裏アカ、つくってみた。
はる
第1話
網羅性とは何ぞや。
俺は、目の前のパソコンと睨めっこをしながら頭を働かせる。
俺の席は窓際にあり、ブラインドの隙間から太陽光が差し込んでいた。
今日は、すこぶる快晴のようだが、そんな事はどうでもよかった。
「全部今日マストでよろしく」と言われた目の前の大量の仕事をやり切る事に全力を注がなければ、意気揚々と輝く太陽が夕日に変わり、月を呼び寄せ、やがて、次の日の太陽が昇るまで、会社に居続ける事になってしまう。
俺の仕事は、システムエンジニアだ。
とある保険会社に常駐してシステムを作っている。
システムエンジニアと聞くと大変な仕事というイメージがあると思う。
ずばり言おう。
その通りだ。
何が大変かというと、とにかく「思い通りにいかない」のだ。
一つのシステムを作り上げる流れとして、要件定義(どんなシステムを作るかを決める事)、設計、構築・テスト、リリース、という大まかな工程がある。
現在、構築・テストの段階に入っている。それなのに、急に追加の要件が出てきたり、テストで大量のミスを発見したり…といった、予期せぬ事態が次々に起こり、その度に、「今日中に対応してくれ」と、顧客から詰められるのだ。
そして、今日の俺が課せられた任務は、テスト項目の見直しだ。
昨日、俺は、終電ギリギリまでかけて、システムのテスト項目の一覧資料を作り上げ、その資料を今朝顧客に提示したのだが、「このテスト項目の一覧では、網羅性が足りない。」と突き返されてしまった。
さらに、突き返しておきながら「今日中に修正版が欲しい」と言われた。
鬼か!と思ったが、お客様は鬼ではなく神様なのだ。
そして、今に至る。
網羅性とは、「抜け漏れがなく整っていて隙がない」事を指すらしい。
それを俺は求められている。
もう一度、洗い出しから始めて、資料を修正し、上司に確認してもらい、顧客にメールで送付する。
そこまでを何とか終電までにやり切りたい。頭を悩ませながらも、俺は決意する。
社会人になって5年目の俺、小椋俊太(おぐらしゅんた)は、こんな感じのサラリーマン生活を送っている。
つまりは、毎日遅くまで残業をしている「社畜」なのだ。
「働き方改革」なんて、遠い国の施策のように感じる。
ここまで、いかにもシステムエンジニアというような小難しい単語を並べてしまったので、プライベートの話をしたいと思う。
こんな俺にも、2年程付き合っていた彼女がいた。
大学時代からの友人で、卒業後の飲み会で意気投合し、付き合うようになった。
だが、つい数ヶ月前に別れた。
彼女は、別れ際にこう言っていた。
「俊太は優しいし、いい人だと思う。でも、 " うんうん " 、 " そうだね " って話を聞くだけで、『あなたの意見はないの?』といつも思ってしまうの。仕事だってそう。不満があっても、それを変えようとしないじゃない。」
彼女は、常に前向きで、変化を求める女性だったと思う。
それに対して、俺は、マイペースで流れに身を任せるタイプだ。
彼女の言う通り、嫌な事があっても「そんなものだろう。」と、すんなり受け入れてしまう。
人の意見に対して、否定をしない。
否定して人を傷付けるくらいなら、自分が我慢をすれば良いと思うし、何かを変えようとする事で、誰かと衝突したり、壁にぶつかってしまう事が面倒だと感じてしまうのだ。
仕事だって、こんなに忙しくて、理不尽さを感じる事さえあるのに、その気持ちを全て押し込めて、何となく日々を過ごしている。
彼女は、そんな俺に嫌気が差したのだろう。
別れ話を切り出された時は、当然悲しかったし、引き止めたかった。
でも、その反面、それが彼女の決断なら仕方ないと、そのときも俺は自分の気持ちを押さえ込み、まるで他人事のようにその事実を受け入れてしまったのだった。
俺は、元々システムエンジニアを目指していたわけではない。
全くの畑違いで驚くかもしれないが、高校時代ピアニストを目指しており、音大のピアノ科を目指して日々勉学に励んでいた。
子供の頃からピアノを習っており、小規模だが、コンクールのキッズ部門で賞を受賞した事もある。
ピアノを弾く事が好きだった。
何をやっても無関心な事が多かった自分にとって、「好き」と思えるものはピアノだけだったと思う。
男がピアノというと、少し珍しい印象があるかもしれないが、高校時代は、そのお陰でちやほやされた。
音楽の授業後に友達から当時の流行りの曲をリクエストされ、それを即興で弾くととても盛り上がった。
ピアノさえあれば、自分はみんなの中心にいられる。俺にとって、その事実が嬉しかったし、それによってピアノを弾くことが更に好きになっていった。
しかし、現実は厳しいもので、音大の試験には不合格だった。
その時のショックは、計り知れないものだった。大袈裟ではなく、この世の終わりかと思う程だった。
沢山勉強をしたし、正直なところ自信もあった。だからこそ、現実を受け止めきれず、暫く抜け殻のようになっていた。
音大に落ちた時点で、あと一年頑張るという選択肢も考えたが、うちは裕福な家庭ではなかった為、浪人するほどの経済的余裕はなかった。俺には、諦めるという選択肢しかなかったのだ。
結局、滑り止めの一般大学の試験になんとか合格し、音大に受からなかったショックを引きずりながら、アルバイトとサークル活動に明け暮れ、何となく就活をし、最初に内定をもらった今の会社に就職した。
そして、めでたく社畜になるという現状だ。
こんな現実を、高校生の俺は夢にも思わなかっただろう。
あの頃の俺は、ただ純粋にピアノが好きで、将来の自分はピアニストだと思っていた。
今となっては、ピアニストの自分を妄想する日々を過ごしている。
この日は、なんとか22時には帰る事が出来た。
社内には、まだチラホラ人が残っていた。
彼等は、ちゃんと家に帰るつもりはあるのだろうか。
毎度のことだが、ストレスが溜まっていた。
飲みにでも行きたいな、と思いながらスマホを開くと、大学時代の友達の山口から連絡が来ていた。
「おぐっち、まだ会社?軽く一杯どうだ?」
最高のタイミングだ。
俺は、二つ返事でオッケーした。
ちなみに、「おぐっち」というのは俺のあだ名だ。小椋なので「おぐっち」と呼ばれている。まぁそう呼ぶのは、こいつくらいだが。
山口と俺は家が近いので、お互い徒歩で飲みに行く事ができる。だから、この時間からのお誘いでも何ら問題はない。それに今日は金曜日なので、朝まで飲み明かしたって構わない。
俺は山口に返事を返し、電車に乗る。
この時間の電車は、有難いことにそこまで混んではおらず、俺は運良く座る事が出来た。
ほっと一息ついていると、3人くらいの男子高校生らしき集団が乗ってきた。
こんな遅い時間まで遊んでいたのか?部活帰りか?などと考えながらイヤホンを耳に装着し、音楽をかけようとした。
しかし、 iPod の電池が切れていた。くそっ、充電しておくべきだった。 仕方なく俺はイヤホンを外し、駅に着くまで寝る事にした。
ゆっくり目を閉じ、後ろの窓ガラスに後頭部を付けた。電車の微妙な振動が心地良く全身に伝わった。
そうしていると、高校生集団のやけにテンションの高い話し声が耳に入ってきた。あーうるせー、と思いつつも我慢するしかない。
iPod を充電しておかなかった事を再び後悔しながら、高校生たちの会話をなんとなく聞いていた。
「この画像ツイートしたらヤバいかな?」
男子高校生の一人がはしゃいだような声で言った。
「いや、これヤバくね?ツイート通報されるよ。」
「つーか、わんちゃんアカ凍結されるべ。」
残りの二人からも、テンションの高い声が返ってきた。
「わんちゃん」とか「あか」とか…。最近の高校生は宇宙人になったのか?言葉の意味がわからない。
「やっぱやばいかなー。」
「やべぇよ、この画像はやめとけよ。」
「フォロワー減るぞ。」
いや、とりあえずその画像が何なのかすごく気になるのだが。と、色々考えていたら眠れなくなってしまったじゃないか。仕方なく俺は目を覚まし、スマホを取り出した。
調べてみたところ、「ワンチャンとは、ワンチャンスの略で、『可能性がある』『もしかしたら』のような意味」「アカとは、アカウントの意味」という事がわかった。
なるほど。
彼らの会話を要約すると、「規定に反する画像をツイートしようとしているので、もしかしたらアカウントが使えなくなっちゃうかもよ」という事なのだろう。
もはや、スマホがなければ、高校生と会話なんて出来やしないな。
そうやって、半ば感心しながら彼等の会話をひそかに解読しているうちに、彼等の話は進んでいった。
「まぁ俺、凍結されても裏アカがあるから大丈夫よ。」
「裏アカ」?
また新たな単語が出てきた。まったく飽きない連中だ。
俺は、神様スマホ様で再び検索した。
「裏アカとは、空想上の自分を Twitter 上に作り上げ、現実とは違う自分を表現するアカウント。また、本アカでは繋がりたくない、ちょっとディープな趣味のつながりを求める人が利用する場合も多い。」
なるほどなるほど。
裏のアカウントだから「裏アカ」か。
本アカウントとは別のメールアドレスを登録して、全く違うアカウントを作るという事だな。
「その裏アカ、何に使ってんだよ?」
「それ言っちゃったら裏アカの意味ないだろ。」
高校生たちの会話は続いていた。よく喋る元気な子達だ。
悩みなんてないんだろうな。俺もこの頃に戻りたいものだ。彼らの会話を最後まで聞いていたかったが、駅に着いてしまったので渋々席を立った。
結局、どんな画像をツイートしようとしていたのか、それだけがひたすら気になった。
駅から徒歩5分くらいのところにあるアメリカンダイナーに入った。
70年代のアメリカをイメージした小さな店で、店内はコカコーラのポスターや車の写真等が並んでいる。
山口と会う時は、いつもこの店だった。
バーカウンターの端の方に座っていた山口が手を振った。
ツーブロックで体格の良い体つき、そしてパーカーにジーパンが基本スタイル。
それが山口の特徴だ。
「お疲れ。」
「うぃー。」
うぃーってなんだよ。こいつは、金曜日なのに元気だな。
「もう酔っ払ってるのか?」
「いやいや、まだ1杯飲んだ程度よ。」
ほぼ素面でそのテンションの高さかよ、と思わず感心していると、
「俺はほら、仕事してないから金曜の夜でも元気なのさ。」
と、俺の心を読んだように山口が言った。
そう、こいつは2年前に仕事を辞めたのだ。
元々、営業の仕事をしていたのだが、「時計職人になりたい」という目標が出来たらしく、突然、仕事を辞めて専門学校に入った。
本当に、突然だった。
思い立ったが吉日と言わんばかりに、彼はスパッと退職したのだ。
俺には到底真似出来ない。
この思い切りの良さは、尊敬に値する。ただ単に、考えなしなだけかもしれないが。
そういうわけで、年は同じだが、彼はまだ学生だ。
「そうだったな。今日も学校?」
「あぁ。そろそろ試験が近くてな。本当は飲んでいる場合じゃねーのよ。」
「じゃあなんで誘ったんだよ。」
俺のツッコミに山口は笑った。
「おぐっち、仕事は相変わらず大変なのか?体調崩してないか?」
急に優しい口調で山口が聞いてきた。お前は、おかんか。
「大丈夫!と言いたいけど忙しいよ。毎日残業の嵐って感じ。」
俺は、仕事の相談をよく山口にしていた。
山口はお調子者ではあるが、根は真面目で、俺の悩みも親身になって色々聞いてくれる。
だから、俺もついつい沢山話をしてしまい、沢山お酒を飲んでしまう。この日もご多分に漏れず、2人だけの静かな宴会は深夜まで続いた。
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