
ぼくの勘違いに気付いた先輩はなにを言うでもなく、ニマニマとした表情でこちらを睨め回してくる。とても満足そうな顔をしているものだった。ぼくの頬はきっと、先輩よりも赤く染まっていることだろう。
「守屋君。取り敢えずだ、これを見てはくれまいか」
中原先輩の手にある筒は卒業証書入れのようだ。受けとって中身を確認してみる。中には丸まった紙が一枚だけ。取り出して広げていく。そして息を呑んだ。
おやまあ、これは。
「見ての通りだ。私の卒業証書はどうやら盗まれてしまったらしい」
中に入っていたのは、白紙の紙だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます