3「老人」(2)
「っ……ぇ、ど……」
掛けたかったのは抗議の声か、それとも甘く溶けたような相手の名前か……
薄くなんとか開けたその口に、更に深く差し込まれる。バクバクと煩い心臓に火照る顔とは対照的に、頭の中では酷く穏やかに、エドワードを受け入れる自分がいた。
いくら相手が元軍人と言っても、筋肉量は若いエイトの方が多い。本気でなりふり構わず暴れたら、さすがのエドワードも諦めて離れてくれるだろう。何より今も絡まり合ったままの視線には、こちらを案じる光すら見える。
自然に流れる涙を乾いた指先が拭ってくれる。潤いの少ないその指先が逆に扇情的にエイトには映った。漆黒の中で赤が淫らな色に染め上げられている。こんな色、知らない。
男同士だ。今日初めて会った。相手は爺さんだ。退役してはいるが軍人だ。この街の人間じゃない。オレは幼馴染のことが好きなはずだっただろう。こんなことしてる場合じゃない。
心はそう悲鳴を上げるようにどくんどくんと大きく震えるのに、頭の中の穏やかな自分が、まるで首輪でも掛けられたかのように受け入れる。
このしわがれた手に触れて欲しい。潤いの少ないその舌先が心地良い。世の闇を全て納めたようなその瞳に、オレの痴態が映っている。乾いた色気のあるその声に、名前を呼ばれて芯から震える。
「エイトさん……知っていますか?」
「な、なに……が……?」
唇を解放されて、呆けたままでエドワードを見上げる。彼を受け入れた心を表したように、ベッドに押し倒された淫らな姿勢だ。ほんの少しでも離れるのが酷く不安に感じて、思わずその腕を掴んで引き寄せた。
もう一度短く唇を合わせて、エドワードは優しく「我儘な獣さんですなぁ。出会った時にはまるで、ハイエナのような気配だったのに」とふぉっふぉと笑う。そしてすっとその瞳を細めて、低い声で「可愛いですよ、エイトさん」と愛の言葉を零すのだった。
「子供はどうやって出来るか、ですよ。口づけも初めてのエイトさんには、難しい質問でしたかな?」
また楽しそうに笑うエドワードに、エイトは恥ずかしさで拗ねることしか出来ない。男女が一夜を共にすることで子供が出来ることぐらいは、さすがにエイトにもわかっている。でも……
「……詳しくは、知らない……」
エイトは知らないのだった。同級生で友達と呼べるのは女のデミのみだ。年頃の異性の友達に、そんな話題が振れるわけもなく。親も特に異性との間で問題があったわけではないので、エイトには何も教えなかったようだ。なにより身体を鍛えている方がずっと、異性といるより楽しかったのもある。もちろんデミのことは別問題だが。
「そうでしょう、そうでしょう」
うんうんと頷きながら、エドワードは優しい手つきでエイトの短髪を撫でる。また面積の広がった漆黒に囚われて、エイトの赤が色っぽく揺れる。
「スタンダードな手順でいくと、一つのベッドで男女が愛し合うことで、子供は出来ます。愛し合うというのは――」
そう言いながらエドワードがエイトの耳を舌先でくすぐる。酷く甘い声が出て、その声にますます羞恥心が高まり、頬の熱量が増した気がした。意地悪な舌先が首筋まで下がったところで、続く言葉をそのまま紡ぎ出す。
「こうして相手の心も身体も愛おしんで尽くすのです。相手の心も身体もぐずぐずに蕩けさせてあげるのです。気持ち良いですか? エイトさん?」
普段だったらこんな勝手なこと、絶対に許しはしないのに。どんな相手と喧嘩をしたって、どれだけ無様にマウントを取られようが、絶対にされるがままにはさせなかった。どんなに不利な状況になったって、最後には絶対的な暴力で、相手の権限を全て叩き潰してきたのだ。それなのに、この筋肉に衰えすら見える老人には、されるがままになっている。
――だって、愛されてるから……
エイトはわかっていた。自身が愛されているということを。産まれて初めての真の意味での愛情を、与えてくれたのは幼馴染の女でもなく、今日初めて会った老人だった。
名前しか知らない。所属を明かしてはくれたけど、それを証明する術はない。名前だってもしかしたら、本名じゃないかもしれない。年齢だって、見た目の年齢しかわかっていない。
しかし、この耳元で流れる言葉だけは何故か、信用出来ると確信していた。エイトの中の獣に近い鋭い勘が、老人の声が、瞳が、嘘偽りなく真実を述べていると告げていた。
「……きも、ち……いいっ」
目から流れる雫を舐めとられ、その優しい瞳に甘えるように縋る。すぐに求めていた口づけを再び与えられて、嬉しさに身を捩る。
エドワードの手が胸から腹、そして腰へと這い下りる。その異質な感覚に、エイトはびくりと震えて身を離した。答えのわからない若い身体が、しかしその答えを知っているかのように熱くなる。
「おやおや、随分お利巧にしていたのに、ココから先は許してはくれませんかのぉ?」
ふぉっふぉと笑って身を起こしたエドワードに、エイトはふくれっ面でそっぽを向いた。恥ずかしいし、なんだか自分が自分じゃなくなる気がした。熱く滾る下半身が、まるで獰猛な獣のように熱を持っている。
その時、部屋に電子音が響いた。それはエドワードが持って来ていたのであろう、部屋の隅に置いてあった黒い鞄の中から響いている。デザインが古臭い。いかにも老人が持っていそうな手持ちの鞄だった。
「お若いですなぁ。私も久々に楽しめました。お楽しみの途中で申し訳ありませんが、少し席を外しますので、お一人でなさるなり、なんなりと」
エドワードはそう言って、音が鳴り響く鞄を持って部屋から出て行った。あの音はおそらく携帯端末の着信音だ。廊下に出た程度なら声は少しは聞こえるかと思い、乱れた服もそのままに部屋に一つの扉に身を寄せる。
この部屋はベッドから扉まで一直線の造りだ。歩きにくい自身の身体に難儀しながら、それでもエドワードの声を少しでも聞きたくて息を潜める。
しかしその声が聞こえることはなかった。声どころか廊下には人の気配すらしない。いい加減、木製の扉にぴったりつけた耳が冷たくて、エイトは諦めて立ち上がり、服装と同じく乱れたベッドに戻るのだった。
「……クソジジイ」
悪態というにはあまりに甘いその響きに、エイト自身どうすれば良いかわからなくなっていた。
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