7「潜入」(1)


 生まれて初めて食べた『パスタ』という料理は、とても美味しいものだった。南部で一般的に食べられる麺とはまた違う食感に驚き、濃厚なクリームソースやトマトベースの挽肉――エドワードから分けてもらったものもしっかり完食した――の深い味わいに目を見開く。

 あまりに美味し過ぎて、会話もそこそこに一心不乱に食べてしまった。フォーク一本でガツガツと口にかき込もうとするエイトの姿に、エドワードは笑っただけだった。彼は品良くフォークとスプーンで、一口サイズにパスタを絡め取って食べていた。どうやらあれが、『マナーの良い食事』というものらしい。

 凄く綺麗に食べるものだから「オレにも教えてくれ」と言ったら、「練習が必要ですので、今のところはそのままで結構ですよ。何より、エイトさんらしくて良い」と笑われてしまった。満足そうに笑う老人の姿に、店員達も顔を顰めたのは最初だけで、服を汚さないようにと紙エプロンを持って来てくれた。穏やかな老人、という偽装は、本当に絶大な効果を持つようだ。

 こんな品の良い穏やかに笑う老人が、昨夜、人殺しの気配を垂れ流し、エイトに向かって手刀を叩き込んだのだ。その全てを飲み込みそうな漆黒の瞳が、冷酷に細められる。怪しく閃く手刀。絡め取られる手足。愛おしそうになぞる舌先。

 歩きながら自らの頬に熱が集まるのを自覚して、危うく思い出しそうになった出来事を頭から掻き消す。ぶんぶんと頭を振っていると、エドワードの声が降って来た。老人のくせに彼は高めの身長をしている。体格の良い人間の多い軍部でも、高い部類に入るだろう。降って来た声の鋭さに、エイトの表情も引き締まる。

「着きましたよ。この角を曲がればスペンサー邸です」

 昨日も身を隠したその曲がり角で、エイトは深呼吸をひとつ。昨日と全く同じ状況で、しかし昨日とは決定的に違う。隣には頼りになる老人がいて、潜入の手筈も出来ているのだ。

 瞳を閉じて愛しいデミのことを想う。話に聞いた恐ろしい実験は、まだ準備不足だということだ。どうかまだ、手遅れにはなっていないように願う。とにかくあの太陽のような笑顔が、失われるようなことはあってはならない。

 軍人として迎えに来ることは出来なかったが、それよりも彼女の身の安全の方が大事だ。

「エイトさん……」

 エイトが瞳を閉じて気持ちを落ち着かせていると、エドワードが小声で名前を呼んだ。さすがに邸宅の近くのために、二人とも神経を研ぎ澄ませている。辺りには、人の気配はない。それでも気をつける。気配を消した人間の動きを、そこかしこに感じるからだ。

「なんだよ?」

「察しが良くて助かります。時たま姿が見えるダークスーツが、特務部隊の人間です。この様子だと邸宅内にも数人は潜入しているでしょう。誰がスパイかわかりません。なので邸宅内では基本的に『設定』通り、言動には気を付けてください」

「ああ。わかってるよ」

 エイトは前を向いたまま小声で答える。視界の隅に時たま、老人の言葉通りの人影がちらりと映り込む。気配を消した偵察部隊、つまり非戦闘員だろう。本物の暗殺者の動きを追えるとは、エイトもさすがに思ってはいない。

「私は約束を破ることはしたくありませんが、この場合は仕方ありませんね……」

「ん? 約束?」

 溜め息まで聞こえてきそうな老人の声に、エイトは思わず振り返り掛けて、そのまま続けられた言葉に遮られた。

「さあ、行くよ。エイト」

 いきなり呼び捨てで名前を呼ばれて、エイトは『演技』だとわかっていても、その言葉に胸の高鳴りを抑えられなかった。エイトとエドワードは『孫と祖父』という設定で潜入するのだ。普通の関係を演出するために、普段の口調でエイトの名前は呼び捨てで、そしてエドワードのことはなんと『じいちゃん』呼びだ。

「ああ……いや、うん」

 なんだかどう答えたら『自然』で『正解』なのかわからないまま、エイトもエドワードに続いて物々しい門の前に立つ。いつの間にか繋がれた手が――震えてる?

「……どちら様でしょうか?」

 口調こそ丁寧だが、随分と高圧的な声が門の横にある扉から響いた。おそらく警護の人間だろう。

 砂漠の国の豪商は、自身の邸宅を守るために軍隊とは別の私兵を用意している者が多い。商人という職業柄か、敵が多い者が多いのだろう。この門を守る警備の者は、エドワード曰く――つまりデザートローズの陸軍の調べた情報によると――近接戦闘以外に、射撃訓練も受けた者達らしいのだ。

 砂嵐によって狙撃の成功率が絶望的なデザキアにおいて、この邸宅の私兵の主装備は剣と銃であるのだという。長い廊下の奥から攻撃出来るために、こういった比較的広い室内戦では有利になるらしい。確かにこちらが近付く前にハチの巣にされたら、たまったものではない。

「今日からこちらでお世話になります、エドワード・ディマーと孫のエイトです」

 門の隣には使用人のための通り道として木製の扉が設置されている。丁度目線のところに覗き穴があるらしく、そこから鋭い視線を感じるが、エイトはわざとそれに気付かないふりをする。胡散臭い名前を平然と名乗る老人の隣で、出来るだけ怯えた表情を作って、不安を取り除くために周りをきょろきょろと見回す、といった仕草をする。

「失礼しました。旦那様から仰せつかっております。どうぞ、こちらをお通りください」

 警備の声が、口調はそのままに言葉だけの謝罪を行うと、それに続いて目の前の扉が開く。使用人として働く人間を通すために、わざわざ門を開く必要もない、ということだろう。案外あっさりと開いた木製の扉は、門よりもよっぽど薄く、扉の向こうには手入れの行き届いた庭園が見えている。

「ありがとうございます。さあ、行くよ。エイト」

「う、うん」

 老人から名前を呼ばれるたびに、どくりと波打つ心を隠し、エイトは彼に続いて扉を抜ける。

 周りを取り囲む塀から見える通り、邸宅に続く前庭は広大で、そして美しかった。砂漠の乾いた大地とは思えない程の草木の種類に、そんなものには興味もないエイトでも思わず感嘆の声が漏れる。

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